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妄執世界のアリス  作者: 千里万里
第一部 夢見るアリス
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第三章 新天地にて

 まるで夢を見ているような気分だった。

 ナユタは温かい湯が満たされた湯船に身体を横たえ、蕩けるような気持ちで天井を見上げていた。

 村長の娘に生まれ、数日前には自警団のリーダーの真似事をしていたし、昨日の夕方までは素性の知れない怪しげな二人組に連れ回されて旅をしていたが、昨日の夕方からは酒場で給仕をして働いていた。

 それが今は、領主様のお城で温かい湯船に浸かっている。

 故郷の村では泉や川で水浴びをする事はあっても、たくさんの水を沸かしてお湯にして身体ごと浸かるなど、話しに聞いて知ってはいても、実行するのは考えられない贅沢だ。

「はあ……まるで夢みたい……こんな偶然、あっていいのかしら……?」

「いいえ、これは夢ではないし、偶然と表現するのも適切ではありません。偶然とは観測者にとって予測し得なかった出来事をそう表現するだけで、客観的に見ればこの世界で起きる全ての出来事は必然です」

「夢の無い事を言うわね……いいじゃない、私は私にとって信じられない幸せに浸っているんだから」

「夢というのも我々には理解しがたい概念です。将来の願望のように使う事もあれば、すぐに消えてしまう儚い存在に使う事もあるし、睡眠中に映像を見る現象にも使う」

「だからそう夢の無い事を……って、きゃあああああ!!!!!」

 ナユタは悲鳴を上げ、手近にあった棒状の垢擦りでルイスの顔をひっぱたく。

 ルイスは声を上げる事もなく、もんどり打って浴室の床を転がる。

「あんた達! 当然のような顔して入り込んでいるのよ!」

「嫌だなあ。僕はナユタさんが不安に思うような欲求は持ち合わせていませんから」

「そういう問題じゃなくて! 異性に裸を見られるのは恥ずかしいの!」

「恥ずかしいだなんてとんでもない。客観的に見てあなたの肉体は異性の目を惹きつけるのに充分な魅力を持っています。恥ずかしがる必要なんてありません」

「その恥ずかしい、じゃないの! 恥じらいの問題なの! あっち向いて!」

「はあ、そうですか。ナユタさんが望むのでしたら」

 ルイスは背中を向け、行儀良く正座する。

「………」

「アリスはアリスで! 自分の胸と比べてしょんぼりしないの!」

「………」

 ナユタが言うと、アリスも後ろを向いて正座する。

 いや、アリスは同姓だから後ろ向かなくてもいいんだけど。

「で、何? 何の用なの?」

 ナユタは湯船で丸くなって尋ねる。

 ここに現れた時にはびっくりしたが、これまでの事を考えれば今さら慌てるような事態ではない。

「どうせこうなったのもあんた達の企み通りなんでしょ? これからどうすればいいの?」

「おやまあ、良く気が付きましたね」

「流石に気付くわよ。ここ何日か、あんた達の手の平で踊らされていればね」

 ナユタは肩を竦める。

「あの男の足元にリンゴを転がしたのはアリスなんでしょ?」

「ご明察……」

 アリスの口からは素直な感嘆の声が漏れる。

「いやいや、流石は明敏なナユタさん。お尻を触ったのが僕だと気付いていたとは」

「あれはあんたかあああああっっっっっ!!!!!」

 ナユタの垢擦りがルイスの後頭部に襲いかかるが、意に介した様子はない。

「僕に触られたと言ってもそれはイスに座った時にお尻が触れるような物で、男性に触られたのと同一視する必要は」

「どんな言い訳よ!」

 ナユタの垢擦りはさらにルイスの後頭部を蹂躙するが、結局のところ髪を乱しただけに終わる。

 いい加減に疲れて手を止めたところで。

「もう気は済みましたか?」

「はいはい」

 涼しい声で言われては返す言葉もない。

「で、ここで何をすればいいの? 言っとくけど、誰かを殺すとか何か盗んでこいとか、悪い事をするのはお断りよ」

 この二人には自分と仲間の命を助けられた恩がある……忘れそうになるけど。

 だからといって、犯罪に荷担するのは良心が許さない。

 それ以外でできる事があるなら協力するつもりではあるけど……。

「別に何もしなくても構いませんよ」

「へ?」

 返ってきたルイスの答えに、ナユタは思わず間の抜けた声を上げる。

「何もしなくても……いいの?」

「僕達から、あれをしろ、これをしろ、と命令する事はありません。それはもう終わりました。これから先はナユタさんの考えで、好きなように行動して下さい」

「好きなようにって……それでいいの? 例えば……故郷の村に帰っても……?」

「ええ、もちろん。その時は故郷の村まで送らせていただきます。ですが……」

 後ろを向いたままなのに、ルイスの自信に満ちた笑顔が浮かんでくるようだった。

「あなたはそんな事はしません。そうですよね?」

「………」

 見透かされている。

 それが少しだけ癪に障るのだが。

「まあ確かに、そんなつもりないけど……」

 図らずも訪れた幸運に執着するつもりはないが、かといって目の前の新しい世界に目を背けて、すぐに故郷の村に帰るのも惜しい気がする。

 しかし好きにしても構わないと言われても、何をしたらいいのか……?

 ナユタが天井を見上げて頭を捻っていると。

「では僕達はこれからしばらくグロモフという男が治める隣の町に滞在します」

 ルイスの言葉に、ナユタが驚きの声を上げる暇さえなかった。

「ナユタさんはしばらくの間、ここでの暮らしを堪能していて下さい」

「ちょっとそれはどういう……」

 振り返った時、アリスとルイスの姿は忽然と消えていた。

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