私の世界はとある男によって生まれ変わり創られる
物語の世界はいつだって綺麗に彩られ、縁取られ、形作られていた。
だからこそ、それが羨ましくて分厚い本を持ち、硬い革の表紙を開き、インクの乗った紙を捲る。
図書室は宝の山で、人も少なくて、静かで、私みたいなのがいるのには丁度良い場所だった。
換気のために開けられた窓からは、僅かな風と共に運動部の掛け声が入って来る。
良く響く金属音としっかりした声は、野球部のもので、強豪と言われるだけあって、毎日毎日聞こえるものだ。
野球なんて興味無いけれど、聞こえてくるものだから気になることもある。
本を戻すために立ち上がった際に、いつも窓側を通って練習風景を見ていた。
同じ学校に通っているが、まるで別の世界のように見えてしまい、目を細める。
何で野球部の練習場に面しているんだ、この図書室、なんて理不尽なことを思ってしまう。
繰り返し繰り返し、毎日放課後は図書室にやって来ては本を開き、思い出したように野球部の練習風景を見下ろすのが日課になってしまった。
残念ながら本当にチラ見程度なので、ルールは分からない上に、うちの部活だからと言ってもその戦果は分からない。
青空にやけに映える白いユニホームだけは、瞼の裏に焼き付いて離れることはなかった。
***
閉館時間の丁度十分前、制服の胸ポケットに入れていた携帯が震える。
いつも通り時間を確認して、予めセットしていたバイブを止めて顔を上げれば、予期していなかった顔が目の前にあり、椅子を引く。
「……何、してるの」
暫しの沈黙を挟んで、口を開いたのは私。
するといつの間にか目の前の席に座っていた男は、頬杖を付いたまま、にっこりと笑う。
猫のように細められた目に、綺麗な三日月型を描く唇の笑顔は、本当に嫌味ったらしいまでに綺麗な笑顔だ。
「うん?」
「何してるのかって聞いてるの」
「練習終わったから見に来た」
そう言ってもう一度綺麗な笑みを作り出す目の前の男は、その言葉通り泥まみれ土まみれ砂まみれのユニホームを着ていた。
そのユニホームは汚れているが、元の色は白。
あの、青空にやけに映える白いユニホームだ。
もうそろそろ閉まる時間だろ?と言いながら、目の前の男は私が握っている携帯を指差す。
そうだ、だから私は帰るのだ。
ゆっくりと椅子を引いて立ち上がり本を持つ。
「それ片付けたら送る」
身を翻して本棚に向かおうとした矢先に掛けられた言葉に、私は目を丸めて振り返る。
そこには先程と同じように頬杖を付いたまま笑う男がいて、早く行って来い、と言った。
何なんだ、コイツ。
――そもそも、あの男との出会いは約一ヶ月程前に遡る。
その日も同じように、放課後は放課後で図書室までやって来て本を読んでは、立ち上がり本を戻すついで感覚で野球部の練習風景を見下ろしていた。
それから、同じように席に戻って本を読んでいたら、上から声が降ってきたのだ。
司書さんは図書室の鍵を開けるだけ開けて、後は自由にしてくれスタンスでいなくなってしまうので、除外は当然。
図書委員も仕事を忘れているのか、サボっているのか――断然後者だろうが――いないので除外。
ならば、図書室の勝手が分からない誰かだろうか、仕方なく顔を上げれば、ユニホーム姿のあの男が立っていたのだ。
「あの」
「え、あぁ。はい」
もう一度呼ばれたので、本を閉じながら頷けば、突っ立ったままのあの男は瞬きを一つ。
それから「いつも練習、ここから見てますよね」と言い出したのだ。
いつも、まぁ、確かにいつも図書室にいるから本当に十数分とかだが見ている。
そのため、また緩く頷き肯定を示す。
「名前、教えて貰ってもいいですか」
整った顔をしているとは思ったが、あまりにも真顔で言うものだから、反射的に答えてしまい、名前だけではなく学年とクラスまで聞かれた。
因みに相手は相手で、聞いてもいないのに名乗った。
同じ学年隣のクラスで苗字が名前みたいで、女の子みたいな名前の苗字だった。
それからというもの、何が楽しいのか、彼は休憩時間やら練習終わりやら、図書室に、私の所にやって来るようになってしまった。
一人で帰れるから良いんだけど、なんて思いながら本を元の本棚に入れて戻れば、何故か窓を全て閉めている。
「ねぇ」
「……何」
窓に手をかけたまま、私の方を見て笑う彼。
強豪校らしく厳しい練習をして来た後だろうに、何故そんな風に自然に笑えるのか。
ジッ、とここ最近で見慣れた笑顔を見つめる。
「興味あるなら、一回、ちゃんと練習見に来てみなよ。楽しいと思うけど」
その言葉に自然と口が開いて閉じる。
言葉として形をなさない何かが、空気中に溶けて消えていくのを感じながら、私は彼を見つめた。
笑顔は相変わらずで、私の返答を待っている。
「私、女ですけど」
「マネージャーとして」
真顔で答えた私に対して、鋭く素早く的確に笑顔で突っ込んで来た彼は、窓から離れて私の手を取った。
嫌に熱っぽい大きな手の平は、皮が厚くてゴツゴツしている。
包み込むように手を握られ、肩が大きく跳ねた。
***
パチリ、目を開くと見慣れた白い天井があって、真横から規則正しい寝息が聞こえてくる。
物凄く懐かしい夢を見た。
学生時代の彼との出会いの夢だ。
野球部だった彼が、図書室に引き篭もっていた私を、あの青空の下へと引っ張り出した日だった。
ベッドの上で上半身だけを起こした私は、目を閉じて青空に映えるユニホームを思い出す。
簡単に思い出せる広いグラウンドに、砂の匂い、耳に馴染む掛け声と金属音。
青空を切り裂く白球を見た時は、本当にドキドキした。
「……ん」
もぞもぞ、と掛け布団が動いたので、瞼の裏にあった情景を消し去り目を開ける。
隣で寝ていた彼が、覚醒間近らしく寝返りを打っては眉を寄せていた。
窓の外からは朝日が差し込んでいて、今にも小鳥の鳴き声が聞こえて来そうだ。
「おはよう、せかい」
物語の世界の方が綺麗だと信じていて、そちらの方が好きだと豪語していたはずなのに、彼が引っ張り出した世界は思ったよりも綺麗だった。
ゴツゴツした大きな手の平を握り、未だ夢の中の彼に声を掛ける。
おはよう、今日も二人の世界は綺麗だよ。