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六日目

「おはよう。いい朝ね!」

 差し込んだ日光にまぶたを焼かれ、ぼくは慌てて体を起こした。

 彼女が窓とカーテンを開けたらしい。窓からは朝日に照らされた別府の温泉街が見えて、独特の匂いのする風が吹き込んでくる。風までもが温泉の匂いだ。

「君っていつも早起きだねえ」

「私が早いんじゃない、君が遅いのよ」

「そうかもしれない」

 朝ごはん食べましょと言って、彼女が浴衣を脱いで着替え出した。昨日の夜を思い出したぼくは、やや恥ずかしくなって目を背ける。

 浴衣から持ってきた私服に着替え、階下に降りて食堂に行く。朝食はバイキング式で、どれもおいしそうだったけど、ぼくたちはせっかくだからと温泉卵ばかりを満腹になるまで食べた。

 食べ終わってから部屋に戻り、荷造りをする。荷造りと言っても、持ってきたものを適当にリュックに放り込むだけだ。

「おいしかったね」

「確かに。でももう卵は見たくないかな」

「食べすぎるからでしょ」

 あのねえ、とぼくは彼女を睨んだ。

「君が食べきれなくて残した卵を全部食べてやったのは誰だと思ってるんだい」

「そうでした、失礼」

 彼女は笑ってぴょこんと頭を下げた。ポニーテールもかわいいけど、寝起きで少し乱れたままの髪もなんだか大人の艶のようなものがあって素晴らしい。

「じゃ、地獄めぐりに出発ね!」

 身だしなみも整え、荷物も全て持ったことを確認してから、ぼくたちは宿を出た。

 別府の地獄めぐりとは、海地獄、血の池地獄、龍巻地獄、白池地獄などを巡る別府温泉の定番観光コースだ。ここでは温泉のことを地獄と呼ぶらしい。

「ねえ、どう回る?」

「時間はたっぷりあるし、一個一個じっくり見て回ろうか。龍巻地獄は間欠泉で、だいたい三十分から四十分ごとにお湯が噴き出すらしいよ」

「へえ! 間欠泉なんて教科書で見て以来かも」

「じゃ、龍巻地獄から行こうか」

 間欠泉が噴き出す場所には屋根が取り付けてあった。屋根で遮らないともっと高くまで噴き上がるということだろうか。

「あ、今さっき噴き出しちゃったみたい」

「じゃ、先にあれ食べようよ。君、みかん好きだったよね」

 ぼくたちは売店に入り、みかんのジェラートを二つ注文した。

 しばらくしてから運ばれてきたジェラートを口に運び、彼女は感動の声を上げる。

「すっごいみかん!」

 ぼくも一口食べて、つぶやいた。

「みかんだねえ」

 みかんをそのまま凍らせたような、ちゃんとしたみかんの味だった。二人でみかんみかんと呟きながらジェラートを食べ終えた。少し冷えたので、ぽかぽかとしたひだまりに座って温まる。

「あっ、そろそろ時間だよ」

「見たい見たい」

 駆け寄って、お湯が噴き出す穴を眺める。

 しばらくして、穴から一気にお湯と湯気が噴き出した。地面の下に噴水の機械でも付けているんじゃないかってぐらいに勢いがよくて、これが自然現象だなんて信じられなかった。

「うひゃあ、迫力あるね」

「自然ってすごいね」

 お湯はずっと噴き出し続けた。

「えーと、六分から十分噴き出し続けるって書いてあるよ」

「そんなに! 毎日毎日大盤振る舞いだねえ……お湯がなくなったりしないのかな」

 熱湯の噴水を二人で眺めた。飛び散るしぶきが太陽に照らされてキラキラ光る。

 やがてゆっくりと水勢が弱まっていき、ついにお湯は出なくなった。

「目の前で見るとすごかったねえ」

「次はどこに行く? 隣に血の池地獄があるよ」

「わっ、そこ行ってみたい」


 血の池地獄はただの赤みを帯びた温泉かと思いきや、思ったよりも血の色に近くて少し怖かった。お湯は橙がかった赤に濁っていて、地獄という名前が一番しっくりくる。

 お湯の温度は相変わらず高いらしい。地獄めぐりは、温泉に来たのに温泉に入れないという不思議な場所だった。見るための温泉なんてなんだか新鮮だ。

「足湯があるらしいよ」

「あんなお湯に足を漬けるの? 死んじゃうよ!」

「もう死んでるよ」

「そうでした……」

「さすがに温度は調整してあると思うよ」

「本当?」

「考えるより試しましょう」

 彼女を引きずって足湯に連れて行こうとしたが足を踏ん張って抵抗したので、ぼくは彼女をひょいと抱え上げた。

「あっ、こら、下ろせ」

「下ろさない」

 周囲の人が微笑ましそうにこっちを見てくる。お姫様抱っこされている彼女の顔が、血の池地獄もかくやというほどに赤くなった。

「お願いだから下ろしてください」

 彼女がか細い声で言うので、地面にすとんと下ろしてあげた。

「じゃ、足湯に行こう」

「はい」

 彼女はおとなしく付いてきた。

 靴と靴下を脱いでとぷんとお湯に足を浸す。

「気持ちいいいい」

 一旦足湯に浸かった彼女は、今度は出たがらなくなってしまった。

「そろそろ出ようよ」

「もうちょっと、もうちょっとだけ」

「足がふやけちゃうよ」

「それは嫌だなあ……しょうがない!」

 彼女は意を決したようにお湯からざばっと足を抜いた。

 足を拭いて靴下と靴を履いてからぼくたちは立ち上がり、次の地獄へ向かう。どちらからともなく手をつないで、そのまま腕を大きく振りながら歩いた。


 白池地獄は、ほんの少し青みを帯びている。

 温泉の熱を利用しているという水槽があって、ピラニアなんかが飼育されていた。実際に見るのは初めてだけど、アマゾンの辺りにいて、河に落ちた人間や牛を食べてしまうことは知っている。

「こんなのに食べられて死ぬよりはマシな最期だったかもね」

 牙をむき出しにする魚を見ながら、彼女が感慨深げに言った。

「痛かった?」

「全然」

 彼女は首を横に振った。

「どんってなって、目の前が真っ暗になって、それでおしまい。気づいたら目の前に羽が生えた人間みたいなのがいて」

「脛を蹴飛ばしたわけだ」

「そういうこと」

「痛かっただろうね」

「ううん、今痛くなかったって言ったでしょ」

「違うよ、君が蹴った天使の脛だよ」

「あっ」

 彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。

「戻ったら謝っとく」

 ぼくは重々しく頷いた。

「そうしなさい」


 海地獄はその名の通り、真っ青な温泉だ。地獄というより天国で、コバルトブルーの綺麗なお湯は思わず触りたくなるほどだった。でも決して触ってはいけない。お湯の温度は九十八度、かなりの熱湯だからだ。

 温泉の端っこの方には温泉卵のネットが吊り下げられていた。

「ねえ、あれ食べない?」

「ううん、もう卵は見たくない」

「違うよ、あれあれ」

 彼女が指差す先にあったのは、「地獄蒸し焼きプリン」というなんともおどろおどろしくおいしそうな名前のプリンだった。

「さっきのジェラートは?」

「別腹!」

「しょうがないなあ」

 プリンを買って、ベンチに座って二人で食べた。

 彼女の顔がほころぶ。

「これもおいしいねえ」

 何を食べても幸せそうに味わう彼女を見て、ああ、こんなところも大好きだったんだと改めて気づいた。


 ほかの温泉も全部行ったあと(あのあと二回も足湯につかった)、ぼくたちは陽だまりのベンチに座ってほっとひと息ついた。

「地獄めぐり、どうだった?」

「地獄なのにきれいだった」

「確かに」

「これから天国めぐりもできるわけだし、私ってもしかして天国と地獄の両方を制覇した人類史上初の女になるんじゃないかな」

 ぼくは鼻で笑った。

「本物の地獄はこんなものじゃないと思うよ」

「私、天国に行けるかな?」

 彼女が柄にもなく不安そうな顔をしているので、ぼくは吹き出した。

「天使が迎えに来たんだったら、行き先は天国でしょ」

「そっか、そうだよね」

 うんうんと頷く。

「悪いことなんてしてないもの」

「数週間前に冷蔵庫の中にあったぼくのみかんゼリーを食べたのは?」

 彼女は縮こまった。

「は、反省してます」

「よろしい」

 彼女がみかん大好きだって知っていたから、あのときはさほど腹も立たなかった。今となっては、もっと食べさせてあげておけばよかったと思っている。

 日当たりのいいベンチに座っていると眠くなってきたらしく、彼女はぼくにもたれかかって眠り始めた。

 彼女の頭の重みを肩に感じながら、ぼくは全身で幸せを受け止めた。幸せっていう言葉は、こういうときに使わずしていつ使うんだろうか。心の中で、彼女を一週間だけ返してくれた神様にお礼を言った。


 彼女が目を覚ましたので、ぼくは立ち上がった。時刻は三時過ぎ。そろそろ行かないと飛行機に間に合わなくなる。

「ぐっすり寝てたね。よし、帰ろうか」

 ぼくたちは駅に向かった。

 駅のホームでしばらく待つと、福岡行きの列車が来た。乗り込んで、四人掛けの座席に向き合って座る。

「あっという間だったねえ」

 彼女は幸せそうに言った。

「あと一日だけど、やり残したことはまだ残ってる?」

「うん、あと二つ」

「二つも! 明日で終わる?」

「終わる終わる」

 彼女は頷いた。

「そんなことより、トランプしましょ。今度は勝つよ」

「百年早いね」

 ぼくはフンと鼻で笑うと、トランプを出してシャッフルを始めた。


 列車は進む。ぼくたちの旅を終わりへと運んでいく。


 やがて博多駅に着き、福岡空港へ移動した。同じように手荷物検査を受け、飛行機に乗り込む。

 ぼくたちは飛行機の座席に座るとすぐに眠り込んでしまった。普段歩かない山の中を歩き回って、疲労が溜まっていたのだ。

 鈍い衝撃で目を覚ますと、ちょうど着陸するところだった。見慣れた景色が、帰ってきたことを告げている。ぼくたちは黙って空港を出て歩いた。

 二人でバスに乗り、家に帰る。だんだんと言葉が少なくなっていく。もう六日目の夜。明日、彼女はいなくなるのだ。

 旅の終わりが思い出させた。

 ぼくたちに残された時間の少なさを、そして今度こそ彼女と会えなくなるのだということを。


 あまり喋らないまま家に帰って、そのままベッドに入り、二人で手をつないで眠った。

 このまま目が覚めなければいいのに、と強く願った。

読み返していて恥ずかしいですが、もう引っ込みもつかないので公開します…

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