幼形成熟
57作目になります。少しずつ体調はよくなりつつあります。もう五月ですね。
1
乾いた夜風が髪を揺らし、煙草の煙を揺らす。街は寝静まり、夜空には少しばかりの星が灯っている。「東京でも星が見えないことはない」というのはこういうことなのだろうか、と僕はベランダの手摺に肘を乗せながらぼんやりと考える。
不意に灰がぽとりと落ちた。遥か下に落ちた。この下には茂みがあったか、駐輪場があったか。そんなことはどうでもよかった。今は寝静まった街の静穏と細やかな星空を楽しんでいたかった。
時刻はゆっくりと流れているようだが、実際は想定よりも滞りなく、既に午前三時を迎えていた。
僕は煙を溜めて、ゆっくりと夜に向かって吐き出した。白色の煙が暗闇から滲み出たように浮かび、上昇する。
夜明けが近い。
そんなことを考えると少しばかり憂鬱になる。頭痛がする。誤魔化すように煙草を吸う。
三月の冷たいようなそうでないような空気を撫でる。冬の終わりと春の始まりのジャンクションである三月の終わり。夜の透明度は高い。
僕は煙を吐き出した。煙草はすっかり短くなっていた。だから、灰皿に押し付けた。灰皿はもう灰で溢れそうになっていたが、僕は気にしなかった。ちょっとの灰が風に靡いてふんわりと夜に消えた。一瞬、それが舞い落ちた雪か花弁に見えて、僕は疲労を感じた。
実際、全身が怠かった。重かった。神経の末端までの電気の伝達速度に遅延が生じているようだった。何処かで人身事故でもあったのだろうか、なんて考えつつ、僕は小さく欠伸をした後、最後にもう一度だけ夜を撫でてから部屋に戻った。
窓を閉めて、ベッドに近付いた。そこには彼女が眠っている。僕はベッドに腰掛けて、彼女の頬に触れ、天井を見上げた。
ありがちな虚無が僕の胸を一杯にした。僕はテーブルの上の檸檬サワーを手に取った。それは彼女の飲み掛けで半分ほどが残されていた。だから、それを喉に流した。虚無を避けるように液体は下っていった。合法的に摂取するアルコールには何の特別感もなかった。
僕は天井に眼を遣りながら、溜め息を吐いた。
天井に何があるわけでもないが、不思議と眼が離せなかった。
やがて、ぼんやりと浮かび始めた。
2
それは春の記憶。桜の花が舞う頃の記憶。
僕は大学のキャンパスの隅の方にあるベンチに腰掛けて時間を潰していた。白痴のような顔で空を見上げて、思考は空白のまま、ある意味で贅沢な時間を過ごしていた。
ちょうど春休みで授業などはなく、僕はバイトもしていなかったので、時間的な制限は何もなかった。しかし、家にいても仕方がない、と外に出て大学に足を運ぶが、それだけで息絶える。モチベーションの矢印は蜷局を巻いて、進むことも退くこともできず、架空の噴霧器が脳内で仕事をするばかりだった。
今日は果たして何曜日だっただろう。そもそも、何日なのだろう。時間はどうだろう。教えてくれるのは空の色だけ。
植えられた桜から散った花弁が雪か灰のようだった。
「隣、座ってもいい?」
不意に声がした。僕は反応するのに多少の時間を要した。声の方に眼を向けると、背の低い黒髪の女性、彼女が立っていた。彼女は二重にしては細い眼を細めた微笑みを僕に向けていた。
「いいと思いますよ。僕のベンチではないので」
「それなら、お言葉に甘えまして」
彼女が僕の隣に腰を下ろした。
僕は少し警戒した。何しろ、呆けた顔で空を見上げている男の横に座っていいかなどと訊ねてきた人物だ。もしかしたら正気ではないかもしれないと思ったのだ。
「……何か?」
だから、僕は先に訊ねた。
「え?」
「態々、僕の横に座ったのには何かしらの理由があるんじゃないかと思ったので……他にも空いているベンチはいくらでもあります」
「あぁ、そんなこと……。先客がいるベンチがいいなって思っただけ。多少の人間関係構築を期待してね」
「構築してどうするんです?」
「さぁ? 私にはわからない。発展させるのかもしれないし、壊すのかもしれない。その時々の私だけが判断できること。今の私は構築の発展を選択した私でしかないの」
「難儀なことですね」
「私でもそう思う」
この後、僕と彼女は言葉を交わさないまま、ただ空を見上げていた。湿ったような薄い雲がぼんやりと空に滲んでいた。柔い風が吹いても桜の花は脆弱に散った。どちらが先に席を立つかの我慢比べのようだった。
「桜の本領は散り際にあると思わない?」
彼女はそう言った。自然な言葉の流出だった。
「そうですね。でも、それは桜に限った話ではありませんね。桜以外の花にだって当て嵌まりますから。例えば……牡丹のような。落ちることに意義があるような……或いは……」
「或いは、命のような?」
彼女はこちらも向かずに言った。
「……はい。花ではありませんが、命も散り際が最大限に輝くものだと相場は決まっています」
「本当かな? 見たことや体験したことがある?」
「いいえ。見たことはないですし、生きているので体験したこともないですね。そもそも、輝いているかどうかというのは客観的な判断に基づくものである筈です。僕に訊ねるのはお門違いかと」
「うん、わかってるよ。少し揶揄っただけ。正気の私が誰かに幸福のあり方はどうだろうか、みたいなことを説いているようなものだから」
「今は狂気?」
「揶揄えるのは正気の証拠だよ」
彼女は悪戯っぽい表情を僕に見せた。
「君、面白いね。名前は? 学年は? 学部は?」
僕は彼女の要求した情報を提出した。
「意外にも同学年。学部は違うけど」
そう言うと彼女は交換だと言うように自身の名前を告げた。
一際強い風が急に訪れて、その情報を掻き消すように桜が揺れて、花弁が降った。僕は彼女の名前を聞き逃すかと思った。春風の作戦は成し遂げられてしまいそうだった。けれども、僕は聞き逃さなかった。自分でも変な話だと思う。
「……以後、お見知り置きを」
彼女はそう言って微笑み、僕に手を伸ばした。僕は彫像のように動かず、接近してくる彼女の手を甘んじて受け入れた。彼女は僕の頭に触れ、そうして「桜の花がくっついてた」と笑うのだった。僕はきっと呆気に取られたような表情を見せたと思う。大した変化があったわけではなかったにしても、気取られていたと思う。
3
その日以来、僕と彼女の交遊は始まった。交遊とは過ぎた表現で、実際のところは、大学で擦れ違ったら挨拶をする程度のものだったが、大抵ひとりだった僕と同じで彼女もまたひとりであり、食事などで席を一緒にすることが自然と増えていった。
「パスタって素晴らしいよね」と彼女が言った。食堂は混んでいたが、その声はよく聞こえた。
「どうしてそう思うんですか?」
「フォークで巻いて食べるから」
「巻くことに意味があるんですか?」
「違う違う。フォークで巻くことに意味があるの。この動作がとんでもなくお洒落だと私は思うんだ」
そう言うと彼女は実際にスパゲッティをフォークの先にくるくると巻いて、口に運んだ。客観的に見て無駄のない動作だった。僕は特に反応を示したわけではなかったが、彼女はにこやかに笑みを浮かべていた。子供っぽい性格だと何度も思ったが、それが彼女だった。
「麺料理なら他にもありますが」
「わかってないなぁ、君は。パスタだからいいんだよ。そういうマニアックな点が芸術性なの。焼きそばとかだったらどう? 説明できない違和感があるでしょ?」
「固定観念では? パスタは巻くもの、焼きそばは巻かないものだって。もしかしたら、焼きそばだって巻いてみたら思ったよりも洒落ているかもしれません」
「そうかなぁ。今度、気が向いた時に挑戦してみようかな」
「それは実行しない人の言葉です」
「そうだね。その説って凄い有効だと思う。実例がここにあるし」
「つまり、実行しないじゃないですか」
こんなような中身のない会話を会う度にした。会話は彼女が僕に話を振る形で始まるのが殆どだった。大抵の話は翌日になれば記憶から薄らいでしまう夢と紙一重のようなものだったが、それでも確かな充足感のようなものを僕は感じた。
「君は消極的過ぎるね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ、そう。私が言うんだからそうに違いないの。この世界で君のことを一番知っているのは私なんだから」
「オーバーですよ。出生体重とか知らないでしょう?」
「知っていたら怖いと思わない?」
「怖いですね」
「だから、一般的で客観的な目線で、最も君を知るのが私なの」
「そうですか」
「そろそろ敬語止めていいのに。同じ学年だし」
「最初の癖って直らないんです」
「直す努力をしていないからだよ」
「そう……かな」
「うんうん、素直だね、君は」
彼女はそう言うと僕のコーヒーにミルクを入れた。
「あ」
「このコーヒーは私のもの」
「飲み掛けですよ」
「関係ない。このコーヒーは私のもの。だって、君はもうこのコーヒー飲めないでしょ? ブラック信者なんだから。大人しく、もう直に来る私が頼んだ紅茶を飲むんだね」
「別に構いませんけど」
「敬語」
「構わないけど」
彼女はコーヒーを喉に流すと顔を顰めて「まだ苦い」と言った。
「図書館って大きな声を出したくなると思わない?」
「思わない」
「え、そう? 禁止されていることってやってみたいでしょ? 作っちゃいけないものを作ってみるとか、持ち込んじゃないけないものを持ち込むとか、押しちゃダメなボタンを押してみるとかさ」
「どうして例が核兵器関連なの?」
「そういうレポートを昨日書いたから。昨日の私の所為だよ、全部。図書館で騒ぎたいなってのも昨日の私の影響。唆し。洗脳」
「昨日の君を罰すればいいの?」
「うん。でも、昨日の私はもういないんだなぁ、残念ながら。昨日の私は日を跨げないんだ、そして、これは今日の私もまた然り。明日の私に今日の私は会えないんだ」
「時間が同時に存在していると考えれば、全ての君は重なって存在していることになるんじゃない?」
「同時に存在して重なり合っている状態は『同一』なんだよ。私が会いたいのは『別』の私なの」
「難儀だね」
「私ね、君のその『難儀だね』って口癖が好きなんだ」
「変なの」
喫茶店の記憶にしろ、図書館の記憶にしろ、僕が保持している彼女との交遊の記憶は、どれも彼女の少しばかり突飛な行動、或いは発言を根幹に残っている。彼女は会う度に自身の何らかに対する考えを僕に述べる。彼女はそういう人間だった。
「夏休みは旅行に行こうよ」
講義の後、窓越しに蝉の声が騒々しい昼下がりの廊下で彼女はそう言った。彼女は薄手のカーディガンを羽織っていた。身体が冷えやすいタイプなのだと聞いていた。
「何処へ?」
「太平洋側と日本海側、どっちか。君が選んでいいよ」
「太平洋側にしよう」
「どうして?」
「直感だけど。いけなかった?」
「そんなことないよ。でも、君のことだから、ステキな理由があるんじゃないかなって……期待してたかな」
彼女は態とらしい表情を僕に向けながら言った。
「君は僕を過大評価しているよ。僕はロマンチストじゃなくて、リアリストなんだから。太平洋側、具体的には伊豆半島とかならばリーズナブルだと思っただけ。つまり、直感」
「随分と理屈っぽい直感だね。頭の回転が速いのはいいこと」
「君ほどじゃないよ」
夏休みまで残り一週間ほどの時間があった。一週間のテストを熟さないといけないのだ。ただ、僕には苦じゃなかった。夏休みが楽しみだった。素直で無垢なものだったと思う。小学生の頃でさえ夏休みに何の期待もしていなかった僕が大学生の、十九の夏に期待していたのだ。何らかの変化を、それが良いものだったとしても悪いものだったとしても。
そうして時間は進み、夏休みになった。呆気なく迎えてしまったと思った。この点では昔の僕と何ら変わらなかったようだ。
「夏休みだね」
校舎を出ると彼女はそう言った。
「夏休みだね」
僕は言う。
「暑いね」
「夏だからね」
「夏が好き。爽やかな夏も熱で汗ばんだ夏も。私、死ぬなら夏がいい。夏の夜がいい。一番天国から遠い気がするんだ」
「天国を信じてる?」
「あったらいいなって思うよ。天国も地獄も、天使も悪魔も、幽霊も宇宙人も、ムー大陸もアトランティスも。眼に見えるものだけが『在る』と決めつけてしまったら、その瞬間から世界の大きさは半分になっちゃうんだよ。でも、そもそもね……」
「生きている以上は世界の半分だけしか見ることができない?」
僕がそう言うと彼女は一瞬驚いた顔をした後、何だか泣きそうな顔になって僕の眼を見つめた。
「君は私?」
「違うよ。別の人間」
「でも、私の考えていることがわかるみたい」
「かれこれ君と三ヶ月も接しているんだ。何となくわかるよ」
「変なの」
彼女は笑った。
僕も笑ってみた。本当に笑えていたのかどうかは彼女しか知らない。
4
夏休みを迎えて一週間足らずの週末、僕と彼女は計画していたように旅行へと出掛けた。僕が去年取得していた免許で車を走らせて、目的地の伊豆半島の先端へ。
「海だね」
彼女は助手席でそう言った。市街地を抜けて、海沿いの道に差し掛かった時だった。手に持っていたコンビニのアイスコーヒーが揺れた。
「そうだね。海に思い出はある?」
「特に。君は?」
「そうだね。幼い頃の感覚に過ぎないけれど、砂が熱かった。煎られるとはこれを苛烈にしたものなんだなって思った。そしてね、海は冷たかった。陽に照らされている筈なのに、冷たかった。あと、パラソルが咲いていた。造花みたいだった」
彼女は窓の向こうで流れていく風景を眺めながら言った。
「それは良い思い出?」
「うん。幼い頃の思い出だから。嫌なことがあっても大抵は笑ってお仕舞いになる。だから、良い思い出」
「嫌なことがあった?」
「あったかもしれない。玩具が波に連れてかれてしまったとかね。でも、もう笑い話。玩具はこの世にひとつだけじゃない」
「この世にひとつだけのものなんてないからね」
「そう。作ろうと思えば何だって作れる。ひとつだけだって思い込んでいるのは何でだろうね? 君だったらどう説明する?」
「倫理の壁を越えないため。そして、価値の高騰を狙うため」
「命はひとつしかないから無駄にしてはならない、ってね。最近は廉価の傾向にあると思うけれど」
「結局は所持者の希望する価値に準じるんだよ」
彼女がアイスコーヒーを口にした。カップは汗をかいていた。
やがて、ある人気のない海岸で車を停めた。彼女が幼い頃に訪れたことがある場所であるようだ。駐車場は風に飛ばされてきた砂に侵食されていた。僕と彼女は車を降りた。空は少し雲が掛かっていたが、それで暑さの釣り合いが取れていた。
僕たちは砂浜に足を踏み入れた。無垢な砂浜だと思った。漂着物もあまりない。ふと、人生の終わりはこういう場所で過ごしたいと思った。
「熱くないね」
「太陽が隠れてるから」
「水は思い出より冷たいんだろうね」
「止めておく?」
「止めない。貝殻拾うんだ」
彼女は幼子のように無邪気な顔でそう言って、海に足を浸けた。「冷たい」と言って、彼女は僕に手を伸ばした。だから、僕はそれに応えて、水の中に足を進めた。
軟泥の感覚が不思議だった。時々肌に触れる揺れるものは海草の類だと思った。彼女は少しずつ汀から離れていくが、深度に大きな変化はなかった。彼女が「遠浅なんだよ」と教えてくれた。
「入水自殺って勇気があるよね。溺死って、一番苦しいんでしょ?」
「そう聞くね。試したことはないから知らないけれど」
「試してみる?」
「今日はパスしておくよ」
不意に彼女が身体を屈めたと思えば、貝殻を拾って僕に見せた。
「二枚貝だね」
「これ以上ないほどに淡白で見た通りの感想を貰っちゃった」
「だって、二枚貝だからね」
「そうだね。巻き貝じゃないね」
そう言って彼女は拾ったそれを投げ捨てた。
「要らないの?」
「今更要らないかな。貝殻を拾うのはコレクター精神を建前として、本音は思い出のため。大人になって、幼少の可愛らしい思い出に縋る必要があるから、そのために拾う。君は集めなかった? 貝殻でも石でも、少し考えれば必要性のないもの」
「僕は集めなかったな」
「君らしいね」
「そうかな」
「そうだよ。私が言うのだからそうなの」
彼女は笑った、のだと思う。陽の光が彼女の顔を暗くしていたし、光が眩しくて眼を細める他になかった。
「夏が終わったら秋が来るんだね」
帰りの車内で彼女はそう言った。少しばかり翳りを見せる空が車窓に映っていた。雲の割れ目から落ちた光が海を突き刺していた。空っぽになったプラスチックのカップはもう汗もかいていない。
「やがては冬だって来る」
「そう。そうしたら今度は春が来る。悲しいことだと思わない?」
「悲しいと思ったことはないかな。それが常識として巡っているんだから。少なくともこの国ではね」
「それが悲しいんだ。こんなに美しい現象が常識になってしまっていることが。私は異を唱えたいけれど、声はあまりにも小さい。唱えたところで何の意味もない。季節に限った話ではなく、この世界にはそういうものが如何せん多過ぎると思う」
「そういうものだからね、世界って」
「時々ね、考えるんだ。生きていることの無意味に意味を与える方法」
「どんな方法がある?」
「ふたつあって、ひとつはもうやった。ひとつはまだ」
「それは?」
「いつかわかるよ。私といればね」
彼女はそう言って眠ってしまった。ぼんやりとした熱の中を浮かぶように車を走らせていた。無意識に口笛なんかを吹いていた。
貝殻や石を集めた経験は記憶にない。集めてもいつかは無意味になってしまうことが最初からわかっていたから。だから、僕はこんな風になったのだと知っている。バルーンアートみたいなものだと知っている。
彼女が言ったように夏が終わって秋がやって来た。学内のいくつかの樹は色めき始め、何処からともなく乾いた空気が流れていた。気のせいだろうけれど、世界が褪せているようだった。
5
十月の始め、僕は彼女と暫く会っていなかった。正確には会えなかった。彼女は母親を亡くしたことで帰郷していた。小学生の頃に父親を亡くしていて、彼女には兄弟も親戚もいなかったため、まさに天涯孤独の身になってしまった。彼女はその身辺整理に追われ、暫く東京に戻ることができなかったのだ。
再び会った時、彼女は気丈に振る舞って見せたが、そこにはどうしても隠し切れない影のようなものがあった。顔色があまりよくなくて、少しばかり痩せたようだった。それなのに普段と変わらない笑顔を見せていて、その違和感が痛々しかった。
カフェの二階席は人が少なかった。その日は雨が降っていたからだろうか。でも、単なる偶然だったと思う。
「会えるのを楽しみにしてたよ」と彼女は言った。彼女はずっとストローでアイスコーヒーを掻き混ぜていた。ミルクも砂糖もすっかり溶けてしまっていただろうが、彼女はひたすらに混ぜていた。
「血の繋がりがある人を亡くしたのは初めてじゃなかったけど、それでも大人になるにつれて、感覚が研ぎ澄まされてしまったみたいだ。こんな感覚、鋭敏になる必要なんて少しもないのに。不思議だね」
彼女は言った。僕は何も言わなかった。
「ひとりになってしまったんだ、って思うと世界って狭いんだなぁって思えるね。きっと、電球を消していくみたいなものなんだろうね」
「命は極端だからね」
「オンかオフだもんね」
彼女はそう言った。漸くコーヒーを口にしていた。
「私、ひとりになっちゃった」
彼女は言った。
「ひとりになっちゃったの」
同じことを幾度か。
だから、僕は言った。
「僕がいる」と。
すると、彼女は少し微笑んだ。
「うん」
望んでいた答えが返ってきて嬉しかったのだろう。しかし、僕としてもそれは嘘偽りを微塵も含まないものだった。
「いつか、お墓に眠るでしょ?」
「きっと、そうだね」
「……ちょっと、楽しみ」
彼女は笑った。カフェの窓を雨が撫でていた。
僕は少し可笑しく思ってしまった。
ただ、春の日に偶然出会っただけの関係なのに、と。しかし、思った。生まれてからここまで、或いは生まれる前から偶然以外の何が世界を成り立たせていたのだろう、と。
僕は彼女を見た。穏やかな顔をしていた。
僕は思った。偶然を必然と呼ぶのだと。
6
カフェの窓の向こうを雪がちらついていた。白というより灰色だった。季節は冬になり、コートを着た人々が街を歩いていた。僕と彼女も例に漏れなかった。彼女は店の中でもコートを着たまま、相変わらずアイスコーヒーを飲んでいた。
「アンバランスだね」
僕は言った。
「私の中では釣り合いが取れてるんだよ」
「秩序って主観だからね。僕は否定しない」
「そうそう。主観と客観は同じだよ。偶然と必然みたいな感じで……表裏一体って言うのかな」
「どちらとも取れる? 同時に存在する?」
「同時には存在しないよ。表と裏ってそういうものだから。仮に一体化していても表と裏の概念は消えないまま。私と君も表裏一体だったら良かったのにね。そう思わない?」
「同時に存在できなくなるよ」
「イレギュラーだってあった方が人生って面白いよ」
彼女は笑って言った。
「僕もそうなんだよね?」
「そう。イレギュラー。きっと、私からというより、君にとって私がイレギュラーな存在なんだよ」
「何も君だけじゃない。出会う人全部がイレギュラーだよ。大抵が厄介。でも、君は違ったよ」
「……急に、君はそうやって……真顔でさ……」
「訂正した方がいい?」
「校閲済み。私がOK出したから訂正は不要だよ」
「出版しても?」
「いーや、ダメ。私が預かります。金庫に入れるから」
「君が暗証番号を自分の誕生日にすることを知っているよ」
「そんな単純だと?」
「でも、君は近頃、いくつかを自分の誕生日に僕の誕生日を重ねた数字に変更したことも知っているよ。携帯電話のパスワードとかね。指の動きが前と違うんだ」
「君ね、そういうの凄いけど変態的だね……」
彼女は僕を軽く睨めつけてから笑顔になった。
「私にしか言わない方がいいよ」
「勿論」
窓の外で待っていた雪は次第に量を増し、やがては積もるほどになった。僕は雪が好きではなかった。けれど、彼女は雪が好きだった。一度、彼女の提案で雪だるまを作った。大学生にもなって作るようなものではないと思ったが、純粋に楽しいと思えた。
結局、人間の本質は子供であるのかもしれない。それとも、僕や彼女がまだまだ成長の最中にあるだけなのかもしれない。
そして、僕はこの頃から感じ始めていた。
自分は彼女に依存しているのだ、と。
物事を考えようとすれば彼女がいた。
時々、夢を見た。そのどれもが白飛びしていて、捩れていて、或いはモアレが生じてしまって、正確な記銘に至らなかったが、それでも憶えていたのは、どの夢にも彼女がいて、どの彼女も僕の夢の展開を大きく変えてしまっていたことだ。例えば、死のうとしていた僕は何処かの樹で首を吊ろうとするが、そこに突如現れた彼女が「生きよう」と言うのだ。そうして、僕は意志薄弱にも生きる選択をするのだ。
「依存? 歓迎だよ」
僕が打ち明けると彼女はそう言った。
「依存するほどに君の中で私が重要ってことだものね。嬉しいことだよ。私は君の生きる柱なんだね。いいよ。もっと、もっとジャンキーになっても。私は受け入れるよ」
「重責にならないだろうか」
「ならない。何故なら、これはある種、相互的な契約だから」
「相互的?」
「そう。私も君に依存する。いや、もうしているんだけどね。つまり、共依存の関係性ってこと。どう? 嬉しい?」
僕は頷いた。
「素直になったね、君も。日本は十二月の終わりで冬の最中。何もかも凍てついているのに。木々や水面……あとは空も。でも、君だけは雪が融けたみたいだね。春になったね」
「もうじきに年が明けるね」
「明けたところで何もないけどね」
「そうだね。何もない。ただ、時間が進むだけ」
「君は初詣なんかに行ったりするの?」
「しない。君は?」
「奇遇なことに私も出向かない。私は即物的でありたいから」
7
年末、僕は実家に帰らなかった。そして、帰る家族のいない彼女は僕の部屋にいた。適当にテレビを眺めながら適当な会話をして、適当にカップ麺を食べて年を越した。何も特別なことはなかった。
年が明けて、僕と彼女は窓辺で煙草を吸った。彼女が吸ってみたいと言って持ち込んだものだ。ふたりとも未成年だった。
「非合法で吸うから美味しいんだろうね」
彼女は言った。
「だから、犯罪に入れ込む人がいるのかな」
「どうだろう? 大抵の犯罪は生きるために行われているから。趣味で犯罪をする人も中にはいるんだろうけど」
「猟奇殺人とか?」
「まぁ、あれは趣味だろうね。仕事じゃないし」
彼女は煙を吐き出した。
初めての煙草は想像よりも吸い易かった。幾度か煙を吸い込んで噎せることはあったが、一本吸い終わる頃には何でもなくなっていた。辛味のような苦味が舌に心地好かった。これもまた非合法の味なのだろうか、なんて思ったことを憶えている。
「次は非合法にアルコールでも嗜もうよ」
「いいよ」
「私たち、大人になれない子供だね」
「そうだね」
「それでいいよね、きっと」
彼女は短くなった煙草をコーヒーの空き缶に捨て、新年の冷たい夜空を見上げていた。そこには雲も星もなく、ただ、つまらなそうに夜が広がっていた。別に何てことはない。ただの夜だ。誰かが特別に仕立て上げただけのことだ。ずっと昔から夜に違いなどない。
夜風に吹かれて散った灰が夜に浮かんだ。
それは白かった。
僕は吸い殻を空き缶に捨てた。
そうして、その明くる日、彼女はアルコール飲料を手に僕の家を訪れた。僕と彼女は品評会のようにいくつかの缶を開けた。
「ビールは微妙だね……」
「そうだね。でも、こっちの檸檬サワーは飲み易いね」
「うんうん。炭酸ジュースだね」
「少し頬が赤いよ」
「君こそ。普段は青白いのに……可愛いじゃない」
「僕、普段青白い顔をしているの?」
僕と彼女は一通りの缶を空にすると、お馴染みでもあるように窓辺で煙草に火を点けた。ふうっと息をすると、煙が夜空に昇っていった。煙草を吸うなら夜だと思った。
「いい日だね」
「そうだね」
「君がいるからいい日なのかな。どう思う?」
「僕に訊くことじゃないよ」
「煙草を吸うと、肺の辺りがざわめくね」
「それって向いてないんじゃないかな、煙草に」
「向いていなかったら止めるの?」
彼女はそう言った。少し寂しげな眼をしていた。
「好きなら構わないと思う」
だから、僕はそう答えた。
「三月の始めに君は大人になるね」
「そうだね、一応は」
「先を越されてしまうようだね」
「たった十日程度の違いだよ」
「一日って大きいんだよ。その日一日で何でもできる。何かを成し遂げることだって、何かを終わらせることだって」
「成し遂げると終わらせるは同じじゃない?」
「表面上ね。君はさ、命を投げ捨てるとしたら、それは『成し遂げる』って言える? それとも単に『終わらせる』だけ?」
「事情と状況によると思う」
「事情と状況も同じじゃない?」
「表面上はね」
僕は肩を竦めた。
「僕は今なら『成し遂げる』と言っても問題はないと思う」
「それはどうして?」
「後悔のひとつもないから。人生を完遂するという意味で『成し遂げる』と僕は表現することができると思うよ」
「いいね」
彼女は笑って言った。
夜空は泣きそうな曇り空だった。
8
時間は少しずつ過ぎていった。大学の後期が終わり、時間は有り余っていた。僕の彼女は毎日のように他愛ない会話を繰り返した。不思議なことにレパートリーは尽きなかった。具体的な話でも抽象的な話でも、ふたりで雑ではあるが議論をしたりしていたら時間は潰れていた。とても有意義な処理だった。
やがて、三月の始めに差し掛かった。
「明日だね」
彼女はアルコールで頬を赤らめながら言った。
「何が?」
「君の始まりの日」
「あぁ。忘れていた」
「君が忘れても私が憶えている。問題ないね」
「難儀な話だね」
「何か言いたいことは? 大人になるに当たって」
彼女は空き缶をマイクに喩えて僕に向けた。
「……どうとも思わないかな。ただ、大人になるんだなって。いや、それすらも淡いな。大人になっていいんだろうか?」
「なりたくない?」
「わからない。どんな選択が正しいのか」
「ならなくていいよ。もう行き止まり。選択に行き詰まったら、妥協してしまおう。より安易な方へ。苦難はぶつかったらその時考えよう。何かを見越していたら疲れてしまう。そんなことは、大人になりたくてなった大人がやっていればいい。私たちには関係ないよ」
「そうかな」
「そうだよ。私が言うんだから、そうなの」
彼女は言った。
「ねぇ、明日になる前にドライブしようよ」
「え?」
「日が変わるまであと三時間。今日の夜は晴れ。空気が乾燥しているね。ドライブにはお誂え向きだと思わない?」
「そうかもしれないけど、もうアルコールを摂ってしまったよ」
「関係ないよ。楽しければ」
「猟奇的だね」
「楽しくなかったら生きてても仕方がないからね」
「そうだね、じゃあ、行こうか」
僕と彼女は車に乗り込んだ。中古で買った軽自動車で、暖まるのに時間が掛かって仕方がなかった。僕は彼女にブランケットを渡した。
「寒いね」
「冬だからね」
「酔いが醒めそう。夢が醒めるのと同じようで気持ちが悪い」
「暖まってきたし、そろそろ出すよ。まだ頭は正常であるつもりだけど、事故を起こしたらどうしようか」
「起こしたら考えよう」
「それもそうか」
「酔ってるね」
「飲んだからね」
僕はアクセルを踏んだ。いつもよりも軽く感じた。
国道に出た。車の往来が激しかった。信号やコンビニの灯りが大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。それは花火に似ていて綺麗だったが、僕は少し吐き気を覚えた。
それでも車を走らせて、やがては高速道路なんかに入って、車を法定速度プラス十五キロで走らせた。襤褸の軽自動車には悲鳴を上げてもおかしくないほどの負担だっただろう。一瞬だけ頭を過った「帰れなくなるかもしれない」という心配も「まぁ、いいか」に変換された。
「速いね」
「高速道路を走っているからね」
「夜の高速道路っていいよね。時間が止まっているようで、遮二無二に進んでいるみたいで……澱みと流れが混ざっているんだね」
彼女は窓に頬をつけて、何処か遠い眼で言った。
「君と擦れ違った人はみんな君がまともなドライバーだって信じてるんだ。そう思い込んでいるんだ。でも、違う。君は飲酒運転をしてる悪いドライバーなんだ。そして、私だけのドライバーなんだ。そんなこと、みんな知らないんだ。知らないで何食わぬ顔してるんだ」
「酔ってるね」
「車の中の空気が滞ってるから、酔いが充満してる。開けてもいい?」
「いいよ」
彼女は窓を開ける。夜の澄んだ空気が車内に吹き込んできて、溜まっていた古い空気を追い出した。
彼女は煙草を取り出して咥え、火を点けた。
「やってみたかったんだ、こんなドラマチックなスモーキング」
「サングラスでもしていたらダンディだったね」
「ハードボイルドの主人公なんだ、私。君も主人公。ボニーとクライドみたいな、アナーキーでロマンチックでとってもスリリング……最期は銃弾を浴びて血飛沫上げてグッバイ」
彼女は眉間に向かって指を突き上げる。サングラスでもしているつもりになっているのだろう。
「酔ってるね」
「固茹でじゃないよ」
「酔ってないアピール? 頭は決して回っていないよ」
彼女は薄く笑って煙草を口に咥えた。
「おや、短い。まだ二口目なのに」
「ずっと窓の外に伸ばしていたからね。結構な量が飛んでいった」
「勿体ない。一本一本大切にしたいのに」
彼女はそう言って、深く煙を吐き出した。煙は高速で後方へ流れていった。寒空への吐息のようだった。
「ねぇ、楽しい?」
不意に彼女が訊ねた。
僕は車線変更をしながら答えた。
「とても楽しいよ」
「それならよかった。今なら、死んでもいい?」
「何の後悔もない」
「それは素晴らしいことだよ、きっと」
僕と彼女は日が変わるまで高速道路を駆け巡った。何かの意味があったのか、と考えたら、きっと、何の意味もなかっただろう。価値もなかったかもしれない。でも、価値がなかったことに価値があるのかもしれない。大切な記憶の価値は大抵が評価に値しないものだ。無責任で主観的な価値だけが心の安寧なのだと思った。
「ハッピーバースデイ」
「ありがとう」
「感想は?」
「何にもないかな」
彼女は笑った。
僕も何となく笑った。
「星は浮かんでいないね」
「そうだね。ここは明るいから。でも、東京でも星が見えないことはないんだよ。いつか、何処かで一緒に見たいね」
彼女がそう言ったので僕は頷いた。
三月の夜はまだまだ寒かった。
9
それは三月の終わりでさえもそうだった。
「日が変わったら、アルコールも煙草も美味しくなくなっちゃうのかな。君はどう? まだ美味しく感じる?」
「どうだろう。不味いとは思わない」
「そうだといいけどね」
彼女は笑う。彼女の部屋のテーブルには檸檬サワーの缶がいくつも置かれていたが、その半分ほどが空き缶になっていた。
「ネオテニーって知ってる?」
「幼形成熟のこと?」
「そう。ウーパールーパーとかね、子供の姿のまま、大人になる生き物。何だか、羨ましいなって思うんだ。大人になるって何だろう? どうして、ならざるを得ないんだろう。どうせいつかは死ぬのなら、綺麗で未熟な頃の姿で留められたらいいのに。君はどう思う?」
「何でもいいよ。君の我儘に僕は付き合う」
「もうわかってるんだね」
「君のことだからね」
「難儀なことだね」
「うん。難儀だ。でも、君の考えていることの行く末だって難儀だ。時間はどうするつもり? 準備はもうしているんだろうけど」
「日が変わってすぐ」
「夏ではないよ」
「心変わりしたんだ」
「わかった。僕は見届けてからにする。靴でも履いていてくれ」
「うん」
彼女は笑った。
その頬が赤かった。
とても幸せそうに見えた。
「昔は罪だったんだって……何でだろうね。今でもよく思われない。勇敢な選択なのに。どうしてなのかな。私はずっと躊躇ってた。ずっと考えていたけど、時期と要素と心残りが厄介だったから……」
「心残りって家族?」
「そう。もう平気。解決済み」
「要素って僕?」
僕が訊ねると彼女は俄に眼を閉じて微笑んだ。
「そう。君。君だよ」
「一緒に死んでもいいと思える存在?」
「君は察しがいいね。ずっと、探してたんだ。あの時、声を掛けたのは、あの直感は間違っていなかったんだね」
「……難儀だね」
「生きること自体が難儀だよ。面倒だし、疲れるし、腐り易いし、苦しいし、痛いし、見返りが少ないし。それでも、仕方なく生きるしかないから、仕方なく生きてね、こんな風になって、でもね、大人になる直前で踏み切れた。もやもやが三つとも消えた」
「ハッピーバースデイ」
「ありがとう。そうか、もう、今日なんだ」
彼女は新しく缶を開けて、ぐいっと喉に流し込んだ。吐き出したい色々を押し流すようにも見えた。
最初は軽い人だと思っていた。世界を楽観視しているような人だと思っていた。でも、彼女は違った。彼女なりの苦悩があって、いつもそれに悩んでいて、その反動のように明るく振る舞って。
世界を楽観視していたのは僕だった。
このまま、子供のように生きていけるのだ。
そう思っていた。
「君は、出会ったときも今でもさえも子供のようだね」
「そうだろうか」
「子供のように無垢だった。だから、私の色で染めてしまった」
「染められてしまった」
「それは君にとって良かったのかな?」
「良かったよ」
「私のエゴだったんじゃないかなって」
「違うよ」
「今でさえこうして君を……」
「違う。君には自分を責めないで欲しい。あの時、僕は席を立たなかった。君が隣に座ることを受け入れた。それが答えだ。最初からわかりきっていたことだったんだ」
彼女は僕の顔を見ていた。頬が赤かった。眼元も赤かった。
「君は僕を子供のように無垢だったと言った。でもね、それは無知だっただけだよ。何も、何も知らなかったんだ。深く進もうとする心が欠けていた。だから、君と出会えてよかった。君が僕の手を引いて、それで、僕は幸福だと思えたんだ」
彼女が缶をテーブルに置いて、その手で眼を擦った。擦ると赤くなった。やがて、彼女は少しずつ少しずつ身体を伏せ始めた。それは自壊するような、小さくなって隠れようとするような、いずれにしてもなくなってしまうような素振りに見えた。
「君は大人ではないよ、今も、これから先も」
僕はそう言った。
彼女は半身を起こして、徐に煙草に火を点けた。
「美味しい?」
「わからない」
彼女は言った。気怠げに前髪を弄っていた。しかし、やがて、彼女はまた先程のようなテーブルに突っ伏す姿勢に戻っていった。
時刻はいつの間にか二時半を回っていた。
彼女は動かない。
「君がいなかったら、僕はこれから先、何もしないでだらだらとつまらない日々を死ぬまで送っていたに違いないんだ。アルコールも煙草も縁がなく、誰かのために車を走らせることもなく、誰かに誕生日を祝われることもなく、誰かと約束なんかをすることもないような、ただフラットな人生があった筈なんだ」
僕は彼女を抱き上げた。
「それは凡そ人間的ではなく……造られたように、社会に最低限の奉仕をして、見返りもなく朽ちていく。虚無だったんだ。そういう予定が予め組まれていたんだ」
夜は重かったが、彼女は軽かった。透過してしまっているようだ。
「君はそれを壊してくれた。壊して、解き放ってくれた。その呪縛のような秩序の予定から。そうして今、僕は僕を僕らしいと思える」
彼女をベッドに寝かせた。
「ありがとう。難儀だったね」
僕は部屋を横切り、ベランダに出た。
彼女が出掛ける準備をしている間に僕は煙草を吸おうと思った。
煙草に火を点けた。まだ冷たい夜だ。
乾いた夜風が髪を揺らし、煙草の煙を揺らした。街は寝静まり、夜空には少しばかりの星が灯っていた。「東京でも星が見えないことはない」というのはこういうことなのだろうか、と僕はベランダの手摺に肘を乗せながらぼんやりと考えた。
不意に灰がぽとりと落ちた。遥か下に落ちた。
この下には茂みがあったか、駐輪場があったか。そんなことを考えたけれど、そんなことはどうでもよかった。
今は寝静まった街の静穏と細やかな星空を楽しんでいたかった。もう二度と見ることはないかもしれない星空である。
三時を回っていた。
僕は深く煙を吐いて、短くなった煙草を色々な想いを磨り潰すように灰皿へと押し付けた。一杯の灰皿から零れた灰が夜に散った。
雪か花弁のようだった。
もう雪は降らないだろう。
まだ桜は見ていないが、果たして咲いているのだろうか。
僕は部屋に戻り、ベッドに近付いた。
彼女が眠っている。
まだ、ここで眠っている。
きっと、待っているのだろう。
僕はテーブルの上の檸檬サワーを手に取った。彼女の飲み掛けで、半分ほどが残っていた。それを喉に流したが、すっかり炭酸が抜けていて美味しくはなかった。特別かんだってなかった。あの日、ドライブした時に味わった高揚感のようなものはなかった。
色々な思い出が溢れた。たった一年のことだとは思えなかった。
僕も彼女も結局は子供のままだ。我儘だ。エゴイストだ。先のことなんてものは視界に入れようとしなかった。最後まで。
僕は最後に、残った檸檬サワーを飲み干した。
そして、横になった。
彼女の髪に触れた。指を通した。艶やかだった。
意識がぼんやりとしていった。
心臓の音ばかりが頭の中で繰り返していた。
無意識に彼女の名前を呼んでいた。
そうして、全てがぐちゃぐちゃのひとつになった。
瞬間的な光に眼が眩んだ。
その向こうで、僕は春めいたワンピースを着て、赤いハイカットの靴を履いた彼女と言葉を交わした。
「遅いよ」
「ごめん、お待たせ」
「いいよ。それじゃ、行こっか」