お葬式ごっこ
高梨さんとななしちゃんのお話再び。
鍵の付いていないトイレの、冷たい便座に腰を下ろして少し考えた。
さっきまで高梨さんのものが入っていた肢と肢の間の深い穴は、あんなに充分濡れていたというのに微かな痛みを訴えかけてくる。
高梨さんのが左曲がりなのが悪いんだろう。
まっすぐ入れてるというけれど、中できっと左側ばかりをこするから。ううん、違う。入れるときにどうしても穴の縁へ引っかかって、それでも無理に分け入ろうとするからかもしれない。
そうだそうだ、それだ。
入れる寸前なんてそれなりにお互い興奮してしまっていて、息も荒くて呼吸に空気はたっぷりと熱せられていて、そんな状態で「ちょっと待って、引っかかってるからもっと入り口に沿って入れてよ」なんて冷静に言えるわけもなく、あたしの口からは「入れて入れて入れて入れて入れて入れてああああああーっああーっ、入れてええええええええええー!」なんていう獣みたいな本能しかないような叫びしか出てこないのだ。
入れたからといって、即身体が浮かんでしまいそうな快感が襲ってくるわけではないのだけど。
でも、高梨さんのあれは今まで付き合ってきた男の人のどれよりも大きくて、それを言うと彼は「お前は今までどんな粗末なものしか持ってない男とばっかり付き合ってきたんだ」と可哀想がられるけど、でも実際多分本当に大きくて、そのせいで入れられるとお腹の下の方からぐわっと空気が上がってくるような圧迫感がある。その圧迫感はなにやら壮絶な幸福感をあたしに与える。これこれこれ、これが欲しかったのもっとぎゅっと自分の存在をあたしの中でアピールして、してしてしまくってできればキズにしてでも残してもっともっともっともっと、なんてはしたなく思ったりする。思って、口に出てしまっていたりもする。
もっともっともっともっと。
もっと、って、なんて甘くてふわりとしていて、気持ちがいい催促の言葉なんだろう。もっと。可愛い。もっと。どんなに繰り返しても、相手からそう嫌な顔をされなさそうな言葉。もっと。もっともっともっともっと、もっと。この言葉を考えた人はすごいと思う。語感がとってもいい。好き。もっと。もっと。おねだりの、うんとうんと可愛い言葉。
おねだりすると高梨さんはひどく意地の悪い顔をする。だけどそれは本当に意地の悪い、いじめようとか考える悪い人の顔ではなくて、そんなことを言う俺のことを好きな女はどこだ誰だ食ってしまうぞ、みたいな、飢えた狼みたいな顔で。にんまりと笑う。その唇の角度が、本当に本当にゆるやかでなめらかで、あたしはそのときの高梨さんの顔がこの世で一番好きだと真剣に思う。
そして、その顔のときにしてくれるキスが、あたしは世界で一番大好きな気持ちのいいキスだと信じている。
噛み付くようなキス。
本当に噛み付いてくる。上唇に歯を立てられて、下唇を甘噛みされて、息を詰まらされていると大きく開けた口でがぶりとあたしの唇を覆ってしまうのだ。そして、乱暴に舌が進入してくる。
もう、ハリケーンみたいな存在感で、あたしの口の中を滅茶苦茶に荒らしてしまう。荒らして、爪痕を残して、もうどこにも逃げられなくなるまで追い詰められて、力もなくなって途方に暮れたあたしの舌はぎゅっと吸われてしまう。
そのときの、頭の芯がぼうっと痺れてふらふらにさせられてしまう心地良さと言ったら。
「おーいー、なにしてんだよ、寝てんじゃないのか?」
トイレのドア越しに高梨さんの声がして、あたしは裸のお尻がひんやり冷えていることを思い出す。
考え事って、今のはちっとも考え事じゃなくて、ただの反芻だった。
「寝惚けた顔してると、また突っ込んじゃうよ?」
ドアが開けられて、ブラジャーだけしていたあたしは可愛らしく、きゃっ、なんて声を上げてみるけど、目が笑っちゃっていけない。
突っ込んで突っ込んで突っ込んで、滅茶苦茶にして、うんとうんとうんと。お願い。そう言いたくなる。目は口ほどにものを言うっていうんだから、きっとあたしの視線はレーザー光線並みに鋭く光ってこの貪欲な願望をきっとくっきり高梨さんの胸に刻んでしまっている。
そのはっきり刻まれた願望に気付かない振りをして、唇の端で笑うのが高梨さんという人なのだけど。
「可愛い子ぶりやがって」
「可愛い方がいいでしょう?」
「可愛くなくたって女はみんな可愛いよ」
「どうして?」
「俺を飲み込む性だから」
意味なんて分かんないけど、分かんない、って顔をすると高梨さんはあからさまに軽蔑した顔になる。頭の悪い女は嫌いだから、本気で頭が悪くっても頭が悪くない演技をするべきだって彼はいつも言う。本気で頭が悪い女の人が演技を出来るものなのかどうなのかは疑問だけど、確かにあたしだって、オレ馬っ鹿でーす! みたいな男には興味がないから、彼の考えは尤もなんだと思う。
分かんないときは相手の目を見て、そしてゆっくりと俯くようにして笑う。
そういう考え方もあるわよね、みたいな感じで。
じゃあお前の考えを言ってみろよって言われたら、すっごく困るんだけど。
「便秘か」
「ロマンチックじゃないこと言わないで」
「閉じ込められた王女様が王子の助けを待っていたか」
「つまんない昔話みたいにしちゃわないで」
鍵もかからないトイレに閉じ込められる王女様って、どんな無能の人なんだろう。
「じゃあなんだ」
タバコを吸わない高梨さんは、セックスの後でガムを噛む。ミントの香り。服に匂いがつくのが嫌なんだそうだ。
「お葬式ごっこ、しよう?」
「葬式ごっこ?」
なんだそれ、とさすがに彼も不思議そうな顔になる。
「お前、死にたいのか」
「まさか」
「もしかして俺を殺したいのか」
「なんで」
「殺したいほど好きって意味で」
「うぬぼれてるね、高梨さんはうぬぼれ屋さんでうんと可愛いのね」
十八才年上の男を捕まえて、あたしは可愛いなんて言ってみせる。だけど本当に彼は若く見える。今年四十なんて嘘みたい。二十二歳のあたしは、小娘だけど外見は多分年相応だ。
便器から立ち上がって、あたしはそのまま手を前に突き出す。抱っこ、の意味で。高梨さんはちょっと近付いてくれただけで、別に抱きしめてくれたりはしない。だから、こっちで勝手に首へと腕を回す。
「ケツ拭いたのかよ」
「なんにも出てないもん」
「本当か? 確認のために舐めるぞ?」
「どこを?」
「お前、指や顔舐めたって意味ないだろ」
「じゃああたしが舐めてあげる」
「いいよ、お前へたくそだから」
「練習台になってくれればいいじゃん」
「本番は誰なんだよ」
「高梨さんだよ」
「じゃあ練習台じゃなくて予行演習だな」
でも舐めなくていいよ別に、と高梨さんはあたしをしがみつかせたまま耳元でぼそぼそと、だけど蜜が混ざったようにねっとりと甘い声で囁いた。確かに、もう高梨さんは服を着ちゃってるし。
彼には奥さんと、五歳になる男の子がいる。家族として。
そういう人なのだ。
あたしのものではない。
あたしはただ、ちょっとだけ彼をその家族の人達から借りている。もちろん、内緒で。だから、無断拝借。
彼があたしのものではないということは、あたしも彼のものではないということだ。と言いたいところなんだけど、それがどうしてか不思議なことにあたしは彼のものなのだ。所有されてる。きっちりと。目に見えない首輪を与えられて目に見えないリードをつけられて、目に見えない焼印でも押されているみたいに。あたしの身体も心も不思議と高梨さんのもの。本当に、不思議。
「もう帰んなきゃ」
時間で区切られたラブホテル。それは高梨さんにとって、都合のいいシステムだ。時間がきたからお家に帰らなきゃ、と言い訳になるし、お時間ですとかかってくる電話は現実に自分を引き戻すための大事なスイッチにもなっている。気持ちの切り替え。愛し合っているという前提で空気を濃く甘く染めたふたりの間に割り込んでくる、第三者の声。そしてふたりは我に返る。
「お泊りしようよ?」
「おねだりは可愛いが、時と場合によるな」
「お葬式ごっこをしようよ」
「お前が何を言っているのかさっぱり分からないんだが、あれか、最近若者の間でそういう変な遊びが流行ってんのか」
「流行ってないし、最近の若者とかっておっさんくさいこと言わないでよ」
「悪いがオレはおっさんだ」
「おっさんでも、素敵なおっさんよ?」
ありがとう、と高梨さんは首にしがみついているあたしを引き剥がして言う。見たら、結構真顔だった。変な遊びをしたがるんだな、とそのままの顔で言って、だけど腕を振りほどいたあたしの胸、赤いチェック柄のブラジャーをしているその谷間に指を突っ込みながら、でも言ってみ? と軽い調子で言う。
「『言ってみ?』」
「お葬式ごっこの内容、もしくはやり方」
「この前おばあちゃんが亡くなったの」
「話が飛んだぞ」
唇を尖らせながらも、目に楽しそうな輝きを宿した高梨さんが顎をしゃくって続きを促した。
おばあちゃんのお葬式は、桜の開花が早いかもしれないとニュースになっていた四月だった。
やたらと陽気のいい日が続き、桜のつぼみもピンク色を濃くして開くタイミングを見計らっているような時期だったのに、その日だけ季節外れの大雪が降った。それは大きな大きな牡丹雪で、水分をたっぷりと含んでいてうんと重たかった。
前日までは汗ばむくらいの陽気で、お通夜のときも八十五歳も過ぎた大往生なのだからと、お父さんや親戚のおじちゃん達は金色の布をかけられた布団に寝かされているおばあちゃんの前で、日本酒なんか飲んでべろべろになっていた。お母さん達はお線香だのろうそくだのと時々立ち上がるくらいで、そのうち泊まりはお父さん達に任せて帰りましょ、なんて言い出した。孫で集まったのはあたしと妹だけで、他はまだ県外で大学生だったり都合が付かないからとりあえず次の日のお葬式に、なんて言っていて顔を見せなかった。
死んじゃうって、淋しいことだ。
身体はそこで横になってるのに、中身がないから生きていなくて、だから話に加われないし美味しそうなものがあっても食べられないし、お線香の煙がけむそうでも文句も言えない。
おばあちゃん。
あたしは何度か呼びかけた。
小さな声で、こそっと。
死んだ振りをしているなら、今起きるのが一番タイミングがいいよ、って。今なら冗談で済むよ、って。
でもおばあちゃんは全然起き上がる気配も見せなかった。
お父さんとおじちゃん達と、お通夜だからここに残るって言ってたおばちゃんのひとりが、昔話をはじめても。おばあちゃんは「そうそう、そうだったよね懐かしい」とか「あの時は川に落ちちゃって、こっちも肝を冷やしたよ」とか、言いそうなのにまったく言わなかった。
死んでいるから。
死んでいるのは、だから本当に淋しい。
もしかしたら身体のところにはいないけど、魂がそこらを漂っていて話に参加してるかな、なんて思って、あたしは時々天井の方とかをぐるっと見回してみたけど、まったく分からなかった。
一度だけ顔にかかっていた布を取ってもらって、おばあちゃんを見た。
薄くお化粧してあって、チークをしているせいか生きていたときよりちょっとだけ若く見えた。そして、ただ寝ているだけみたいにも。
でも、ちょっとだけ腕に触ったら、泣きたくなるくらい硬くて冷たかったから、あたしはびっくりして慌てて手を引っ込めた。
お通夜のときは、あたしと妹ばっかりがなんだか哀しんでいた。
おばあちゃんの子供達とその連れ合い達は、思い出話ばかりしていたから、死んじゃってももう年なんだからっていうのがあるのかな、お父さんも「まだ親が片付いていない」なんて話していたことがあるし、と思っていたのに。
大雪のぼたぼた降るお葬式では、お通夜で泣いていなかった親達がみんな泣いてた。
今後のスケジュールはみんな一枚の紙にまとめられていて、段取りよく進むようになっている。時間と月日で区切られていて、死んだ人が死んだ後に行く世界があるのならそこへ順序良く行けるように、まだ生きている人達は嘆き哀しんで自分が生きていくことに支障が出たりしないようにの道しるべ。
いつか、ただ穏やかに死者を思い出すことが出来るようになる日まで。
あたしはおばあちゃんのお葬式で、ずっと高梨さんのことを思っていた。
どこかグレーがかった喪服は慌てて調達したもので、だっておばあちゃんは肺がんの疑いがあるとかって入院したらたった三日後にあっけなく死んじゃったから。あたしのサイズに、ぴったりじゃなかった。でもそれでいいと思った。ぴったりだったら、なんだか怖い。だって、死者を弔うための服がこの身体にぴったりなら、あたしはこの先いくつもいくつもお葬式に出なきゃならないだろうから。もちろん、ぴったりだろうがそうじゃなかろうが、お葬式には出るものだしそれは結婚式と違って予定しているものではなくて突然やってくるものだけど。
でも、あたしは袖がちょっと長くて、スカートが野暮ったい長さでウエスト緩めの喪服で、良かったと思った。
あたしは誰かが死ぬ準備を、あらかじめちゃんとしておいたわけじゃないって、言い訳ができるような気がして。
そして、高梨さんのことを思った。
おばあちゃんの顔の周りをお花で埋めたときも。
高梨さんだったら菊とかより薔薇が似合いそうだけどそれってどうなんだろうって思ってた。
おばあちゃんがピンク色っぽいスカスカの骨に焼かれてしまったときも。
高梨さんの骨ばった大きな手は焼かれてもそのまま大きく残るのかしらとか思ってた。
あたしの髪を優しく撫でる、手。
あたしの顎を乱暴につかむ、手。
おばあちゃんの骨が小さな骨壷に収まったときも。
高梨さんじゃあの小さな骨の壷だと足りないわと思っていた。全部入るようにと、係りの人が骨をちょっと崩したとき、あたしが高梨さんを収めるのならもっともっと丁寧にやるのに、と憤慨してた。
高梨さんが死んだとして。
あたしはその死をきっと知らないだろう。
だって、あたしにそれを伝える人はいない。少なくとも、お通夜やお葬式に間に合うようには、誰も教えてくれないだろう。そういう関係ではないと、誰もが思っているはずだから。
高梨さんが死んだとして、あたしがそのことをずっと知らないままだったら、あたしの中でずっと高梨さんは生きていることになる。死んだりしないで、ずっと、ずっと。でも、そうしたら死んでいることを知らないままだからどうして連絡が取れないんだろうとあたしは苦しむだろう。どこにいるの、どうしているの、あたしのことが不必要になったのならきちんと告げて、捨てるならきっちり捨てて、どうして会えないの、会いたくないなら終わりをちょうだい、区切って、あたしの気持ちを、納得できるとかできないとかはまた別の話として、と叫ぶだろう。
高梨さん。
あたしは、多分彼が思うよりずっと、彼のことが好きだと思う。
でもそれは形にして見せることができないものであるから、察してもらうしかない。察してもらうと、あたしと高梨さんとの間で認識のズレができる。
それが、淋しい。
そして、思う。
あたしが死んだら、高梨さんはどれぐらい哀しんでくれるんだろう。
あたしと高梨さんの恋がいつか消えるとして、誰も知らなかったこの恋の存在は無縁仏みたいに花にも飾られなくて淋しいまんまなんだろうか。あたしが死んでしまったことを高梨さんがずっと知らないままでいるより、そっちの方がずっとずっと、淋しくて怖い。
「欲しいものを欲しいって言ったら手に入ると信じているって、幸せなことだと思いません?」
かしこまった感じでしゃべるのな今夜は、と言われたけど、別に他意はなかった。
「お前のこと?」
「あたし? どうして?」
「既婚者でも欲しい欲しいって言って俺のこと手に入れてるから」
「手に入れてないじゃない、高梨さんの心は奥さんのものでしょ?」
俺の心は俺のものだからなぁ、と語尾を曖昧に伸ばしている、そのトーンが好き。
今夜の高梨さんは仕事帰りで、スーツ姿だった。水色と紺のしましまをしたネクタイは、彼にとてもよく似合っている。
あたしは彼のスーツ姿がとても好きで、いつもに増して更に更に欲情する。ネクタイの結び目に指を突っ込んで焦りながら解きたい。自分の指先の無能さに焦れながら、呼吸を荒くして圧し掛かりたい。
「あたしは別に、欲しい欲しいの子じゃないもん」
「そうか?」
「うん。逆に弟とか妹とかに、欲しいって言われてなんでも取られちゃう子だった。おやつとか、ご飯のおかずとか。でもお姉ちゃんだから我慢しな、って言われてたの。そんなもんなんだ、お姉ちゃんって、って思ってた。だから、欲しいっていろいろ思わないように生きてたの。欲しい欲しいって思って手に入れたものを弟達に取られちゃったら、うんと悔しいでしょ? だけど、欲しいって思わないで手に入ったものだったら、誰かに取られちゃっても、ため息吐くくらいで諦められるでしょ?」
「ひねくれてんな、達観してんのかもしんないけど。可哀想だ、そういう考え方は」
「うん、まあ聞いてよ。仕方ないもん、あたしはずっとそうやって生きてきたから。でもはじめてあたしは、自分から欲しいって思ったの。高梨さんを。だから、高梨さんは特別なの。高梨さんだけは本当に欲しいって思ったの、それって本当の恋ってことでしょ? あたしは高梨さんへの恋心でできてるのよ」
詩人だな、と彼は茶化しながらも目を細めている。
「そんなに俺を好きか」
「好き」
「おお、素直だな。お前は可愛い。本っ当に可愛い」
でもあたしを選ばないくせに。
知ってる。
言わないけど。
高梨さんはあたしを手に入れるために家族を捨てたりしない。
だって、あたしは好きと言っている時点で、自分の弱みを晒しているから。
恋は好きの量が多いほうが負けなのを、女の子は生まれたときからみんな知っている。だからみんな、愛されたがる。自分の不利にならないように。好きという言葉に重みをより抱えている方が、相手より弱い。好き、という気持ちは相手の我儘を許さなきゃならなくなって、無茶を受け入れなきゃならなくなって、自分ばかり傷付くことを許容しなきゃならなくなることを強要してくる。それで、ますます相手から離れられなくなる。ここまでしたのに、ここまで許したのに、だから等価を。対等な気持ちを、あなたもあたしにちょうだい、と。
自分で自分をがんじがらめにしてしまう。
そしてますます弱くなる。
高梨さんは、存在するだけであたしを永遠に手に入れ続ける。
「俺もお前が好きだよ」
あたしが高梨さんの人生計画に何の邪魔もしない限りはってことでしょ? と言ってしまえばそこで終わるのが分かってるから、もちろん微笑むだけにしておく。
腕を取って、嬉しくて仕方ない顔でにこにこする。スーツのときは抱きつかない。ファンデーションをつけてしまうといけないから。
「もっと言って?」
「好き?」
「疑問形じゃなくて」
「好きだよ」
「もっと」
「好き」
「もっと、いっぱい」
「お前が、好き」
「あたしも、好き」
言葉は留まらない。そしてすぐに嘘になる。紙の裏表と同じ。表には本当、裏には嘘、って書いてある紙。ひらひら舞って、気紛れに嘘になる、本当になる。昨日の本当は今日の風で裏返って嘘になる。
言葉は儚い。
なのに、心は気持ちでしか表わせない。
他になにを信じればいいんだろう、訴えかける視線か、絡めた指の熱さか。
「もっと」
「欲張りだ」
「はじめて欲しいと思ったものだから、加減が分からないの」
「お前、とことん可愛いな」
「高梨さんがあたしを可愛いって言うたびに、あたしは本気で自分が可愛いんじゃないかって、うんと幸せな錯覚に陥るよ?」
「思い込みで女なんていくらでも綺麗になるんだから、勘違い上等だよ、しとけしとけ、勘違い」
それで葬式がしたいんだっけ、と高梨さんが言った。うん、と頷いてから、ああこの人はあたしの言葉を覚えていたんだ、と少し嬉しくて、少し不思議だった。
前に会ったのは初夏だった。
二十八日後の今日はもう盛りの夏の中だ。
熱帯夜でも、クーラーの効いた部屋の中なら関係がない。絡みあって汗をかいても、シャワーを浴びれば綺麗になる。
「あのね、おばあちゃんが亡くなったの」
「それは……ご愁傷様です」
「うん、前に会ったときはお葬式の記憶も鮮明で、なんかおばあちゃんの顔の周りにお花飾ったのとか、そういうの高梨さんにもやりたいなって思ったんだけど」
「俺、花が似合う色男か」
やわらかな二重の大きな目と、少し薄い唇。無精ひげのようでいて、実はきちんと手入れされている口と顎のひげ。高梨さんはひげを生やしている方が幼い顔になる。目のあどけなさが、強調されてしまうからかもしれない。
花は似合う。
大きな花束を抱えているのも、一輪だけの花を持っているのも。それは、誰か口説き落としたい女性に捧げられるものなのだと分かって、一目で羨ましさにめまいがしそうなほど、似合う。
「葬式ごっこより、白雪姫ごっこのがいいな」
「白雪姫?」
「俺、ベッドに寝てるからさ、お前王子様のキスで起こして」
「あたしが王子様なの? 高梨さんが白雪姫なの? ひげの白雪姫?」
ひげ剃る? と聞かれる。ううん、と首を横に振りかけて、やっぱり、うん、と頷いてみる。
「あ、剃りたい?」
「え、あたしが剃るの?」
「剃りたい?」
「血まみれにしてもいい?」
「……自分で剃る」
え、あ、とぽかんとしているうちに、彼はするするとスーツの上着を脱いでハンガーに掛けた。どんなに暑い時でも、高梨さんはきっちりとスーツを着ている。小さな会社の社長さんなのだ、それできっちりしていることが大事だと思うから、と教えてくれたことがある。でも、ちゃんと夏用の涼しいスーツらしい。汗だらだらできっちりしてても暑苦しいだけでしょ、と彼は言う。
「アメニティーに剃刀、あったよな」
アメニティーの意味が頭に入らなくて、あたしは中途半端に頷きかける。
高梨さんはにっこりするとパウダールームへと向かった。ちゃんとシェービングクリームもあるなぁ、とのんびりした声が届く。
「剃るの?」
慌てて追いかけて、パウダールームに飛び込んだ。すりガラスでないガラス張りのお風呂が向こうに見える。全体的に落ち着いたピンク色の洗面台に、清潔なタオルが置かれている。
シャツの袖をめくり上げている高梨さんは、さっさとクリームをひげに塗りつけていた。置かれた、青いプラスチックのそこだけ安っぽくて違和感のある使い捨ての剃刀。
「剃るの?」
同じ言葉があたしの唇を割った。答えをもらっていなかったから、ただ同じ繰り返しになる。
「剃るよ? つるっつるの顔の白雪姫のがいいだろ?」
「剃っちゃうの?」
「なんだよ、どうした」
「ひげがなくなったら、あたしが知らない高梨さんになっちゃう……」
そんな訳あるか、と鏡の向こうで呆れた顔をしつつ視線を合わせ、高梨さんの右手は剃刀を握って口の上を滑った。
あ、と声が上がるけど、視線を合わせたまま彼は目尻を下げただけだった。
剃刀がシェービングクリームを削いでゆく。そこにあったはずのひげが、一緒に剃り落とされる。あたしは唇を半分くらい開いたまま、きっとアホの子のような顔をしていたと思う。
水の音。
洗面台をはねる、水の。
あたしはそっと寄って行って、高梨さんの背中に自分の背中をぺたりとくっつけた。でもそうしたら淋しくなってしまって、仕方ないのでくるりと振り返ってそっと彼の腰に手をまわした。背中に頬を押しつける。刃物を持つ彼の邪魔にならないよう、そっと、そっと。
「甘えん坊」
「うん」
「可愛いな、お前は」
「ううん」
「顔洗うからちょっと離れろ」
「うん」
抱きしめていた腕が、離れた途端にすかすかする。冷房の少し効き過ぎた部屋で、途端にうんと淋しくなる。
いるのに。
目の前に。
「タオル取って」
取って、まだ俯いている高梨さんの手に握らせてあげる。ありがと、の言葉ごとタオルで顔を拭いた彼は、つるりとした表情をあたしに向けた。
「……きれいに、整えてたのに」
「ひげなんかまたいつでも伸ばせるって。若返りましたね、とか言えよ」
「……ひげ」
「また伸ばすよ」
あたしに向かって手は伸ばされる。
高梨さんの胸がある。
水を使っていたから、冷たい手が、あたしの頬を包むように、触れる。そして抱きしめられる。頬に残る手の感触はそのままに。頭を、あやすように叩かれて。髪を、撫でられる。
「なにが不安?」
彼にすっぽりと抱きしめられて、くぐもった声を聞く。
彼の頬に頬ずりしてももうちくちくしないのだとか、そういうことが淋しいのもあるけれど、よく考えたらきっと違う。
あたしは、高梨さんに似ている人を、街中でいつも捜してしまう。
似たようなひげの人を。
似たようなスーツの人を。
似たような背丈の人を。
そして、その目印を今、ひとつ失くしたことが哀しかったんだと、気付いた。
街中の高梨さんに似ている人は、所詮似ているだけの別人で、そしてあたしは安心する。高梨さんに似ている人はたくさんいる。どこにでもいる。もしもこの恋を失っても、スペアなんてきっと簡単に見つかる。いつか。どこかで。そもそも、高梨さんは手に入らない人なのだから。
あたしは高梨さんに街中で偶然会ったりしたくない。うっかり見かけたりしたくない。不意に出会ってしまったら、あたしはあたしを取り繕えなくなる。きっと叫び出してしまうだろう。欲しい、と。高梨さんが欲しい、と。それこそ、欲しい欲しいの欲しがりちゃんになる。
「泣く?」
「泣かない」
「終わりにする?」
「どうして?」
「辛いなら」
「『家族を捨てて君と結婚するよ』って言ってくれない高梨さんが好きよ」
「嫌味か」
「嫌味、でもないと思う」
抱きしめられる腕の、力が込められてあたしは背中が苦しくなる。でもなにも言わなかった。嘘でもいいから好き、なんて言って欲しくない。嘘だったら何の意味もない。だったら本当の気持ちで嫌いと言って欲しい。本当のことが心を傷付けたとしても、その傷を乗り越えられないのなら死んでしまったって構わない。
それが若さゆえの戯言だと、鼻で笑われても。
高梨さんに家族がいて、その人達を彼が本気で愛していているのとは別のところで、高梨さんはあたしのことを好きでいてくれるなら、その気持ちに嘘が混じらないのなら、それでいい。
「葬式ごっこをしたいなんて言うから、俺と別れたいのかと思ってた」
「別れたい? どうして?」
「俺が死んだら、それは別れることと同じだから」
「なんで高梨さんが死ぬの?」
あたしはびっくりして、彼の腕から抜け出た。身体を離して、彼の手首をぎゅっとつかむ。右の手で左の手首を、左の手で右の手首を。見上げて顔を覗き込む。顔というより、目を。高梨さんの目は少し茶色かかっていてやわらかい。
「終わりにしたいのかと思って」
「高梨さんは終わりにしたいの?」
「したくないよ、まだ」
「まだ」
「うん」
「素直にそれを言っちゃう高梨さんが好きよ」
「さっきも似たようなことで好きって言われたな」
「言ったかも」
「でも、俺は家族捨ててお前と一緒になるとか、そういうの言えない。今が楽しいから。生活が介入すると恋人は恋人じゃなくなる。愛しい気持ちとか、ないわけじゃないけど、会えて嬉しいとか顔見て幸せとか、そんな気持ちにならない。存在して当たり前になるから。俺は、お前の顔見たから一日の嫌なこと吹っ飛んだとか、次に会える日を楽しみに仕事頑張るとか、そういうのがいい。お前とは、そういうのが、いい」
随分都合のいいひどいことを言ってるよ、と言ってやったら、彼はふにゃりと笑った。あたしよりずっと年上なのに、あたしより幼くて可愛い顔をする。
「あ、でも高梨さんが死んじゃったらあたしをお葬式に呼んでね」
「どうやって呼ぶんだよ、俺死んでるのに。それより殺すなよ、俺を」
「招待状を出してくれればいいじゃない」
「死ぬ前にか。これから死にそうなので葬式に来てください、ってか」
「うん。そうしたら、高梨さんは死ぬ間際にあたしのこと思い出してくれたんだって、分かるじゃない」
なんだよそれ、と彼はやさしい顔をする。甘ったるい顔を。
「あたしが死んだら、お葬式に呼んであげないけど」
「なんでだよ、ずるいな」
「死んでる顔なんて勝手に見られたくないもん」
「俺の死んでる顔は勝手に見るくせにか」
「高梨さんがお葬式にきてくれたら、あたし悔しいもん。高梨さんがきてるのにどうしてあたし死んでるの! って、腹立って生き返っちゃう」
いいことじゃんか、と笑われた。
俺のために生き返ってよ、とおどけて言われる。
でも、もし生き返ったらそれはそれで高梨さんとまた浮気と呼ばれる関係を続けることになる。
浮気。
この言葉自体が、もう。本気じゃない、浮ついてる気持ち、なんて。
高梨さんはずるい。あたしばっかりを手に入れて。持っているものは何も手放さないまま。でもずるくてもいい。いつか妻と別れて結婚するから待ってて、なんて心にもない嘘を信じ込まされるよりずっと。
それはきっと、あたしがまだ結婚とかを考えていないからなんだろう。
子供が欲しいとか、切羽詰まっていないからなんだろう。
今、あたしが三十歳で、結婚に焦っていて、それで高梨さんとこういう状況なんだったら、きっとこんなに平然としていられない。
「お前はクールだよな」
「どうして?」
「奥さんと別れて、とかって言わないから」
「言っても別れないんでしょ? さっき自分で言ってたよ?」
「うん」
「そうやって可愛い子ぶって」
ぶんぶんと手を振って、途中で指の力を抜いた。放り出された高梨さんの腕が、揺れる。少し驚いた顔をして、でも彼はそのまま手を広げてあたしを抱きしめる。
体温。
呼吸。
力を込められる、腕と、密着するあたし達と。
溶けて混ざってひとつになりたいなんて言わない、あたしはナルシストにはなれないからあたしの中の高梨さんを思ってうっとりなんてできない、だから高梨さんと混ざりたいなんて思わない。混ざっていれば淋しくないなんてことは絶対にないから。
「好き」
「嘘」
「本当だって」
「好き?」
「うん」
「好き、あたしも」
誰かと比べてどれぐらい、なんて聞いても意味はない。
ねぇ、ねぇ、お母さん。あたしと妹と弟と、誰が一番好き? そう聞いた幼い頃を思い出す。答えは忘れた。どうせ、あなたが一番好きよ、とか、いい子にしててくれる子が一番好き、とか適当に答えられていたんだろうけど。
比べるのは意味がない。
好かれているか嫌われているか、興味を持たれているかいないか、それだけのこと。
「ね、高梨さん」
あたしはもがいて彼の腕の中から抜け出す。
そこへ、唇が下りてくる。キス。やわらかく。静かに。唇の温度は、心だけを溶かしてしまう。チョコレートのように。
あたしの名前を呼んで?
呼吸の合間であたしは囁く。高梨さんは自分が、あたしの名前をちっとも呼ばないことに気付いているんだろうか。
軽く開かれた唇はあたしを小鳥のようについばむ。
肌が上気する。
名前を呼んで。
名前を。
呼んで。
つぶやきはこぼれた途端に彼の唇へ消える。
名前を呼んで、高梨さんはあたしのことを胸に刻みつければいいのに。名前を口にして、呼んで、つぶやいて、いつかあたしの名前に意味はなくなってしまったとしても、とっさのときのおまじないのようにこの名前が彼の唇を開けばいいのに。
あたしが、高梨さんの名前をいつでも口にしてしまうのと同じように。
「――、」
高梨さんがキスの合間で、なにかを囁く。
どうかどうかそれが、あたしの名前でありますように。
どうかどうかそれが、あたしを想ってくれる心でありますように。