文学という形式に対する信頼 ーーゴロソフケル「ドストエフスキーとカント」から考えるーー
ゴロソフケルの「ドストエフスキーとカント」を読んでいた。この本は異様に難解で、カントの純粋理性批判とドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を抑えていないと読めないので、面倒極まりない。なので、この文章は批評ではなく単なる漠然とした感想で進めていく。
軽く説明すると、ゴロソフケルは、「カラマーゾフの兄弟」という作品は、カントのアンチノミーに対する対決として現れたと見ている。ただ、カントとドストエフスキーがどういう対決をしたかは見づらい。僕は、埴谷雄高の言うように、カントとドストエフスキーは同種の問題を扱い、似たような道を進んだと見た方が妥当だと思う。
アンチノミーというのは純粋理性批判にある話で、二律背反である。例を上げれば「宇宙は始まりや終りがあり、有限である」という答えと、「宇宙は永遠であり、無限である」という答えがある時、どっちの答えも正しいという事はできない。それは、理性そのものの限界で、つまりはそのような解答形式そのものが人間の限界であり、それがわかった時、AとBとの対決は消える。これは止揚というような、「A+B」とは違う。
これをゴロソフケルは、カラマーゾフの兄弟のイワンというキャラクターに当てはめる。確かに、イワンにはアンチノミー的な部分がある。これも軽く説明すると、イワンには悪魔的な部分と天使的な部分がせめぎ合っていて、悪魔的な部分をスメルジャコフ、またはイワン自身が見る悪魔がその化身として現れてくる。一方、天使的な部分は弟のアリョーシャが化身として作中にあらわれてくる。
この時、イワンはアンチノミーに苛まれているのであって、その解決が作品内で計られている。ゴロソフケルも取り上げているが、次のような文が印象的だ。長老ゾシマはイワンに答えて言う。
(イワン)「ところでそれはわたしの心の中で解決されうるものでしょうか? 肯定の方に解決されるものでしょうか?」
(ゾシマ)「肯定の方に解決できなければ、否定の方へも決して解決されるものではない、それがあなたの心の特性であることはご自分でも知っておられるはずじゃ」
ゾシマの言葉はほとんど作者自身の言葉であると思う。アンチノミーの解決は、どちらかの答えで解決されるものではない。今の正論ばかり言っている世の中に対して「答えはテーゼやアンチテーゼで解決するものではない」と言ってみたいが、そうなると叩かれるだろう。もちろん、ここで、答えは解決されている。彼らの出した答えが解決なのではなく、彼らの生き様が(それがどのようなものであれ)解決なのだ。自分の言いたい事はそれである。
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文学の世界にあって、本当に文学という形式を信頼して、そこにのみ自分の居場所を見出している人というのはほとんどいない。口を開けば、自分の地位や権力闘争、文学とは関係のないものを持ち出して自分を正当化し、意味づける人が多いわけだが、ドストエフスキーという人は根っからの小説家であり、小説という形式だけが彼の問題を解決したと思う。それは、イワンというキャラクターにおいてもそうだった。
ゴロソフケルの言うように、イワンは独特のアンチノミーを背負っている。それは、「思想」によっては解決しない。思想を解決するものは思想ではない。イワンというキャラクターは、確かに哲学書に書けるような大きなイデオロギーと思想的分裂を背負って作中に出てきたわけだが、彼はあくまでも、小説の中の一人物として現れてきた。彼は、ラストで発狂するが、それはアンチノミーの問題の「解決」と言う事もできるだろう。ゴロソフケルの言うように、カントのアンチノミーが、知性を破裂させる所まで進むと同様、イワンは己の破滅まで進んだのだった。
カントがアンチノミーの問題を提出し、知性の破裂を確認する。同じ様に、ドストエフスキーがイワンのアンチノミーを作中に織り込み、それはイワンそのものの発狂として現れた。これは、作者にとっては明確な答えを出しようがないから、やむなく発狂させたと見る事ができるが、この時、当然ながら、発狂したのはイワンであって、作者ではない。そこで、「問題が解決している」という時、僕はドストエフスキーの、つまり作者の立場に立っている。作中人物にとっては破滅である事が、作者にとっては(やむをえない)解決である。
思想とか、自己意識というのは広くて深い。それはあらゆるものを吸着し、あらゆる世界を覗く。そうした世界を知りたい人はフェルナンド・ペソアやパスカルを読めば体感できると思う。しかし、ペソアやパスカルの思想はその内部では、決して解決されない。困った事には、この「解決できない」というのは、自己意識の内部においてはそれ自体も発見する事が出ない。これをどう解決するか。
小説という形式は、人間の生涯、生き様、その人間の道程を描くものだ。この時、小説という形式は強引に問題を解決する。つまり、どのように巨大な思想を生きた人間も、彼は「そのように生きたのだ」と定義する。以前、ドストエフスキー論を書いた時に、無限の定義について述べた。すなわち
1、2、3、4………… = ∞
という事で、このようにして、形式にしていくと、永遠に続くものを強引に「∞」という記号に閉じ込める事ができる。実際の所、「∞」に「1、2、3、4……」が閉じ込められるかと言うと、それも果てのない議論となるだろう。だが、とにかくそう定義する。ともかくも、という事が重要で、どのような人、偉大な人、愚かな人も、「ともかく」そのように生きたのだ。これが小説というものの答えではないかと思う。
だからこそ、シェイクスピアやドストエフスキーは何の思想的問題も解決していない、という声も発生するのだろう。トルストイはこの答えを逆にさかのぼり、小説家から思想家に変貌し、小説(生の定式化)を内側から破壊してしまったという気がする。ドストエフスキーは、トルストイとは逆だった。どんな思想を持っても、その人の死の場所から生を眺めた時、その人は「そういう風に生きた」のだ。そこでは、小説という形式が、人間の自意識、思考、知性という問題を救っている。処理している。無論、この答えに違和感を持つ人はいるだろうし、自意識、知性の側から、人生の問題を突き破りたいという意志の持ち主はいるだろう。
そういう人を自分は歓迎するし、イワンもそういう人だし、自分もそんなタイプだし……もちろん、それはそうである。が、時間が経てば、何故自分がこのように言うかという事は体得されるはずである。生の内部に答えがなく、生そのものが答えであると見る時、答えは目の前にあるのだと。
この答えは、人生の只中に生と邪を見るものではない。正義と悪を設定し、自己を正義の側に置く、そのような生のあり方でもない。更に一歩引いた所で見る生のあり方で、カントも、少なくともアンチノミーを取り扱っている時は、知性のあり方を、ただ見ていた。そこで知性の行うドラマを、人間の行うドラマをドストエフスキーもカントもただ観照した。そこに彼らは人間の営みをただ見ていたのだと思う。ここは、ニーチェの言うような善悪の彼岸であり、その立場がたまたま哲学であるか文学であるかはそれほど重要ではない。ただ、自分は文学者であるので、ドストエフスキーに依拠しつつ、小説という形式によって、その内部における主体的生が、形式によって救われるのだと思う。それは、自分自身の死を見つめるような感情だ。そういう感情の中に、自分以外の他者のドラマがあると思う。




