表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

少年は誓う、漆黒の華と共に在る未来を。

「そうか…。ありがとう、槲。礼は約束通り新しく渡す。お前のコレクションに加えていい。…今日準備できるか?」

電話の相手は長年のパートナー、槲。受話器の向こうで彼は楽しげに笑って承諾の返事をし、大きく溜め息をついた慧星を明るい調子で労う。

「では一時間後に。昴が来る予定だから、一緒に」

二つ返事をし、槲は「じゃあ、後でね」と答え電話を切った。

「…」

慧星はかなり疲れていた。理由は、槲に渡すための書を描いていたから。


実は、慧星が槲に売買目的で任せる作品は約半年に一作品。慧星は自分が本当に満足できた作品しか世に出さず、慧星の作品が欲しいと強く希望するコレクターは世界中で順番待ちをしている。槲の役目は、暴動を起こしそうな熱狂的なファンを宥め、慧星がいかに誇り高い書道家であるかを根気強く説明することだ。

そんな慧星が、槲に頼み事をしたのだ。その見返りに、槲の個人的コレクションとして新しい作品を一つ用意すると約束をした。おかげで最近、夜を徹して納得いく作品を仕上げていたという訳だ。

「…眠い」

朝方、ようやく他人に渡しても良いかと思える書ができ、ちょうど槲も慧星の頼み事を果たして連絡がついた所だった。


ピンポーン。

「…来た」

インターホンが鳴り、慧星は訪ねてきた人物が誰かを瞬時に悟る。

「慧星さん。こんにちは」昴は優しく笑った。

ダークグレーのスーツ姿がとても精悍で、上着の左胸のポケットの真っ青なハンカチとサファイアのはめ込まれたタイピンが爽やかさを強調する。細身でありながら筋肉質で逞しい昴に合わせた特注品だ。ぴたりと全身にフィットし、万人を魅了する昴の容姿を美しく彩っていた。

「…パーティでもあるのか?」

「はい。展覧会のレセプションです。あれから方々に頼みこんで作品を新たに借りて、規模を縮小することで何とか形に」

「…規模を縮小。じゃあ、もう盗難に遭った作品を貸し出してくれた連中には、謝罪が済んでるのか?」

「まあ一応。でも、一つ不思議なことがあって」

「何」

「僕が直接謝罪に行きたいと願い出ると、なぜか貸し出してくれた方は皆一様に寛大な対応で。当初あんなに苦情を言ってきた方々が、事件は僕の責任ではないと仰るんですよ。不思議ですよね…」

「ふぅん」

慧星は興味を示さない。ふあっと大きく口を開けて欠伸をするだけで、それ以上は何も言わなかった。

「慧星さん。良ければ、僕と一緒にレセプションに参加しませんか?」

「私が、か?」

「はい。慧星さんはあまり外に出ないでしょう?一緒に行きませんか」

「…別に良いけど。これから出掛ける予定だしな…」

明らかに寝起きの慧星を容易に説得でき、昴は笑んだ。


「やぁ♪三聖、御曹司ぃ♪」

迎えにやって来たのは、超ご機嫌な槲。ラフなジャケット姿でにこにこ笑い、無邪気に大きく手を振る。

「あれ?槲さん」

「展覧会開催おめでとー、御曹司♪」

人の気も知らず、槲はもはや有頂天。レセプション出席というのにいつもと同じくたびれた制服姿の慧星を突っ込みを入れる訳でもなく、二人の背中を押して無理矢理自分の愛車に詰め込んだ。

「出発進行ーっ!」

 説明は一切無く、実に槲らしい行動をぶちかます。急発進で車を出し、二人を強制連行した。

「槲さん!一体どこに向かうんですか?」

「あれ?三聖から説明受けてない?おっかしなー。ま、着きゃ分かるってー」

お気に入りの缶珈琲をすすりながら、バックミラーに映る百面相の昴と無表情の慧星を面白そうに眺めた。


「そういや、三聖。俺、聞きたいことがあるんですけどー」

しばらく車を走らせていたが、信号で停車した時、槲は切り出した。

「三聖はどうして、怪盗団がもう自分たちのことが警察に知られても構わないって考えてることが分かったんすかぁー?」

先日、説明が途中だったことを思い出した。

なぜ犯人は自分たちに繋がる証拠をあえて残したのか。なぜ、慧星は犯人が全員、海外からの留学生であり社会人ではないことを確信したのか。

昴はあの場で理解したが、槲にはそこまでの思考はできない。分からないことは素直に認め問い掛けた。

「…本当に私が推測した通り犯人が外国人で、もはや自分たちの正体が公にされても問題ないと考えているのなら…連中は日本国外に逃亡する可能性が高いと思ったんだ」

「それってまずいの?まあ普通、犯罪者はそう考えるよねぇ」

「最悪の事態だろ。今回この窃盗団のアジトが発見されたのは、犯人にとって予想外の突発的な情報提供があったからだ。日本で就労を目的に長期滞在している外国人ならば、こんな突発的な状況に対し、仕事を終了して五人全員が急に日本を離れるなど難しい。しかも、日本国内で仕事をしているということは、留学生と違い、入国審査や入国管理局の対応も相当厳しくなるだろう。雇い入れている会社でも事件を起こす危険性のある人材を日本には置かない。諸外国も、望んで日本との関係を悪化させないだろうし。

それに比べ、初めから留学期間が決まっているビザの留学生は違う。例え留学期間が切れる前でも、学生なら帰国の理由などどうとでもなる」

慧星は、槲がまだ首を傾げているのに気づき、大きな溜め息と共にもっと分かり易く噛み砕いた説明を心掛けた。

「凶悪犯が日本国外に逃亡した場合、逮捕することはほとんどの場合難しいんだよ」

「え…?あ、そうかぁ!」

「お前が一番よく分かってるだろ。

国外に逃亡した犯罪容疑者の引き渡しに関する国際条約は、世界共通のものではなく原則、自国と相手国との相互間の条約として結ばれる。でも、現在、日本がその条約を結ぶのはアメリカと韓国の二ヵ国のみ。アメリカや英国が百ヵ国を超えるのに対してあまりに少ない。窃盗犯ならば、さらに引き渡しの可能性は低い…それは即ち、どれほどの重犯罪者でも国外に逃亡されればほぼ手の打ちようがないことを意味する。例えば、ある国では例え他国で殺人を犯した人間であろうが、自国民と結婚し子どもが生まれた場合には、決して他国からの引き渡しには応じないという例もあったくらいだ。

今回のケースではまず引き渡しは成立しないだろう。犯人はそれを逆手に取り、利用したんだ」

慧星は世界的に有名な書道家のため作品が外国人によって窃盗の被害に遭ったこともあり、関連する法律に詳しいのだ。


ぽかんと、槲は呆気に取られた。

あのアジトを観察しただけで、慧星はそんなことまで見抜いていたのか。

凄い。

「三聖って、相変わらず変人だなぁ…」

「…なぜ急に馬鹿にされた、私は」

本当に訳の分からない、愛しく美しい孤高の天才だ。


到着したのは、東京国立美術館。

昴が死に物狂いで主催した展覧会の会場だった。レセプションパーティはこの美術館の隣りに併設される、香坂家がオーナーを務める超高級ホテルのメインホールで行われる予定だ。

「えっと…ここで、何を?」

槲は何も説明しないまま、悪戯っ子のような満面の笑みで二人を手招きした。何があるか理解していないと動かない慧星が素直に応じているのだから、慧星はこの美術館に赴いた理由を知っているのだろう。

「こっちこっちー♪」

美術館に足を踏み入れると、展覧会の最後の仕上げに勤しむスタッフたちが昴の姿を見るなり次々明るい表情で深く頭を下げた。

「?」昴は不思議でならない。

あの窃盗事件後、スタッフは皆、壮絶な事後処理と準備をこなしながらも気落ちし、責任者としての対処に追われる昴を心配げな視線で見守っていた。これほど明るい顔で走り回る彼らの姿は久しぶりだ。

「ここっすよー♪」

美術館の一室、槲は最近は使われていない展示室に二人の背中を突いて圧し込んだ。


昴はそこで、有り得ない光景を目撃する。

「え」


視界一杯に広がるそれを、昴は幻かと思った。

だって、在るはずが無いから。この場所に、自分の目の前に。在るはずが、無いのだ。

「何、これ。何で…僕は、夢を見ているんですか…」

三十二点の、国宝級ともいえる古の書作品。


そう。

今回の事件で盗まれたはずの、半年以上の月日を要して世界中のコレクターや美術館を説得し借り受けた、書道の歴史に名を残す偉大なる先人たちの作品が、部屋を埋め尽くすように並べられていた。

「これ、全部盗まれた作品っ。どうして!どうしてここに在るんですか!」

「へっへー♪俺が本気出せば、ざっとこんなもんでーす」

「!ま、まさか、槲さんがっ?」

「そ♪」満面の得意顔を見せつけ、槲は「褒めて褒めて」と従順な犬が飼い主にせがみ纏わりつくように慧星に擦り寄る。

「でも、一体どうやって」

「俺を誰だと思ってんの?ちょっと苦労したけど、これでも俺、この業界トップの情報通で色んなツテがあるんでっすよー♪」槲は得意げに胸を張り、口角を上げて片目を瞑って合図した。

「でも!信じられない!一点や二点ならともかく、全部なんて!槲さん、貴方は一体!」

昴は世界最大級のグループ企業、香坂コーポレーションの創始者一族の直系であり、同時に次期総帥候補の筆頭。

既に闇ルートに取り込まれ売買された可能性のある歴史的価値の高い芸術作品の数々をこんな短期間で全て取り戻すなど、昴にさえできなかった。そんなことができる人間が、いくらその世界で名のある美術商であっても、一般の人間であるはずがない。


昴の驚愕と狂喜、そして多少の不信を孕んだ視線を受けて、槲はくすりと微かに笑みを浮かべた。

「ほんと、頭と勘の良い奴って、三聖と同じくらい扱いが面倒だよね」

慧星は少しだけ驚いた顔をした。槲がこれから口にする言葉が容易に予測でき、予測しながらも本当に話して良いのかと視線で問い質す。

「あっは。気にしないでくださいよぉ、三聖♪だって『コレ』、あんたのお気に入りでしょ?」

にこっと、槲は無邪気に笑った。


慧星の書道に対する才能の最大の理解者であり、長年パートナーとして共に世界を魅了し続けてきた槲にとって、口には出さずとも慧星が昴を特別視する態度は見るだけで容易に分かった。昴は慧星が認めるほどの男だ。だから、自分の正体を知られても良いのではないかと考える。

「俺ね、五年前まで盗品売買の仲介人だったの」

「!」

目を見開き言葉を失くした昴を見て、さすがに当然だろうと思った。

「『RAVEN』て知ってる?」

RAVENレイヴン…欧州を中心に世界最大の闇オークションを開催していた盗品売買専門の闇組織の総元締めの呼称ですね。でも五年前、突如組織が解体したという噂が。特に警察が介入した報道もなかったと思いますが…」

「そりゃそうだー♪だって三聖が盗品売買から足洗わなきゃ作品扱わせねぇぞ~!なんてドスが利いた声で脅すんだもん。俺、今まで警察に尻尾掴まれたことなかったのに、チョ→急いで身辺整理したんっスよー。しょうがないっしょ」

ぽかんと、昴は口を開けて呆けた。今の話を総合すると、どうしても有り得ない事実が浮かんでしまうのだ。

「あ、あの」恐る恐る昴は切り出す。

「何?」槲はにこっと笑んだ。

「RAVENて、まさか」口元が引き攣る。

「あ、そうそう。それ、昔の俺の呼び名ね」何でもないことのように、ひらひらと手を振った。

「…えええええっ!」

驚愕の新事実に昴は絶叫した。

事の真偽を確かめるように慧星に視線を向ければ、慧星は特に否定するでもなく溜め息をつくだけ。その態度が、槲の話が真実であることを充分に物語っていた。

「慧星さん!良いんですかっ?RAVENていえば、盗品売買では世界一の闇商人ですよ!どうしてそんな人間相手に慧星さんの作品をっ」

槲に対する信用が揺らぐのも尤もだった。何しろRAVENは盗品売買の世界では知らぬ者はいない超大物。重要文化財、国宝は勿論、世界文化遺産級の盗品まで扱い、世界中に大富豪の顧客を抱える巨大闇オークションを開催していた。

しかし、RAVENは顔を晒したことはない。組織の幹部さえボスにお目に掛かるのは困難で、上客の前にも姿を見せない、一切尻尾を掴ませず常に警察を翻弄する幻影のような存在だった。


「あー…。まあ、昔は心配してなかった訳じゃないけど、今はなぁ…」どうにも煮え切らない慧星。

ちらり、槲を見遣ると機嫌良さそうににこにこ笑っている。目を凝らせばふさふさの尻尾と耳と両手足に肉球でもついていそうだ。

「槲は私と約束してるからな」

「約束、ですか」

「『私を絶対に裏切らない。今後、盗品売買の世界からは完全に足を洗い、人道に反した行為は行わない』って」

昴が慧星を心配するのは当然のことだ…槲はそんなことを思いながら、あえて弁解しなかった。かつて自分が盗品売買という立派な犯罪行為を日常的に行っていたのは事実であるし、当時はそれに対し罪悪感は微塵たりと無かったから。

人類の宝と称賛された多くの芸術作品を右から左に淡々と流し、小国ならば買い取れるほどの巨額の金を一日に何度も動かした。

芸術を、美しいとも、醜いとも、思わなかった。


そんなある日、槲は出逢う。

一点の書作品に。


それが五年前、史上最年少で日本最高峰の書道競技会の最優秀賞を受賞した、日本書道界の筆頭と云われる橘流の正統なお嬢様、橘慧星の作品だった。


強烈に惹かれた。

この世に、これほどの芸術を生み出す人間がいるのかと思った。まだ十代の義務教育の学生風情が、日本に名だたる高名なプロの書道家たちを差し置いて世界を魅了した事実に素直に驚いた。

そして、彼女の作品を、自らの手でさらに世界中の人間に知らしめたいと思ったのだ。

「俺は裏切らないよ。三聖のことだけは、絶対。三聖には嘘をつかない。それが俺の覚悟だ」

だから、槲はここにいる。


レセプションパーティの会場は、美術館の目と鼻の先にある香坂家が世界中の要人を手厚く迎え入れるために建設した超高級ホテル。

既に会場前では、展覧会開催における関係者や招待客がスタッフに案内され開場を待ちかねていた。盗難事件のせいで世間に騒がれはしたものの、香坂家主催のパーティに参加しない訳がない。何しろ香坂家の人間は滅多にメディアに顔を出さないため、代々全員が都市伝説級の存在なのだ。

「慧星さん、目立ってますね」

ホテルのロビーに到着するなり、昴がぷっと吹き出した。

「…いや、どう考えても目立ってるのは私じゃない」

「え?」

確かに慧星は目立っている。

化粧っ気がなくアクセサリーや煌びやかな衣装にも興味のない飾らぬ主義であるのに、周囲を圧倒する存在感と醸し出す雰囲気、美しい顔立ちにモデル並みのスタイルが際立つ…にもかかわらず、面倒臭がって皺の寄った高校の制服姿でいると来た。あまりにアンバランスな人間性で、そりゃもう目立ちまくりだ。

だが、

(昴のほうがよほど目立つ。これだけ好い男なんだから…)

昴も人目を惹く。

一八〇を超える長身に細身の引き締まった筋肉質の身体、茶色がかった髪を今時の若者のようにワックスでまとめ、石の形は違えど最も好むルビーのピアスを右耳に三つつけるというスタイル。ダークスーツが死ぬほど似合い、一見するとヨーロッパマフィアの若きボスといった格好だ。品がありながら迫力のある姿は、男女関係なく虜にする。

「…いや、二人揃ってるからこんだけ目立つと思うんですけどぉ~」

この場合、槲の意見が一番適当だ。


ロビーを行き来する客たちは二人が並んで立つ光景に自然と目を奪われ、あまりに絵になる独特の雰囲気に確実に恋人同士だと勘違いしている。

「ははっ、まあ良い。さあ、慧星さん。中に入りましょう」

にっこりと穏やかな笑顔で慧星の華奢な背中に右手を添え、昴はロビー奥のパーティ会場に促した。


昴はにこやかな表情で招待客を持て成し、優雅な立ち居振る舞いで周囲を支配した。さすがは香坂家の次期総帥候補筆頭。若輩ぶりを一切感じさせない。

「完璧な営業スマイル、だな」

「非の打ち所がない、とはこのことだねぇ~」

慧星と槲は壁際に並んで立っていた。

槲が持ってきたオレンジジュースを片手に、慧星は今夜の主役としての役目を立派に果たす昴を観察した。

世界最大級のグループ企業と称賛される香坂の名を背負って立つ才能に満ちた少年は、一見すると光に群がる虫のような連中を相手にしてもにこやかに接し蔑ろにしない。差し出された名刺を受け取り、相手が今回の展覧会には関係ないはずの本社の取引の話をしても穏やかな口調で対応し、さり気なく話題を変え引き込む。

「…本当に凄い男だ、昴は」

彼はまるで別世界の人間で、例え橘流のお嬢様である自分でも手の届かぬ雲の上の人に思えた。学校と家を往復するだけで、書道一色に染まった生活をごく自然に送っていた慧星にとって、一生出逢うはずのない人種だ。


だからだろうか。

これほどまでに、彼に興味を惹かれるのは。

「そりゃまあ、天下の香坂家の御曹司ですからねぇ。きっと俺や三聖じゃ想像できない地獄のような教育を受けたはずですよー?英国留学だってその一環っしょ。世話役付きとはいえ小学校低学年から英国に独りでなんて、一歩間違えば虐待だって!」

「…うん」

「ま、三聖の家だって相当だけどねぇ。書道の名門だし、教育は凄かったでしょー?」

けらけら笑う槲が慧星には救いだった。

橘家を称賛する訳でもなく、かといって慧星の特殊な過去に同情するでもない。ただ、豪快に笑い飛ばして当たり前のように受け流す。それが槲の長所であり、慧星が槲をパートナーに選んだ理由だった。


それでも、一つだけ槲に強制するべきことができた。どうしてもこれだけは譲れない。

「槲。私がお前の携帯に、わざと昴の従兄である卯月亮の携帯から連絡した理由は分かってるな」

「うん。これでも三聖のパートナーですからねぇ。理解してるつもりだよー?」

慧星の一段低くなった声色に気づいたが、笑みを浮かべるだけで反論しなかった。余計なことを言って慧星の機嫌を損ねるのは本意ではないし、慧星の言葉を否定すること自体避けたい。

「今回の件で、私はお前の力を借りて盗難に遭った作品を全て回収した。私の言いつけを守って闇の世界から完全に足を洗ったお前なら、私を本当に大事にしてくれるお前なら、必ずやり遂げると確信したから」

「うん。光栄でぇーす♪でも…三聖は相当ですねぇ。御曹司に苦情を叩きつけた連中全員に、自分の名前で謝罪入れるなんて。橘の名前が死ぬほど嫌いなくせに、フルネームで名乗ってさぁ。先方は大喜びだったよー?何しろ書道の大家『橘流』の天才書道家と名高い橘慧星様とツテができたんだからー。ま、俺が対処したんだけどさぁ」

「…お前それ、昴に言うなよ」

「はいはーい。分かってますってー」

慧星が、心から大事にする昴を守るために自分の名を貶めてまで、今回盗難された書作品の持ち主に対し槲を通じて謝罪を行った秘密を、槲は墓場まで持っていくだろう。例え昴がその事実を知った時でも、慧星の意思に沿い、嘘は決してつかず沈黙を貫くはずだ。

槲は慧星を裏切らない。絶対に、慧星を裏切らない。

「…私は、昴を大切にしたい。だから」

初めて見せた人間としての、ひいては女としての欲に槲は驚いた。

だが、同時にどこか安堵感も覚える。

「お前がもしも、昴を裏切るなら…私は、お前を許さない。昴を守る為なら、どんな手段を用いても構わない。お前を切り捨てることも厭わない。お前の携帯電話の番号を卯月亮に知らせたのは、そういう意味だ」

「…うん。でしょーねぇ」

自分が死ぬほど大切にする昴をもし槲が裏切ったなら、その時は卯月亮に知らせた携帯電話の番号を元に過去を洗いざらい暴き出し、法的にも社会的にも二度と太陽の下を歩けないようにしてやる…。

それが、慧星の決断。五年間、ずっと最良のパートナーとして行動を共にしてきた相手に対して非情とも取れる結論だった。


(でもね、三聖)

昴を見つめる慧星に気づかれぬように、槲は笑んだ。

(俺、嬉しいよ…)

湧き上がる感情をこれ以上表に出さぬよう必死に堪え、槲は慧星に笑い掛けた。


「で、三聖。本番はこれからー?」

「ああ。まさかお前は、私を止めたりしないだろうな」

「する訳ないっしょ♪どうぞ三聖のお好きにぃ」くくっと含み笑いをしつつ、槲の眼は一切慧星を疑ったりしない。何もかもを承知し、どんな結末を望んでいるのかさえ理解している顔だった。

「何かとんでもないことやらかしたって、例えそれが御曹司を困らせることだって、結果的に三聖が間違ったことするはずない。俺に可能なことなら、三聖の考えのために最善を尽くしますよー♪」

「…そう」

ならば、と、慧星は槲にそっと耳打ちをした。

「んんー?俺がそれやったら、ハッピーエンドになんの?」

「少なくとも、私的にはバッドエンドにならないな」

「お、ならやる♪任せとけー」

にっこりと笑い、槲は慧星から離れた。慧星が望む自分の役割を果たすために。


天下の香坂コーポレーションが誇る、次期総帥候補の主催するレセプションパーティに集まった招待客たちは、皆、鮮やかなドレスやオーダーメイドのタキシードに身を包み、高級な香水の匂いをぷんぷんさせて互いの腹の探り合いをしている。

実に見苦しい。人間特有の、愚かな姿だ。


突然、バンケットホール内の照明の一切が消え闇に包まれた。

招待客たちは案内状の次の項目の催しに期待に胸を膨らませ、しんと静まり返り、会場内で唯一スポットライトで照らし出されたステージの中央に視線を送る。

「皆様、本日はお忙しい中、東京国立美術館『古代書聖展覧会』のレセプションパーティにわざわざ足をお運び頂きまして、誠にありがとうございます。不肖ではございますが、今回の主催者を務めさせて頂きます、香坂昴です」

昴はにっこりと笑った。壇上で一人、丁寧に頭を下げ優雅な動きでゆっくりと会場内を見渡す。

(香坂昴、ねぇ…)

昴の戸籍上の名前は『香坂』。卯月誠が香坂綾野と結婚し、婿養子として香坂姓になったと聞いた。だが、実際の生活で戸籍上の本名を明かしてしまえば、学校生活さえ騒がしくなりプライベートは皆無になる。それを考慮し、昴の両親は昴の私生活に関わる全ての公共機関に対し『卯月昴』の名を徹底していた。

(嘘は最悪に嫌いだけど、これは仕方ない)

昴は、自分が香坂一族の出身だと慧星に知られた先日、自分の名前が卯月ではないことを打ち明けた。嘘が嫌いだと公言し、自分を律し、戒め、真っ直ぐに前を見る慧星に自分も正直に向き合いたいと思ったためだ。

「ここで、私事ではございますが、この場を借りて心よりお礼を申し上げたいと思います」

昴は挨拶が一段落した所で、静かに切り出した。

「橘慧星さん」


突然、スポットライトがバンケットホール後方の一角を明るく照らし出した。

(え?)


そこにいたのは、慧星。あまりに急なことに驚き、さすがの慧星も目を丸くしてステージに視線を戻す。昴以外にただ一人、この会場内で照らし出された美少女は、周囲の視線を一身に集めた。

「皆様もご存知かと思いますが…今回、この展覧会を開催するにあたり、世間を騒がせていた怪盗団の被害に遭い、多くの貴重な作品が盗まれました」

昴は真っ直ぐに慧星を見る。その視線に、迷いは無い。

「それを解決に導いてくれたのが彼女…僕の同級生であり、天才的な才能を持った素晴らしい書道家、橘慧星さんです」

いつから近くにいたのか、昴の側近である幡藤吾が丁寧に一礼し、洗練された動きで合図を出して慧星をステージ上に促した。

「僕は、彼女のおかげで救われました。この場を借りて、改めてお礼を言わせてください」


慧星は大きく溜め息をついて、幡藤吾のエスコート通りに動く。心の中で、好都合だ、と小さく呟いて。


「慧星さん。今回のこと心から感謝しています。貴女のおかげで僕は展覧会を成功させることができた。本当にありがとうございます」

慧星の華奢な手をそっと握り、ステージ上に案内した。そして、マイクを側近に預けると、何も反応しない慧星をいきなりぎゅっと両腕で抱きしめた。

「うわっ。昴!何っ」

「橘慧星さん」

さらに強く抱きしめた。会場中から「きゃあっ!」と女の声が次々に上がり、地位も名誉も充分すぎるほど持っている昴を狙っていたであろう女たちは、これではっきりと慧星の存在を認識したに違いない。

「大好きです。ずっと、ずっと僕と一緒にいてください」

「!」

耳元で、一歩間違えば愛の告白とも取れるような発言を平気でされた(※昴は本気である)。びくりと無意識に身体が震え、けれど、これから自分が昴に対して行うことを考えると素直に喜べない。

(…ごめん、昴)

一瞬だけ、香水とは違う好い匂いのする身体に顔をすり寄せ、すぐに離れた。今度こそ、完全に目的を達成するために。


「昴。私は、お前が思うような人間じゃない」

「え?慧星さん?」

慧星は会場内に素早く視線を走らせた。自分の目的を達成するために必要な条件が揃っていることを確認してから、鋭い視線で話し続けた。

「私は、今回の事件がこれで終わったとは思っていない。

お前は不思議に思わなかったのか?香坂コーポレーションは世界最大級のグループ企業…香坂の創始者一族が直接的に関与する催しや企画では、通常以上の警備が手配されるだろう。特にお前のように、次期総帥候補の筆頭と賞されるほどの人間が関わるなら、なおさら。ならばなぜ、今回の事件がこうも簡単に現実になったのか…深夜のスタッフも警備員も少ない時間帯の犯行とはいえ、これは外国人による犯行という本当に単純なことだったのか?」

「慧星さん…一体、何を言いたいんですか?」

慧星はさらに視線を鋭くした。

「例えば…スタッフの中に、警備員の中に、怪盗団を手引きする内通者がいたのではないか。その内通者の存在で、美術館の警備情報が外部に漏れ、特に警備が甘い時間帯が狙われたのではないか。

さらに言うなら、怪盗団の情報を警察にリークしたのはその内通者ではないか。全ての罪を実行犯である怪盗団に被せようとしているのではないか」

「!」昴は言葉を失った。

「それならば、この会場内にまだ内通者はいるのではないか。事件後、すぐに姿を消せば怪しまれる。展覧会が一段落するまでは、おそらく通常スタッフとして活動するはず」


その時、

ダダッ!

突如、真っ暗な会場内から荒々しい足音が響いた。それも、一つや二つではない。おそらく一〇以上になる複数の慌ただしい音が会場中を駆け回り、音を立てる主が招待客にぶつかったのか方々から悲鳴が上がる。

「逃がすかよ…」

慧星は、幡藤吾の手からマイクをぶんどった。呆気に取られた昴を尻目に、そのマイクを大きく振りかぶり、床に目がけて力いっぱい叩きつける。

ガァァァァンッ!

「うわっ」

「くっ」

会場中を、耳を劈く衝撃音が支配した。優れた音響装置を使用するがゆえにできる、油断している相手には最高の足止めだ。慧星の狙い通り観客たちは悲鳴と共に両耳を押さえて床にしゃがみ込んだ。


瞬間、足音も掻き消える。

「槲!!!」

ドガッ、ゴッ!!

暗闇の中で、鈍い音が何度も響いた。明らかにこれは、人が人をぶちのめす際の音。

次の瞬間、ぱっと会場の照明がついた。

「慧星さん!」

会場の出入り口を中心に転がる複数の人間を見下ろし、槲がニヤニヤと意地悪く笑っていた。ひらひら右手を宙に軽く動かして、本当に楽しげに口元を歪める。

「これで間違ってない~?三聖~♪」

「…ああ、上出来」

慧星は、一人の男を取り押さえていた。

正確には、ステージの端に置かれていたマイクスタンドを床にうつ伏せになった男の首元に後ろから突き付け、男が少しでも動けば一瞬で八つ裂きにしそうなほどの殺気を放っていた。

「そいつが黒幕なんスかー?」

「ああ。この展覧会のチーフプロデューサーだそうだし、こいつの立場なら警備情報も簡単に手に入るだろう」

背中を踏まれ床に押し付けられた男は、ギリッと歯を食いしばり慧星を睨みつけた。


それは、事件発生が発覚した日、美術館の特別展示室で昴が紹介した展覧会のチーフプロデューサーだった。


慧星は足早に会場を後にした。

槲が外で車を回して待っているはずだ。警察が到着して騒がしくなり始めたこの場所を一刻も早く立ち去り、昴の前から姿を消さなければならない。

最初からこうする気だった。犯人の見当がついた時から。

自分には、昴のように多くのものを動かす力はなく、昴が懸命に計画した展覧会のレセプションパーティを、まさか自分の都合で日程変更することなどさせられなかった。昴ならきっと理由を話せば慧星の指示通りに行動しただろう。

しかし、このパーティが犯人を逮捕する最後のチャンスになるであろうことを慧星は確信していた。


「慧星さん!どこに行く気ですか!」

ぐいっと、後ろから腕を強く引かれ制された。びくっと反射的に振り返ると、そこにいたのは完璧なまでに着こなしていたオーダーメイドスーツを崩し、呼吸を乱した昴だった。

「す、ばる」

驚いて、遠慮のない大きな手に戸惑った。いつもは優しく隣りで差し伸べられる手が、今は恐い。

「どこに行く気かって、聞いてるんだ!」

慧星は震えた。

「クソッ」

昴は柄にもなく眉間にしわを寄せ、口調も荒々しく、額に汗を滲ませて苦しそうにぐいっとネクタイを緩めた。招待客への挨拶や今回慧星が起こした騒ぎに関するフォローも早々に、会場を抜け出してきたのだ。

「俺に何も言わずに、俺の前からいなくなる気か?ふざけるな!言っただろ、ずっと一緒にいて欲しいって!それなのに!」

「昴…でも、私は」

何と言えば良いのか分からない。どうすれば昴の機嫌を損ねずに昴の役に立つことができるのだろう。

慧星は必死に考えた。どれだけ優れた真実を見極める眼を持っていても、こんな時に人の感情を敏感に察することができない。

「おや、昴。感情に任せてそう声を荒げるものではありませんよ。彼女は君にとって本当に大切な女性なんでしょう」

二人のやり取りを見かねて、一人の人物が近づいた。

「父さん!」

昴は怒りを忘れて目を丸くする。目の前に現れた人物がこの場にいる筈ないことを知っているから。

人と接触することを極端に嫌悪し、いつも研究室の自分のオフィスに籠って実験と研究に明け暮れる日々を送っている。例えそれが、世界最先端の技術を数多く生み出してきた結果に繋がろうと、この人物が変人なのは改めて言うまでもない。

「父さん、て…もしかして、香坂誠、さん?」

それは、慧星がこの世で唯一家族として大切にし心から敬愛する父親、橘雋月の親友にして悪友、香坂誠その人だった。

昴の返答など聞かずとも判別できる。何しろ髪の色が違うだけで、誠は昴と瓜二つだったから。

「初めまして、橘慧星さん。君のことは雋月の阿呆から色々聞いています。雋月自慢の娘、素晴らしい書道家だと。お会いできて光栄ですよ」

香坂誠は、静かに笑った。

「さて、と」

その笑顔は、昴が常日頃、自分に向ける笑顔とそっくりで。慧星は一瞬、昴が二人に増えたように錯覚し、言葉を失くしてしまった。


(優しい、優しい笑顔…昴と同じ、だ)

慧星は眉間にしわを寄せる。

誠はにっこりと再び慧星に微笑みかけ、自慢の息子であろう昴の近くに歩み寄り、突如、信じられない行動に出た。

ゴンッ!

「えっ」

誠は、細い体躯からは想像できない力で昴の頭を拳で殴りつけたのだ。

「痛っっっ!と、父さん!」

誠も昴と同じくあらゆる武術の達人だ。香坂に生きる者として己の身は己で守るために、当然の術として幼い頃から周囲に叩き込まれた。その培われた力で、昴の頭にたんこぶができるほどのお仕置きを据える。

「全く。自慢の息子で相当な天才だと思っていましたが、こんなお馬鹿な一面があったとは。本当に恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした、慧星さん」

「え」

誠は紛れもなく『父親』だった。万能の天才と称され、香坂を支えるに相応しい力を惜しみなく開花させた『息子』昴の、子どもじみた嫉妬と苛立ちを父親として叱りつける。

目先のことではない、人間の行動の根底に根付く、意志と決意を読み取れるようになって欲しい、と。

「昴。君は、彼女がなぜ君の計画したレセプションパーティであんなことをしたのか、理解していますか?」

その瞳は、昴とは違った。見た目が若くとも、昴の倍以上の年月を香坂に捧げてきた者としての誇りと強さがある。

「慧星さんは、君のために、君に嫌われるかもしれない行動を敢えて取ったんですよ?」

そう。

慧星の行動には常に必ず意味があるのだ。大切なものを守る為なら、自分が悪者になるくらいどうってことはない。昴を守るために、昴がこれからの人生を笑って暮らせるように、たった一つでも憂いを自分の手で確実に取り除きたかった。

「ね?慧星さん」

誠に笑い掛けられ、慧星は身体を強張らせた。言える訳がない。言うつもりも無い。言ってしまえば、全ては自己満足でしかなくなってしまうから。

「本当に慧星さんは、雋月にそっくりですね」

誠は苦笑いを零した。親友である雋月もまた、誰に理解されずとも、どれほど非難されようと、大事なものを守るためには手段を選ばない人間だから。


怪盗団の実行犯は先に逮捕された外国人グループで間違いない。だが、手引きした内通者はこの展覧会が終わり次第海外に逃亡する手はずを整えていただろう。しかもスタッフや警備員のほぼ全てが犯人であるとすれば、展覧会が終わってからでは散り散りに逃亡し逮捕するのは困難だ。

全てを理解し相手の二手、三手先を読んだ慧星は、スタッフと警備員が集結し、容易には逃げられない場所で一網打尽にするのが最良と判断して、このパーティ会場での一戦に賭けたのだ。


「そんなこと」

昴は、奥歯に力を込めた。

「そんなこと、分かってるよ!」

今度こそ逃がさぬように、昴は慧星の腕を掴んだ。口調は荒いが、これ以上慧星を怯えさせぬように優しく、大きく深呼吸を繰り返して真っ直ぐに見つめる。

「俺が気づかない訳ないだろ…!慧星のことを一番理解する赤の他人は俺だ!痛々しいほど純粋で優しくて、絶対に自分を曲げない誇り高い慧星を理解しているのは、この世で俺だけだ!!」

「昴…分かってたのか?私が、あんなことをした理由…」

「当然だろ!だから言ってるんだっ。俺を守ろうとしたくせに、どうして俺から離れる!俺の傍にいろよっ、これからもずっと…!」

「っ」


しばらくの沈黙があった。

それを壊したのは、慧星。自分の腕を掴む昴の大きな手を、反対の手でぎゅっと包みこむ。一回り近く小さな指の長い華奢な手は、頼りないけれど、同時に意志の強さを感じさせた。

「うん…一緒に、いる」

笑った。慧星が、笑った。

「ずっと、昴と一緒だ」

心からの、嬉しそうな笑顔。

昴は初めて目にした。これまで、意地悪く笑む表情や、企みが成功して晒す不敵な表情は何度かあったが、心から笑ったことは一度もなかった。

「慧星さん…」

落ち着きを取り戻した昴は、その笑顔に心を奪われ見惚れてしまう。顔を真っ赤にして、その手の温かさに言葉を失い、完全にフリーズしていた。



※ ※ ※



声がする。

「お父さん!お母さん!日本に帰りたいよ!どうして僕だけ独りにするのっ?僕のことが嫌いなのっ?」

それは、まだ何も分かっていなかった子どもの、親を困らせるだけの必死の叫びだった。身に流れる血の意味を知らず、生まれ持った才能に気づかず、遠い英国から毎日電話で両親を責めた。

どうして自分だけがこんな目に遭うのか、と。

「坊ちゃま。旦那様と奥様をこれ以上困らせないで差し上げて下さい。貴方がここにいることに意味はあるのですよ」

「どうして?みんなお父さんとお母さんが傍にいるよ!どうして僕だけ、独りでここにいるのっ?」

「坊ちゃま…」

今ならば考えれば分かる。幼い我が子を守るために下した、両親の苦渋の決断だったと。


次期ノーベル賞候補と誉れ高い、航空力学を主とした物理学の世界的権威である父親と、群を抜く商才と先見の眼で世界最大級のグループ企業のCEOを務める母親は、子どもを守るために手元から突き放した。恨みや嫉妬を買い、時には命を狙われることだってある自分たちの傍では、才能溢れる愛する我が子を守ることなど到底できないと知っていたから。

(僕は、捨てられたんだ…!)

両親の思いを理解せず、愛を求めるしか知らない子どもは、それでも懸命に勉学に励んだ。両親にいつか振り向いてもらいたい、頑張っていれば必ず迎えに来てくれると信じて。

そして、子どもは程なく、その内に秘めた圧倒的才能を爆発させる。

「素晴らしい!坊ちゃま、さすがは旦那様譲りの才能ですね。まさか、一〇歳で医学博士になられるとは。それに、経営学も学部主席だなんて。奥様もさぞお喜びになるでしょう」

「…うん」

両親の愛情を感じられない子どもには、喜びなどない。英国屈指の大学に入学が決まった時も、史上最年少で博士号を取得することが決まった時も、両親は電話一本しか寄越さなかった。迎えに来てくれなかった。

(…もう、嫌だ…)


周囲の期待に応えることに疲れていた。

両親の愛情を信じられなかった。

自分の人生を支配する絶望に取り込まれそうだった。

「…死にたい…」


英国特有の乾いた雪の舞う寒空の下、子どもは両目に溢れる涙を誰にも見られぬように俯き、自分の足元をじっと見る。今日はクリスマスなのに、自分はどうしてこんな目に遭うのだろう。

こんなはずじゃない。自分の未来は、もっと希望に満ちていると信じたかった。

「Oh, boy! You will catch a cold if keep to be here.(おや、少年!ここにいたら風邪をひいてしまうよ)」

「え…」

突然の声に驚いて振り向くと、そこに真っ白な髪の毛と豊かな白髭の老人がいた。センスの良いスーツを着て軽快にステッキを鳴らし、穏やかな笑顔がとても似合う、まるで、真冬の主役サンタクロースのようだった。

「ン?You…モシカシテ、日本人デスカ?」

「あ…はい。生まれは日本、ですけど…」

老人は英国紳士にしては流暢な日本語で、子どもの様子がおかしいことに気づき、目線を合わせるために地面に膝をついて頭に積もった雪をぱっぱと払ってやった。

「ワタシ、スグソコデ画廊ヲヤッテマス。日本ノ作品モアルンデスヨ。見テイキマセンカ?」

「いや、でも、僕は芸術に興味は…。それに、今日はお金持ってないし…」

「構ワナイデスヨ。今日ハ、年ニ一度ノ聖ナル日!世界ノ宝デアル子ドモニ、クリスマスプレゼントデス」

「…」

手を引かれ、子どもは老紳士の後をついて行った。いつもの自分なら、知らない人にはついて行かないようにという言葉を必ず守るだろうに。今日はなぜかそんな気が起きない。

ついて行かなければならない。ついていけばきっと何かがあると、そんな気がしてならなかった。


カラン。

「サァ、ドウゾ」

鐘の音が響き開けられた扉の中に、子どもは恐る恐る足を踏み入れた。

「…」

正直、美術や芸術といった類は苦手だ。そういうものは個人の好き嫌いが大きいと思うし、美しい風景写真に心は奪われてもピカソの平面的な絵画に感動は覚えない。あれらが何十億、何百億するなど納得できないのが本音だ。

「ワタシ、日本ノ書道ガ一番好キデス」

「え?書道、ですか?」

老紳士の意外な一言に驚いた。身なりから絵画やアンティークを扱っているとばかり思っていたから。

「黒ト白ノ世界。タッタ二色デ、ココマデ人ヲ魅了デキル芸術ハ他ニアリマセン。喜怒哀楽ガ表現サレ、書道家ハソコニ魂ヲ込メル」

濃い、墨汁の匂い。

画廊全体を支配するのは、年月を経ても決して褪せない、遠い日本を思い出させる香りだった。

数十点の作品が所狭しと飾られ、内装は生け花を始め和風で統一し、異国の空気を吹き飛ばしてその場に日本独特の文化を根付かせた。

「…」


「ソシテ、アレガコノ画廊ノ主役デス」

それは、世界を変える出逢い。


(…あ…)

子どもは、その場から動くことができなかった。

「何、これ」

あまりの衝撃に。

圧倒的な存在感に。

一〇歳の子どもの世界を占める、絶望と孤独は一掃される。


「凄イデショウ?コレハ一ヵ月前、日本デ最モ権威アル書道競技会デ最高ノ栄誉デアル内閣総理大臣賞ヲ史上最年少デ受賞シタ、少女ノ作品デス」


凄いと、思った。ただ、始まりはそれだけの感情だった。

例えるなら、夏の真っ青な空を一瞬で支配する、夕立を起こす積乱雲。

汚れない純白の世界に、漆黒の闇が優雅に、華麗に、怒りと憎しみを纏って生き物のように荒々しく舞う。力強く、美しく、威厳に満ちて、全ての感情を叩きつけられた『世界』は一つの作品として完成し万人を惹きつけた。

「ワタシノ大事ナ友人ノ、自慢ノ娘ノ作品デス。橘流、知ッテイマスカ?」

「橘…知ってる。日本最大の書道団体、月心書道界の筆頭を務める家…」

「ソウデス。少女ハ橘家ノ娘。一〇歳ダソウデスヨ」

「えっ、僕と同い歳?」

一〇歳の少女が、並み居るプロの書道家を押さえて日本屈指の書道競技会で最高位の賞を受賞することがどういうことか、素人でも分かる。

圧倒的な才能を持ちながら、それだけではどうにもならない実力を、少女は血の滲むような努力で手に入れたのだ。喜びや嬉しさなどの明るい感情ではない、人を苦しめるはずの負の感情を作品に込め、見る者を虜にする世界を現実に創りあげた。


「…」

羨ましい。

「…綺麗…」

全てをぶつけられるものを持つ少女が羨ましかった。

そして、同時に自分が無性に恥ずかしかった。


嘆くばかりで、叫ぶばかりで、欲するばかりで、両親や側近を困らせるだけ。努力する意味も意義もなく、自分の境遇を周囲のせいにしてきた。何と浅ましかったことか。自分が、腹立たしい。

「本当に…綺麗だ」

涙が溢れた。

怒りや憎しみを隠さず、全てを力に変えて真っ直ぐ前を見る少女の潔さが、全身に染み入ってくる。

「逢ってみたい、この子に…」

自然と表情に笑みが浮かび、素直にそう思えた。初めて両親の想いを理解したいと感じた。

「彼女ハ『橘慧星』トイイマス」

「けいせい、さん?…慧星さん、かぁ」

こんな風に思えたのは少女のおかげ。少女が一体どんな人物なのか、どんな人生を歩んでこれほどの書を完成させたのか、純粋に興味が湧いた。

だから。

(頑張ろう。僕は、僕にできることを精一杯頑張ろう)

この英国で、自分がやらねばならないことは全てやり遂げようと決めた。必ず全て終わらせて、確固たる実力と絶対的な自信を手にしたい。いつか日本に帰国した時、自分に誇りを持って胸を張り少女に逢えるように。

それは、香坂昴の、初めての夢となった。


俺は、あの日の出逢いを、忘れない。



※ ※ ※



「…」

香坂昴は、半裸の身体をベッドから起こした。

眉間にしわを寄せ、生来の低血圧と寝不足が祟って顔色が悪く、両目が少し充血している。活動するまでいつも三〇分ほどの時間を要し、ベッドの上で眩暈のする頭を右手で押さえつけ、機嫌の悪い表情で静かに覚醒を待つのが常だ。

「懐かしい夢…」

ふっと、口元に小さく笑みを浮かべる。

ようやく会話ができる程度に意識がはっきりしてきた。まだ周囲とまともにコミュニケーションが取れるほどではないが。

「おはようございます、昴様」

四方の壁に激突しよろめきながらリビングに現れた主の姿に、昴の優秀な秘書であり側近である幡藤吾は深く一礼した。

「お、はよ…」

日頃からではあるが、さすがに幡藤吾も主の朝の様子に多少呆れてしまう。仕事においては群を抜く商才と真贋を発揮するなど、初対面では想像がつかない。

「昴様。昨夜はほぼ徹夜でお仕事をなさっておいででしたのに…今日はゆっくりお休みになられては?折角の春休みでしょう、少しくらい良いではありませんか」

ぼすっと音を立ててソファに腰を据え、一刻も早く完全に覚醒しようと奮闘する姿が幡藤吾には不思議でならない。寝不足のせいで今朝は特に酷い低血圧のようで、こんな日は一日中ベッドの中、ということも決して珍しくないのだが。

「今日は、寝てられないんです、よ…」

「なぜ?」

「花見、の約束が…」

「え、お花見ですか?ああ、もしやこちらのお屋敷の庭で、ということですか?確かにお屋敷の庭のソメイヨシノは見頃でございますからね。昴様がここまで無理をなさってあの大量の仕事を片付けたということは…お相手は、慧星様でしょうか」

さすが長い付き合いの側近である。昴が無理をする理由は、特別に大切にする慧星のためだけだと理解していた。

「では、お弁当をお作り致しましょうか?昴様は昨夜大変お忙しく、何もご用意できなかったのでは?」

「ん…良い、気にしない、で。今日は、慧星さんが弁当作ってくれる予定、なので…」

「え!慧星様って、お料理できるんですか?」

失礼な。

慧星は死ぬほど面倒臭がって食事という行為を遠ざけているだけで、料理の腕は超一流。一人暮らしをすると雋月に宣言した際、自活できるだけの技術を叩き込まれたのだ。


数時間後。

だだっ広い屋敷の玄関に控えていた使用人から、苦労して正常な血圧に戻った昴宛てに連絡があった。待ちかねた人物がようやく訪ねてきた、と。

「慧星さん、いらっしゃい」

男物の黒いカーディガンを羽織り、白い七分丈のパンツに膝丈の春物のブーツと、かなりボーイッシュな格好で玄関先に立つ慧星は、両目を細めて何か言いたげだ。

「…さすが香坂家本邸。正門から玄関まで、どんだけ遠いんだよ。正門前と玄関先に護衛の詰所って、橘家でもありえないし…」

「あはは♪仕方ないでしょう。何しろ香坂は世界最大のグループ企業で世界屈指の大富豪。ここは僕を含めて、その創始者一族の全員が住んでいますから。僕だって一〇回以上誘拐されかけています。うちの家族、皆そんなものですし」

「そんなに?どうやって助かったんだ」

「え?全部、素手でぶちのめしましたけど」

有り得ない。拳銃とかスタンガンとか、犯人たちは物凄い武器を持っていたに違いない。それを素手とは。この男、やっぱり敵に回すと恐ろしい。

「お前の傍にいるって約束したの、考え直したほうが身の為かも…」

慧星の表情で、考えていることが手に取るように分かる。慧星ほどの真実を求める姿勢は無くとも、大事で仕方のない慧星が結構単純に感情を表に出す人だと分かったし、どこまでも興味が尽きない。

「今頃遅いですよ、慧星さん?絶対訂正させませんから」

「…お前の傍は結構居心地好いから、いい」

「お♪それは光栄ですね」

慧星の手荷物は朱色の風呂敷で包んだ重箱の弁当一つ。

さり気無い仕草で荷物を持ってやり、昴は慧星の背に反対の手を添えて家の中へと案内した。今日の花見は慧星がかなり楽しみにしていたはずだ。早々に、本来香坂家の人間だけが楽しめる最高の特等席に案内する。


「う、わ」

慧星は言葉を失くす。


立派に成長したソメイヨシノが広大な庭全体に植えられており、その全てが見事な花をいっぱいに咲かせていた。風が吹き抜けると、まるで慧星の来訪を歓迎しているかのように桃色の花弁がざあっと一斉に宙を舞う。

「凄い…何、これ。凄い、凄い!お前の家の庭、本当に凄いな!」

「喜んで貰えて良かった」

縁側の一角に、二人の席が用意されていた。座布団と飲み物の器が既に準備され、その前に二人の到着を歓迎する幡藤吾が一礼して控える。

「昴の側近の、確か幡藤吾、だっけ?」

「はい。席を用意してもらっていたんですよ」

二人っきりの時間を望む昴の意向をくみ、幡藤吾は何も言わずに気配を消して静かに場を去った。

「じゃっ、早速頂きましょう♪」

慧星の弁当が楽しみ過ぎて、朝食を抜いて空腹を耐え抜いた昴は、嬉しそうに両手を合わせ「頂きます」と告げた。


「それにしても、慧星さんて本当に料理上手ですね。何でこれで食事するのを面倒臭がるんですか」

「煩い。お父さんと同じことを言うな」

「やっぱり、雋月さんにも言われてるんだ?」

弁当の半分以上を一人で平らげ、昴は満足そうに笑った。

慧星の作る食事は全体的に和食で、味付けは昴が長年の英国留学中には食べられなかった、鰹や昆布の出汁をきちんと取って醤油や味噌などの調味料がバランス良く使われていた。

正直、一流料亭並みに超絶美味い。

「あ、そうだ。慧星さんに渡したいものがあるんです。忘れないうちに」

昴は、大広間の隅に置いていた小さめの紙袋を持ち出した。表面に香坂コーポレーションのロゴが入り、中身が会社の商品なのは容易に想像できる。

「はい、どうぞ」

紙袋の中から出した真新しい箱を開けて、昴は慧星に中身を見せた。

「これって」

そこにあったのは、新品の携帯電話。世界最薄でありながら大容量を実現し、大型タッチパネルが売りの香坂コーポレーション自慢の、数日前に発売されたばかりの最新バージョンだ。購入が非常に困難な大人気モデルで、現在は一ヵ月、二ヵ月待ちが当たり前になっている。

「僕とお揃いなんですよ、これ♪」

「…いや、私、機械音痴だし、滅多に使わないし、こんな最新機種渡されても困る。これって高額商品だろ。貰えない」

「それは大丈夫♪実はサンプルとして開発されたタイプで、機械音痴でも充分使いこなせるように作り変えられています。僕とダブルで契約していますから、値段も安いんですよ♪」

失礼なことを物凄く楽しそうに笑って話す昴に圧され、つい携帯電話を受け取ってしまった。

「あと、僕と雋月さん、槲さんの番号とアドレスしか登録されていませんから。それ以外に使わなければ良いですよ。あ。勿論、僕が登録第一号ですけどねー♪」

こいつ、凄い嬉しそう…。

座ったまま座布団から落ちて後ずさり、今にも唇が触れ合うほど詰め寄る昴の顔を見て、豪快に顔を引き攣らせる。

「分かったよ…じゃあ、昴とお父さん、槲に連絡する専用に借りておく。ただし、お前に料金払わせたりしないから」

「え」

「どうせ自分名義で契約したんだろうが。しかも自分の口座から引き落としさせる気だろ」

「うーわ。さすが、お見通し」

昴がくれた携帯電話をじっとしばらく見つめていると、指紋一つ無いぴかぴかの黒いパネルに何かが写りこみ横ぎった。


(あ)

慧星は天を仰いだ。

桜の花が、風に吹かれて空を舞う。


ひらひら、ひらひら。


この手に掴もうとすると逃げていくのに、薄桃色の花弁は慧星の視界一杯に占め、暖かな春の訪れを告げていた。

「…そういえば、私、花見は五年ぶりだな」

「雋月さんなら、こういうの好きそうですが」

「確かにお父さんは好きだな、イベント事。でも、私がずっと断ってた。花見なんて特に」

「五年ぶりの花見の相手に僕を選んで貰えるとは、光栄です」

「…阿呆か」


『春』が来るなんて、思わなかった。

あの頃…史上最年少で内閣総理大臣賞の栄光に輝いた、一〇歳の頃には。

小さな身体では到底抑え切れぬ憎しみと怒りを纏い、悲しみに耐え切れず、幼い感情を書に叩きつけ、一点の作品として表現した。感情に任せ、大好きな父を困らせるだけと知っていながら、罵詈雑言を吐いたことも少なくない。


…浅はかな行為だったと思う。今ならば、そう思える。

あの嵐のような感情が、燻る程度の微かなものに変化する日が来るとは、誰が想像しえただろうか。

(いつからかな…こんな気持ちで生きられるようになったのは…)

雋月は今も、昔と変わらず笑ってくれる。最愛の娘の変化を知って、きっと、もっと嬉しそうに笑うのだろう。


「咲きましたね」

「え…?」

昴の端的な言葉を、慧星は一瞬理解できなかった。

「『花』が」

「?ああ…桜、綺麗だ。さすが香坂家の本邸だな…」


昴は大きく長い溜息をついた。

自分が言いたいのはそういうことではないのだが、慧星にはどうやら分かって貰えていないようだ。勘が鋭く洞察力も並はずれているのに、相変わらず驚くほどの鈍感さだ。

「そうじゃないんですが…ああ~、これは時間掛かりそうだなぁ」

「?」

「まあ、今はそれでも構いませんけどねぇ」

昴は楽しそうだ。

難攻不落なものを相手にすればするほど燃えるタイプ。それが、生涯一度しかないと確信できる、最高の出逢いであるなら尚更。


絶対に手に入れる!

美しく誇り高い、天に向かい真っ直ぐに育つ花のような、最高の女性を。

生涯の伴侶として。将来、香坂家のトップに立ち、多くの人生と世界の命運を背負うであろう自分が、唯一、心から尊敬できる赤の他人だから。


(…極上の『花』が、一輪咲いたんだ。純白の世界に、全てを染める漆黒の『花』が。俺の、宝物…)


昴は、互いを唯一として共に生きることの出来る未来を想い描き、真っ青な空と薄桃の二色を飽くことなく眺める慧星を見つめた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ