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赤い花言葉

作者: いまみ

 テレパシーが開発されたのだからもう言葉など必要無い。そんな時代になってから老女は目を覚ました。最初は自分が誰かも、ここはどこかも分からなかった。ぼんやりしていた頭が晴れてきた頃、自分が二十八歳の画家であったことを思い出した。目を開けても世界が真っ暗なままなのは、そういえば生まれつき目が見えないからだ。身体がとにかく動かし辛くて、少し動かそうとしただけで軋むような痛みがある。

「誰かいますか?」

この言葉を言うのも一苦労だった。口を動かすことも舌を回すことすら億劫で、あえて一文字一文字口を動かさなければ話すという行為ができなかった。

 声に気付いた誰かが老女に駆け寄ってきた。男性の声で、勢いよく何度も声をかけられた。

「すみません、もう一度言ってください。」

しかしどうしても言葉が上手く聞き取れない。困っていると胸元に何か取り付けられた。すると言葉は拾えなくても、相手が何を言っているのかなんとなく分かるような気がした。

「あの、身体が動かないんです。あと、すみません、もう少しゆっくり話していただけますか。」

そう言っても相変わらず会話はできないままだったが、ここが病院であること、数十年間眠り続けていたままだったことを男性から話された。しかし現実感があまり得られず、するとここは未来か、などと他人事のように考えながら老女は不自由な身体をもてあました。不安だった。

 扉を開けて入ってきた人物に女性の声で呼びかけられた。女性は自分が老女の娘であると主張しているように思えた。するとただの直感だが、老女にはそれが本当のような気がした。

「…紫。そうよ、あなた、紫なの?」

肯定が返ってきた。その娘は涙声で様々な事を次々と老女に報告した。

植物状態だった老女が目覚めたのは奇跡であること。

自分は母を助けるために医師になったこと。

母の描いた絵が大好きなこと。

母が目覚めてくれて自分がどんなに嬉しいかということ。

 そのすべてが言葉ではなく声で伝えられた。あでもおでもない動物の鳴き声のような声が老女にはとても奇妙に聞こえたが、自分以外はそのことをまるで気にしていなかった。それどころか言葉を話しているのは老女だけで、宇宙人か何かを相手にしているような気さえする。しかし不思議と相手の言いたいこは自分に伝わっているので、老女は自分の耳がおかしくなってしまったのかと思った。

「紫、あなた言葉を話せないの?私の言うこと、ちゃんと分かってる?」

娘は肯定し、病体に無理をさせてしまったことを謝った。彼女は医師としていくつか簡単な問診をした後、もし食欲があるならやわらかいものは食べられることを伝え、欲しいものがあるか尋ねた。

「そうね、なんだか桃が食べたいわ。よければ桃を頂戴。」

そう言うと娘はすぐに林檎を持ってきた。

「りんごじゃないの。桃よ。もも。モモ。」

娘が困惑しているのがよく分かった。困り方があの人と似ていて少し安心した。何度か言い直してみたが紫が桃を理解することは遂に無かった。老女は娘の謝罪の声を聞いた。

「いいのよ。林檎もおいしいわよね。ありがとう。」

老女は味としては林檎でも桃でもどっちだって良かった。桃にこだわったのはあの人が生前桃をよく食べていたからだ。老女はなぜ自分の娘と普通に話せないのだろうと考えた。未来の林檎は固かった。


*1


「複雑に考えなくていい。世界から言葉がなくなっただけなんだ。」

そう青年は言った。彼は娘が連れてきてくれた通訳者で、言葉を話せるこの時代には珍しい人だった。老女はまだテレパシーが未熟だったので、青年は医者と話すべきことを老女にかわって代弁した。老女が言葉が通じなくなってしまったのは何故かと彼に尋ねると、時代の変化を口頭で、言葉で説明してくれた。説明によるとやはり今は未来であるらしい。

 未来。生活の端まで便利が行き届いて、盲目の老人でも生きやすい。寿命もだいぶ延びたようで、寿命でない病気で死ぬことはむしろ難しかった。機械化もずいぶん進んだようだ。どうやら未来らしい未来がちゃんと来たらしい。

 テレパシーを送れる機械の発明されたのが今の未来のはじまりだ。少し声を出すだけで言いたいことを一瞬で伝えられ、外国語が話せなくても様々な国の人と意思を伝い合える便利さで、テレパシーはあっという間に普及した。みな古いパソコンを捨てるようにして言葉を話すことを止めた。やがてテレパシーの声を音波にすることが可能になり、新しい電話が開発され、いつの間に画像や映像も音波になった。一般家庭でも声で会話することが普通になり、気付けば人間は言葉を話さなくなっていた。

「英語はともかく、日本語の通訳なんて世界でももう俺くらいなもんだ。運がよかったな。」

「ねえ、言葉が無くなって本はどうなったの?映画は?」

「活字も映像も全部テレパシーに翻訳されたよ。内容の理解は一瞬でできる。本は読むものじゃなくて、余韻を味わうものになったんだ。」

「余韻?音楽もそう?」

「一回体験したほうが早いな。こういう事態のことを日本では昔、百聞は一見に如かずっていう言葉にしてたんだろ。どんな曲が好きなんだよ、良ければ一曲聴いてみな。」

老女は曲名を口にした。青年はその曲を知らなかったが、どんな曲かを説明すると自分の好きな曲の中にそのような感じの曲があると言った。

 心に曲が流れた。一曲分の感動を一瞬で味わったのに、曲の出だしの勢いも終盤の美しい旋律もきちんと聴くことができた。大音量のヘッドホンと感覚は近いが、それよりも曲の世界が濃くて深い。音は一瞬だったが、もうしばらく黙って曲を味わっていたい。ああ余韻を楽しむとはこのことかと老女は思った。

「御感想は?」

「…言葉にできないわ。」

「だろ?」

そうして、ようこそ未来へ、なんて青年が言ってお辞儀するものだから老女は思わず笑ってしまった。

「知ってるんじゃない、私の好きな曲。」

「えっ今の曲、あんたの好きな曲だったのか?」

「そうよ。あの人との思い出の曲なの。未来に残ってくれてるなんて嬉しいわ。」

「良いものは残るさ。未来をなめんな。」

「あなた、さっきから言葉遣いがなってないわね。日本語の通訳なら敬語くらい使えないとだめよ。」

そう言って老女はふふと笑った。言葉が通じることがこんなに安心するものだと初めて知った。老女には話すことすら一仕事だったが、身体の辛さよりも会話の楽しさが勝っていた。

「でも、あなた以外のこの時代の人とはお話ができないのね。なんだか淋しいわ。」

「テレパシーを送ればいいのさ。話すたびにわざわざ口を動かすのも疲れるだろ。もうテレパシーができる機械は持っているんだから、コツをつかめばすぐできる。」

「機械?」

「その花のブローチ。それでテレパシーの送受信ができる。何でもいいからまず俺にテレパシーを送ってみな。考えたことを相手に伝えようと思いながら少しだけ声を出すだけだ。こう、伝われーって。」

「つたわれー、って思えばいいの?」

「そうだってば。頭でぐるぐるしてから、こう、こういう感じでとばすんだよ、こう。」

身振り手振りで必死に教えてくれようとしているが老女はよく分からなかった。青年はうまく説明できずもどかしい思いをした。

「ああ、こういう時こそテレパシーの出番だよな。」

そう言って青年は短くただの声を出した。すると老女に青年が言いたかったことが伝わり、老女はテレパシーの方法を理解した。理屈は分からないが、声が聞こえたら分かったのだ。ただの花飾りでこんなことができるなんて、時代は進んだものだなあと老女はあらためて感心した。名札か何かだと思っていた自分の胸元の重みに触ってみると確かに花の形をしていて、この花は何という名前だろうと思った。しばらく花を触りながら考え事をしていたら青年にテレパシーを急かされたので、とりあえず青年に桃を要求してみる。

 桃を頭に思い浮かべ、食べたい意思が彼に飛んでいく光景を想像し、あという声を出した。

「ほら、できたじゃないか。」

青年は梨を老女の手の中に入れた。

「言葉を話せるようになるのと要領は同じなんだ。頭の中で何を伝えたいのかうまく整理して、声を出す。慣れればすぐだ。どうしても伝わらなければボディランゲージって手もあるしな。あ、その花の通信機、電池切れたら蕾に戻っちゃうけど太陽にあてればまた咲くから覚えといて。」

「えっ何それ、機械なのに光合成するってこと?」

「何言ってんだよ。太陽電池なんてずっと昔からあっただろ。」

老女の胸についている通信機の花は金属のような固さはなく、まるで本物の花のようだった。老女が青年に自分の胸の花は何と言う花なのか訊いたが、青年はよく分からないと言った。

「よし、とりあえずはこれで毎日の生活には困らないだろ。何かあったらまた呼べ。それとも俺がずっと一緒にいてやろうか?」

「あら随分かっこいいのね。でも私、この時代ではおばあさんなんでしょ?年寄りだと物足りないんじゃないかしら。」

「いや、久々に言葉が話せて楽しかった。また来ていいか?」

「ええ。私もあなたとまた話したい。テレパシーの練習もちゃんとするから、時間があるときにまた来てくれたら嬉しいわ。」

病気なんだろ、あんまり無理するなよ。ゆっくりと聞き取りやすいテレパシーで彼は言った。ええ頑張るわとテレパシーで返事をしてみたが伝わっただろうか。

 老女は病室を出ようとする青年に名前を尋ねた。すると名前とは何だと逆に訊かれた。老女はそれを不思議に思ったが、とりあえず名前が無いのは不便だと思って彼に黒という名前を付けた。もしも彼が色なら黒だろうと思ったからだ。名前を付けたら親しみを感じた。今度来てくれた時に黒と呼んだら彼は怒るだろうか。


*3


 次の日から老女はテレパシーの訓練をはじめた。しかし普通に言葉を喋っても、言いたいことはこの時代でも伝わるみたいだ。そのため訓練は義務ではなかったが、老女が積極的に未来に慣れようとした。みんなと同じではないというのはやはり居心地が悪かったからだ。この時代で言葉を話しているのなんて一人だけ違う体操服で運動会に出るようなもので、そんな淋しさはまっぴらだ。自分の娘と会話ができないというのも辛いものがあった。

 テレパシーの仕組みは老女には難しかった。どうやらテレパシーという言葉で古い人がよく連想する、頭を電波塔のようにして思考回路を飛ばすものではないらしい。声を出せば言いたいことが伝わる、それがこの時代のテレパシーだ。一文字話せば一言が伝えられるので言葉を話す必要が無いのだから、つまり声が言葉ではなく音になる。だからこの時代の人は声だけで会話ができるのだ。鳴き声だけで会話ができるなんて動物みたいだなと老女は感心した。

 理屈は分からなくても、とりあえず通信機を身に付けて声を出せば言いたいことは伝わるので、老女は仕組みなんて理解しなくてもいいやと思った。老女はまだ言いたいことを言葉で考えていたので、テレパシーをする時の声がつい言葉になってしまった。だから言いたいことを要約したり省略したりして口から出す言葉を減らしていくのが老女の毎日の訓練内容だ。

「今日雨。」

そう言って老女は診察に来た娘に笑いかけた。娘にいつものように具合を訊かれたので「大丈夫。」とそう返した。この母娘はまだ親子の空気になりきっていなかったので、母は引っ込み思案な娘を理解しようと隙あらば話しかけた。そのためテレパシーの練習相手はもっぱら娘だった。老女がテレパシーに慣れる頃には、二人は親子として一緒にいることにもだいぶ慣れてきた。

 かつて老女は出産の衝撃で倒れたため、娘と会うのは初めてのことだった。娘が無事に生まれてくれただけでなく医者になっているなんて、それこそ言葉にできない感覚だった。老女の夫は老女の妊娠が分かってしばらくして事故で亡くなってしまった。シングルマザーの覚悟を持って臨んだ出産で母親の意識が無くなり、娘は施設で育った。一人きりで医者になるなんてどんなに努力しただろうと考えると、自分の娘ながらいたたまれない気持ちになる。


 ある日老女はその娘に対する様々な感情を、感謝を主体にしたテレパシーにしたことがあった。負の感情はできるだけ隠す努力をした。紫はテレパシーでそれに返事をした。そこに言葉が無くても、言葉が無いからこそ、なんだか心が通じた気がした。目の前の人物が家族である実感がやっと湧いた。嬉しかった。しかも娘も自分と同じ気持ちなのが分かって尚更嬉しくなった。老女はそうして言葉が廃れた理由が分かった。

 娘は母の手を握り、体調具合を尋ねた。母の手は眠っていたときよりも暖かいようだった。母は健康と返事して、近くに来るよう頼んだ。娘が隣に来ると、その腕でしっかりと抱きしめた。娘も母を抱きしめ返した。母は今まで抱きしめてあげられなかった謝罪をした。娘は謝罪の必要が無いことを指摘し、自分を産んでくれたことを感謝した。母は娘の頭を撫で、娘の髪が長くて泣いた。一瞬で言いたいことが伝わる時代に、ふたりは長い時間声も無く生きている幸せを伝え合った。


 母と娘は様々な話をテレパシーした。紫はおとなしそうだと思っていたがお喋りな娘だった。医者の仕事のやりがいや自分の趣味について何度も熱く語った。一度テレパシーで伝えてしまえば思いの大きさや深さも相手に理解してもらえると知っていても、娘は何回も声を出した。紫は自己主張はそこまで激しくないが、芯が強く気品がある。紫という名前はあの人が付けた。その後すぐに亡くなったのでその名前は意図せず形見のようになった。老女は伝わらないと知りつつも、テレパシーを使えるようになってから一度娘を名前で呼んでみたことがある。呼んだ時に老女からどのようなテレパシーが出ていたのか、紫からは感謝が返って来た。

「紫はあなたの名。」

母がそう言っても娘は理解できなかった。そういえば名前とは言葉だったとその時はじめて気が付いた。

「紫。」

もう一度呼んでみた。娘は再度感謝した。娘の嬉しそうな顔が見えるようだったので、老女は自分の娘が自分の名前を知らないでもまあいいかなと思った。


「絵、描きたい。」

老女は紫にそう言うと彼女は歓喜した。心身ともにリハビリにもなると、あえて医者ぶって笑った。

「絵描きたい。もう売れないかも。でも描きたい。売れたら医療費の足しに。」

紫ははお金の心配は不要であることを告げた。絵を描く道具はそのまま残してあるので明日にでも早速準備をすることを彼女の方から発案した。次の日キャンバスが運び込まれ、病室はアトリエになった。昔使っていたパレットから絵の具の匂いがしたのが、老女はこの上なく嬉しく懐かしかった。何も描かれていないキャンバスをなぞり、ここに何を描こうと考えていると生きている実感が湧いてくるようだった。


*4


「あーもう全っ然描けない!」

老女は思わず独り言を言った。絵を描こうとしても身体を動かせず、動かしても思い通りになることなどまず無い。数十年間どこの筋肉も動かさない内に予想以上に肉体は動かなくなってしまっていた。自分が堅くて重い置物になってしまったようにすら思うくらい自分の身体ではないような気さえするが、体の軋みと筋肉痛の辛さはどうしても自分のものだった。

 老女は有名な画家だった。そのため、植物状態だった盲目の画家が医者の娘に助けられ再び絵を描き始めたという美談はすぐに病院中に広まった。ある日マスコミが取材に来たりもした。老女は自分が有名になった理由は盲目の画家という話題性にあると思っていた。老女の絵はある対象を描くというよりも空間を切り出す抽象画に近い。技巧を凝らす絵ではなかったため批評がしにくく言葉にできない感想を持つ人が多かった。見た人がこれといった感想を返さないことは、老女が自分の絵をとるに足らない絵だと思うことに拍車をかけた。

 老女は一枚にとても時間をかける。盲目のためひとつひとつの動作に時間がかかるというのもあったが、色を選ぶのも筆を運ぶのもとても丁寧だった。目の見えない彼女は手触りで色を見分けた。彼女の独自の大きなパレットは点字が打ってある。「冷たい色」「深い色」などと書かれたそれを触って、そこにある色が何色か見極めるのだ。同じ色でもパレットの左側は濃い色で、区画が右に移るごとに淡くなるよう絵の具を置いていた。大きなキャンバスにすると筆の位置が分かりにくく難しいのに、老女は毎回大きな絵を描いた。みかんの皮をむくことにも疲れてしまう老女には無謀だと誰もが思ったが、老女は描こうとするのを辞めなかった。


 来る日も来る日も老女は絵を描いた。老女は毎日失敗した。失敗してもめげずに描いたその絵でも、何度でも失敗した。さっきは思った場所に筆を運べなかったし、今は「溌溂とした色」の黄色と「明るく若い色」の黄緑色を間違えて使っていたみたいだ。黄色と緋色を混ぜた色を使いたかったのに、黄緑と緋色を混ぜてしまって一体どんな色の絵をかいてしまったのだろう。もしパレットの点字に偶然手が触れていなかったらと思うと描くのが怖くなった。そもそも「溌溂」が黄色である保証などどこにもない。真っ暗な世界しか知らない、目が見えない人間が目で見るための作品を生むのはやはり不可能なのだろうか。キャンバスの上で嵐が起きていても気付けず、周囲もその嵐が芸術だと理解してくれようとしてしまう。

「あ、時間?」

老女は紫が部屋に入って来たので悔しさを隠して声を出した。今日のニュースに老女が出るので紫がテレパシー用のラジオを持ってきた。年季が入ったそのラジオはこの時代にはだいぶ古いものであり、視覚はまだ伝えられなかった頃の製品だ。老女に視覚情報を伝えるのはまだ身体に負担がかかりすぎるとされていたため、今や骨董品となったラジオを紫が苦労して探してきた。ニュースが始まってもなかなか盲目画家の順番が来ないので、二人は紫がむいてくれた林檎を食べながらいつも通りの世間話をした。ニュースはなかなか大変そうだ。国内は政権争いで慌しく、他国では戦争なんて起きてしまっているようだ。未来になっても変わらないなと老女はぽつりと考えながら、娘がむいてくれた林檎を食べた。林檎はうさぎになっていた。

 思い出した頃にやっと流れた盲目画家の報道は、思った以上の美談になっていた。紫は老女の口下手がうまく編集されていることをからかった。報道は少し誇張されていだが、娘の努力は客観的に聞いてもやはりすごいことだなあと老女は思った。紫にあらためて感謝などを伝えたかったが、言葉でもテレパシーでも、どう伝えても安い言葉に聞こえてしまう気がしたので辞めた。その代わりに自分は絵を描こうと思った。

 ニュースはやはり老女の絵についてはあまり触れず、素晴らしい絵だと修飾語のテレパシー音ひとつで乱暴に褒め、生命の神秘と親子愛ばかり話題にした。やはり自分の絵には価値が無いのだろうかと老女は落胆した。昔から絵で感動させてきたというよりも、盲目画家という美談で売っていた感覚が拭えない。何が描かれていても一緒なのではないかと自暴自棄になってでたらめな絵を描いたら、いつもより高い金額で絵が売れて嫌になったこともある。「言葉では上手く言えないけれど何だかすごかった」という感想なら何度ももらったことがあるのがなんとも曖昧で、喜んでいいのか迷ってしまう。そのような曖昧な感想しか与えられないのは、老女自身も自分の絵に感想を持っていないからだろうか。

 老女がそんな事を考えていると、つけっ放しのラジオから流れた引越しのコマーシャルに紫が熱くなっていた。爽やかな好青年が、家具を安心大切に光の速さで運ぶことを勇ましく宣言していた。紫はどうやら彼のファンのようだ。彼は正義の味方で子ども達のヒーローであること、ヒーローは困った人の所にいつでも駆けつけることを黄色い声で紫は説明した。空色のような正義の声を聞くと、こちらの心まで晴れるようだった。


 老女は自分の目でものを見ようと決心した。未来の医療なら可能かもしれないし、失敗作を増やすことにも疲れた。手術にお金がかかるとしても、見えるようになった目で必ず売れる絵を描いて娘にお金を返そうと思った。リハビリだっていくらでもしようと思った。本気だった。身体はいくら老いても、老女の心はまだ二十八歳のままだった。

「紫、私、寿命、あとどのくらい?」

紫は突然の問いに驚いて老女を見た。

「もし、すぐ死ぬ、じゃないなら、お願い。」

老女はまっすぐに紫に向かって言った。

「目で、見たい。」

それを聞くと紫の目が輝いた。


*5


 黒の青年がまた見舞いに来てくれた。

「よ。どうだ元気か?」

「入院中よ。」

老女がそう言い返して二人で笑いあった。

「おかげ様で何とかやってるわ。」

「え、おかげさまって誰?俺のこと?」

「あなたじゃないわ。あなたは黒ちゃん。」

「えっ何?くろちゃん?」

「黒はあなたの名前。ちゃん、は愛称っていって無くてもいいんだけど、おまけみたいなものね。」

「こないだも言ってたけど名前って何だよ。」

「名前って言うのは呼び方のこと。夜に空の上に浮かぶ一番大きな星を月って呼ぶでしょ?これから私が黒って言ったらあなたのことよ。あなたを絵に描くなら黒色かなって思ってこの名前を付けたの。良い名前でしょ?」

「黒なんて悪の組織みたいで嫌だな。夜の色じゃないか。」

「夜の色は黒じゃないでしょ。文句言わないの。ね、黒ちゃん。」

黒は不服そうにしているが迷惑ではないみたいなので、黒ちゃん黒ちゃんと何度も呼んでみた。はいはい、と返事をしてくれたのが老女はとても嬉しかった。

「で、あんたは何て名前なんだ?」

「そうねえ、色で名乗るなら赤が良いわ。私の名前は赤にします。」

「赤ちゃんか。」

「わぁちょっとやめて、昔に戻ったみたいで恥ずかしいじゃない。」

「じゃあ何て呼べばいいんだよ、赤ちゃん。」

赤は自分を名前で呼ばないでと言い、黒は人を夜みたいに呼んでおいて何だと反論した。一悶着あって、赤の呼び方は赤さんに落ち着いた。

「そんなことより、今日は音楽を聴いてもらおうと思って来たんだ。こないだみたいなテレパシーの曲じゃなくて、古き良き生演奏だ。俺の本職は歌手だから、赤さんもよかっらた俺の歌を聴いてくれ。」

そう言って黒は肩にギターを下げ、お辞儀をした。彼は曲名か何かを呟いたかと思うと、病院だからと止める間も無く、彼の音楽は一秒目から大音量で始まった。突然の爆音で耳が慣れず聴こえない。彼の歌声も歌っているというより叫んでいるようで、歌詞もうまく聞きとれない。良い曲かどうか判断がつく前に、黒は駆けつけた警備員に取り押さえられた。黒は大勢の人から騒々しい音と奇妙な声を出している変質者と思われて怒声を送られているのに、周囲には気にも留めずに赤に言葉で声をかけた。

「赤さんどうだ!しびれたか!?」

周囲はこの期に及んでまだ大声を出す青年をさらに怒鳴りつけた。テレパシーもたくさん集まればうるさくなるのだなと赤は思った。

「なあ赤さん、俺また歌いに来るからな。今日はもう駄目みたいだけどさ。俺、歌好きだから。」

黒が元気よくそう言った。他の人には何を言っているのか分からないならまあいいかと思い、赤も大きめの声で返事をした。

「今度はもう少し小さい音でね!」

赤が返事をすると思っていなかったらしく、黒はあっはっはと豪快に笑った。赤もなんだか二人にしか分からない秘密の暗号で話しているようで楽しかった。黒は反省の色無しと判断されて追い出されようとしていたので、ごめんまた来てねと赤は小さな声で黒に言った。


*6


 黒がまさに病室を連れ出されようとする時、二人目の見舞い客が来た。男性の客人だった。

「はじめまして。突然の訪問、申し訳ありません。盲目の画家の方で間違い無いでしょうか?」

「え、ええ、そうよ。はじめまして。」

そうして二人は握手した。

「おいちょっと待て!あんた何で言葉を話せるんだよ、しかも日本語!日本語をまともに話せるのなんてもう俺だけだと思ってたのに。」

「…君、年上には敬語を使いたまえ。」

黒が口を挟むと男性にぴしゃりとそう言われた。黒が面食らっている隙に警備員が今度こそと部屋の外に連れ出した。外から大声で待てだのあいつは誰だだのと言葉で言うのが聞こえて、赤は思わず笑ってしまった。

「ごめんなさいね、あの子は私の通訳をしてくれてるの。でも私も驚いたわ、あなたも言葉を話せるのね。」

「世界の主な言語は少しずつですが勉強したことがあるんです。」

「語学を勉強したからってすぐに話せるものではないじゃない。わたし勉強苦手だから本当にすごいと思うわ。」

「恐縮です。あなたの絵は昔からよく拝見させていただいていたので感慨深いです。」

男性は折り目正しくそう言った。感情があまり外に出ない人なのだなと赤は思った。

「突然なのですが、今日は質問させていただきたいことがあって来ました。」

「質問?私に?」

「はい。あの、昔テレパシーの機械を発明したのは僕なんです。」

「まあ本当に?じゃあ未来をお花まみれにした犯人はあなたなのね。」

赤がそう言うと男性は恥ずかしそうな顔をした。その顔が赤に見られていないことを知りながらも男性は顔を背けた。

「それで、テレパシーをどうお考えなのか聞かせていただきたいんです。言葉を使って会話するのとどちらが良いか、ご迷惑ではなかったか、その他テレパシーを使っている感想などをお聞かせ願いますか?」

「感想…そうねえ。私はずっと言葉を話すのが普通だと思って生きてきたからまだ慣れることに必死なの。正直に言うと娘や他のみなさんと話せないのは辛いし、言葉で話すのが懐かしくなったりもするのよ。でも一回音楽を聴いてみたことがあるの。あの時は心に音楽が流れているみたいでとっても心地良かったわ。」

「…そうですか。」

男性が楽しそうでない声を出したので赤は困ってしまった。折角自分の面会に来てくれた客人をそのような状態で帰したくなかった。

「…ねえ、何でテレパシーを発明しようと思ったの?」

「あなたの絵が好きだからです。」

男性は間髪入れずにはっきりと返事した。予想もしていなかった答えに赤は顔を赤くした。

「そ、そんなこと言ってもらえるなんて思ってなかったわ。私の絵、何が描いてあるかよく分からないでしょう。」

「何が描かれているかは確かに理解できていないかもしれません。あなたの絵は実際にあるものを写真のように写生するものではなく、心の風景を描いているのではないかと僕は勝手に解釈しています。」

「ええと、どうしましょう、難しい話になってきちゃった。あの、つまりあなたは私の絵のどこを気に入ってくれたのかしら。」

「すみません、言葉ではうまく言えないのですが…。ええと、あなたの絵には、盲目のあなたにはこの世界がどんな風に見えているかが描かれていると考えています。その絵があんなに綺麗であることに僕は感動しました。」

「…私の絵、きれいなの?」

「はい。僕は世界一綺麗だと思っています。」

赤は喉の奥から押し寄せてくるような感情を抑えた。抑えたのに堪えきれずに涙が少し出てしまった。初対面のなおかつ年下の男性の前で恥ずかしかったので、年を取ると涙もろくなって嫌ねと言って赤は必死にごまかした。

「ありがとう。私は自分自身の絵を見たことが無いし、赤が本当はどんな色かも知らないからいっつも結構不安なの。」

「そんな、とんでもありません。あなたの絵は素敵です。」

男性は淡々とした声だったが、赤が言ってほしい言葉そのままを口にしてくれていた。

「私の話ばかりになってしまってごめんなさい。なんだか全然お役に立てなかったわね。」

「そんなことありません、お話できて光栄でした。今日は本当にありがとうございました。今後も応援しています。」

「何のお構いもしないでごめんなさいね。お見舞いの花までありがとう。」

「分かるのですか?」

「ええ。いい香りよ。」

青年は深く頭を下げて帰っていった。そういえばテレパシーの開発者との会話だったのに一度もテレパシーを使わなかった。彼をどんな顔で帰してしまったのだろうと赤は思った。


*7


「おいあんた、ちょっと待て!」

黒は男性の背に声をかけた。追いかけて何回呼びかけても立ち止まってくれないので、黒は肩を叩いた。

「ちょっと待てってば!」

何。

男性は無駄の無いテレパシーを一言返した。

「お前、さっき日本語喋ってただろ。テレパシーなんて使ってないで俺と言葉で話そうぜ。」

何故。

「だってせっかく言葉を話せる奴が二人いるんだぞ。話せばいいじゃん。今も言葉を話せるだなんて、あんたも言葉が好きなんだろ?」

別に。

「何だよ冷たいなあ。俺、お前と早く話したくて警備員の人にすっげー深い角度でお辞儀して謝ってきたんだぜ?あんたを見失ったらどうしようと思って超走ったしな。ほら、話そうぜ。」

何を。

「何でもいいから。世間話でも何でも。」

結構。

そう返事して男性は再び歩き出した。

「おい行くなよ!話そうって言ってんだろ。俺はお前と会えて嬉しかったのに。」

失礼。

男性は白々しくそうテレパシーを残して歩いていってしまう。黒がちょっと待てよといくら言っても止まらない。行ってしまう淡白な男性の背を恨めしく思った。

「おい白ふざけんな!お前はもっと俺色に染まれ!」

「…馬鹿か。」

「お、しゃべった!」

「喋るさ。日本語は不得意だけど君よりは流暢に話せると思うよ。それより君は言葉の意味を分かってああいう事を言ったのかい?」

「意味?前に『ふりむかせたい相手に言う言葉』って本に書いてあったから丁度良いかと思ったんだ。やっぱ読書は大変だけどためになるな。あんた、振り向いてくれたし。」

「用法が間違っている。君はもっと辞書を引いたりして言葉を学ぶべきだ。それに年上にはそれなりの礼儀をもって話したほうがいい。仮にも通訳ならもっと勉強したまえ。」

「うわ、あんたは喋ると更に嫌な奴なんだな!」

そういう君は馬鹿だろう。ただのテレパシーにするはずだったのに、勢いで思わず言葉で喋ってしまった。

「そういえば白って何だい?」

「白?…ああ、あんたの名前。」

「名前?この時代に名前なんて必要無いだろう。第一なんで白なんだ。」

「あんたを色にしたら白かなって思ったんだ。白なら良いだろ、俺なんか黒だぞ。ちなみにさっき俺達が会ってたおばさんは赤さんで、その娘さんは紫っていうらしい。」

「全部色なのは画家のあの方の影響か?随分名前らしくない名前が付いているんだな。」

そうなのか、と黒が首をかしげると白はまた黒の勉強不足を指摘した。

「そんなに言うなら言葉を教えてくれよ。なあ俺と文通しようぜ。前から憧れてたんだ。」

「嫌だ。」

「いいだろ、交換日記でも良いからさ。俺、文章ってもんをしたためてみたいんだよ。」

「面倒臭い。それに君とは気が進まない。」

「俺だって本当はかわいい女の子と愛を育みてえよ。でももう誰も日本語なんて分かんないだろ?赤さんだって目が見えなくて文字は書けねえ。たのむよ、一人じゃ文法とか辛くて続かないんだ。ほらお前のために今一曲歌ってやるから。」

「結構だ。君の歌は音量が大きすぎる。声だって歌っているというより叫んでいるようで聞き苦しい。大きな声の方が相手に気持ちが響くなんてことは無いんだぞ。それは言葉もテレパシーも、音楽も同じだ。」


「…でもロックなんだぜ?この楽譜の文章だって俺が書いたんだぜ?」


「言っていることがよく分からないな。音符は文字じゃない。だから何楽章書いても楽譜は楽譜で文章じゃない。」

「え、違うのかよ?何が違うんだ?」

「君と話しているのは面倒だからもうやめたいな。」

そう言って行き先を見つめて白は歩き出した。すると黒は何食わぬ顔で白の隣を一緒に歩き出した。

「正直言えばさ、俺だってみんなが言葉を話している時代だったらきっとあんたとはあんまり喋らないと思う。なんで現代になっちゃったんだろうな。俺は言葉時代がよかった。」

「悪かったな。テレパシーを開発したのは僕だ。」

「いやいや嘘つけ。お前があの天才科学者なわけないだろ。あんたはお花で機械を設計するような奴に見えないし、電源が切れた時に花がつぼみになるなんて粋な仕掛けを考え付くとも思えない。」

「それを言うなら君だって。ギターを持ち歩くテレパシーの名手は裏では有名だぞ。詐欺の被害届も多数出ている。」

「悪人から金を取って何が悪いんだ。」

「ずいぶん簡単に自白するんだな。」

「もう言葉が証拠になる時代じゃないからな。」

「…確かにな。所詮言葉だ。」

こいつはどこまでついて来る気だろうと思いながら適当に白が言うと、黒は顔つきを変えた。

「おいあんた、さっきからなんでそう言葉を馬鹿にすんだよ。言葉は素敵じゃないか。」

白は黒を細目で見て、君は青いなと言ってやった。しかし青は好きな色だといって黒は喜んだので、白は面白くないなと思った。

「言葉は窮屈だろ。辛いという一言で表現できる辛さなんて無い。虹の色だって本当は無限にあるんだから、七色の言葉にまとめてしまうなんて実に無粋だ。」

「おいおいいきなり難しい話すんな。俺頭は良くないんだよ。」

「ああ君は馬鹿だからな。」

「なんだと。」

黒が早く帰らないかと思って、白は難しい話をしようと思った。夜の街につきはじめた電灯がびかびかと光って目にうるさかった。

「人間は言葉に支配されすぎなんだ。そのくせ海という言葉ひとつですら、僕の頭に思い浮かぶ海と、君の頭の中の海は違う海だろう。だから会話で相手と心が通じていると思っているならそれはただの気のせいだ。」

「…よく分かんないけどお前、悲しい奴だな。」

そう言いながら黒はどこまでも白についてきた。犬みたいな奴だなと白は思った。自分みたいな奴について来てまで、そんなにも言葉で話したいのかと思って苛々した。

「…君はどこまでついて来る気だい?そろそろ僕の家に着いてしまうんだが。」

「おお、じゃあもう少しなら大丈夫なんだな?」

家まで上がりこむのではないかという程の勢いでそう言い返され、白は途方に暮れた。

「なあ、君は遠慮という言葉を辞書で引きたまえ。」


*8


 白がテレパシーの機械を発明したのは十五の時だ。発明したら大騒ぎになってしまい、天才少年などと呼ばれながら過ごしてきた。未成年の内から次々と仕事に駆り出され、両親にもまともに会えず、趣味の園芸と飼い猫だけが心の拠り所だった。

 花にも心があるのだろうか。そう思って白は育てているすみれの花壇にすみれのテレパシー通信機を挿してみた。しかし花は声を出さないため、すみれのテレパシーはどうしても聞こえなかった。風がすみれの花を通り抜ける音も、風の音にしか聞こえなかった。白は次に風の気持ちが知りたくなったので、風にはどうやって花を挿そうかと考えた。考えた末にたんぽぽの綿毛型の通信機を開発してみたが、瞬く間に風がそれを吹き飛ばしてしまったので風の声を聞くことは叶わなかった。他にも白は色々やった。雷の心を理解しようと思って避雷針の先に花を据え、落雷に通信機を燃やされたことがある。木が切り倒される時の音は木の悲鳴なのではないかと思い、切られる木に花を挿してみたら電動のこぎりの音が騒がしくて木の声は聞こえずがっかりしたこともある。

 猫ならきっと心の声を聞かせてくれるだろう。そう思って白は猫の首輪に小さめの、ねこじゃらし型通信機をつけてみた。しかし橙色のその猫は全く鳴かない猫で、そういえば白は一度も鳴き声を聞いたことが無かった。白は猫に一声でも鳴いてもらおうと、撫でながらテレパシーで鳴きなさい鳴きなさいと何度も呼びかけてみたり、くすぐってみたりした。あの手この手で声を出させようとしてみたが猫も意外に強情だ。とうとう白が猫に声を求めなくなり、次はカナリアを飼って歌でも歌ってもらおうなどと思って過ごしていた。ある日もう猫が老いてしまった頃、深夜遅くに帰宅して疲労感で頭痛を感じていると、突如部屋のどこかからにゃあと声がした。悲しい声に聞こえた。まさか今の声が猫のはじめての声かと思い、猫をテレパシーで呼んでみたがどこを探しても猫がいない。猫は死に際に飼い主の前から消えるという話を聞いたことがある。白はぞわぞわする胸を押さえながら必死に猫を探した。いなくても探した。見つからなくてもまだ探した。しかしどこをどんなに探しても、猫は遂にみつからなかった。最期の一声がさようならの挨拶だなんて思いたくなかった。だから白は今でも猫の帰りを待っている。

 白は今、きつね色の犬を飼っている。猫がいなくなった淋しさも猫の帰りを信じて耐えていたが、ある日捨て犬を見つけてつい家につれて帰ってしまった。情が移ってそのまま飼いたくなってしまい、猫が帰ってきても留守番する時に一人ぼっちじゃなくなるから、きっと受け入れてくれるはずだと自分を説得した。犬にも花の首輪をつけてみた。その犬はよく吠え、空腹だの眠いだの単純な心がよく伝わってきた。慣れてくると純粋な好意を示してくれるようになり、白も心から犬が愛しくなった。動物からテレパシーが伝わってお互い気持ちが伝わると、最早犬をただの一匹の動物のように思えなくなった。むしろ面倒な人間関係よりもよほど素直で心地よい。そうして白は必要以上に人間と関わることを辞めてしまった。


 今夜白は勤めている会社の女社長と夕食の約束をしている。本当は早く家に帰って犬を撫でたいが社交辞令だ。白は上辺を取り繕うのがうまく、女社長はとりわけ白い天才科学者をかわいがっていた。

 高層ビルの最上階からの夜景を横目にシャンパンで乾杯した。絵に描いたような豪華なデートシーンは彼女の趣向だ。愚かな金持ちは金持ちらしいことをしたがるんだなと白はいつも白い目で見ている。女社長は今夜も金色の大きな花を王冠のようにして頭に乗せている。宝石を散りばめたその通信機は白が彼女に頼まれた特注品だ。お金儲けしか頭に無い彼女には似合いだろうと華美な装飾にしてみたら、まんまと彼女はとても喜んでくれたのだった。

 白は最近嫌々仕事をしている。テレパシーの通信機を花ではない形にして小型化を図ってくれという注文が来たのだ。花の形の何がいけないのか白には分からなかった。男性に花を身につけさせるのを習慣にするまでは苦心したが、今やみんなそれぞれ気に入った花を服装と同じようにつけている。単に小さくしたいだけなら、世界一小さな花を咲かせる植物を元に新しく超小型通信機を開発すればいい。最近は小さな花を束にしてひとつの通信機にするデザインが流行らしいから丁度良いはずだ。今夜白はその提案を社長に承認してもらうために夕食につきあうことにした。世界中すべての種類の花を通信機のデザインに昇華するのが白の夢だった。

 テレパシーの技術をこれ以上発展させる気はあまり無かった。言葉がなくなってしまってから人間は感覚的になりすぎてしまっているような気がする。「林檎」をりんごと言わずに「あの赤い果物、食べるとしゃきしゃきとした歯ごたえがあるやつ」などという曖昧な認識で済ませてしまっているのだ。将来はりんごとさくらんぼの境界線が消えてしまうかもしれない。しかしそのようなぼんやりした世界になってしまうのも時代のせいなら仕方無い。白が気に食わないのは、そんな世の中になっても人間が嘘をつくのを辞めないことだ。


 動物の鳴き声のような声を出して暮らしているくせに、言葉を手放したせいでちょっと面倒な思考が必要となったらすぐにコンピューターの力を借りなければならないくせに、言葉時代の姑息な小細工を未だにひきずっているのだ。テレパシーの嘘のつき方なんていつ誰が考え付いたのだろう。どこまでも動物になりきれない人間が、白は心から嫌だった。現代ならきっと声を出さずに思考を飛ばす、昔の人が考えていたようないわゆるテレパシーというものも開発できる。しかし白は人間の文明を発展させてやる気はもう全く無かった。


 金色の女社長が白に仕事の進み具合を尋ねた。白は色男めいた声で順調だと返した。女は無理して身体を壊さないでほしいことを伝える声を出したが、声色が金色であることを隠しきれていなかった。彼女の金色の色仕掛けに乗ってしまっている演技も楽ではないなと白は思う。そんな小細工をしないでも給料さえ支払ってくれれば、白が最大手企業の研究設備をおいて他の会社に行くわけが無い。しかし金の彼女はそれに気付いた上で白と恋愛ごっこをしたがるのだった。

 金は白が今日もクールであると褒めた。

「君と話していてどこで熱くなるって言うんだい。」白はその声に乗せて感謝のテレパシーで返事しておいた。サービスで少しだけ恥ずかしそうな素振りをしてみる。

金は白がまたいつもの声遊びをはじめたことをからかった。そんなに長々と声を出して変わった人ねとくすりと笑った。

「そうでもしないと退屈なんだ。」その声に乗せて、金への愛を声だけでなく言葉でも言っているんだと伝えた。

金は白の言葉の声は何だか面白くて好きであることを口にした。

「おめでたい人ですね。」その声に乗せて、金の豊かな感受性を褒めた。

金はアイラブユーを白に伝えた。

「僕もあなたが大嫌いです。」その声で白もアイラブユーを返した。

言葉にありったけの言霊をこめているのに、金は白の声を聞いて満足そうに少し笑った。


*9


 黒がテレパシーを飛ばす時にはいつもラという声を出した。歌に歌詞が付いていない部分はラララで歌うのが昔は一般的だったことを音楽を聴いて知った。この時代の普通の声はAやEなどの母音であり、わざわざ口を動かして作る音声はあまり使われなくなった。だから黒のラの声を周囲は言葉を勉強したことによる訛りか何かだと勘違いしているが、誰にも分かってもらえなくても彼はラララで歌うようにテレパシーを伝えた。

 黒が音楽をはじめたのは、自分が出す声がただの動物の鳴き声であると気付いたからだった。生まれた時は他の人と同じようにテレパシーで話すための教育を受けた。初めて人間らしいテレパシーを送った時伝えたのはキノコ食べたくないという嫌悪であった。彼の母はある日黒の泣き声が音楽のように聞こえ、黒に音楽を聴かせるとぴたりと泣き止んだ。それから母は黒が泣くたびに音楽を聴かせた。寝る時間には母が子守唄を歌うのだが、即興ででたらめな音声は必ずしもメロディにならず、黒はなかなか寝付けなかったりもした。

 義務教育が始まる頃、黒はひとりの中年の男性に出会った。いやに長々と川なんて眺めているなと思って見ていると、男性は流れるような長い声を発した。声を発した瞬間に風が男性の方からごっと吹いた。黒は気味が悪くなって逃げ出した。しかしその妙な声がどうしても気になってまた川に行ってみた。中年を探していたら思いがけない方向から男性に声をかけられ、死ぬほど驚いてその日も黒は全力で逃げた。十回逃げて、十一回目は逃げないことに決めた。勇気を出して変な中年に自分から声をかけた。中年は待っていたように笑いかけ、怖いことはしないと告げた。テレパシーが変な響きだったのでそれを指摘すると、自分は言葉人間だからなあと恥ずかしそうに頭をかいた。時々呟く声は何なのか黒が尋ねると、中年は俳句だと答えてすらすらと一句俳句を詠んだ。その時の黒にはやはり変な声にしか聞こえなかったが、その声は黒の心に響き渡った。聞いた後でも不思議と耳に残り、なんだか世界がいつもと違う様に見えた。その日から黒は中年の下に通った。

 俳句とは十七文字の言葉を五七五の旋律でうたうものであるらしい。その十七文字の言葉はどんな意味なのか黒が訊くと、季節の美しさを伝えているんだと中年は穏やかに言った。いつの日か黒はその十七字の声の流れを綺麗だと思うようになった。動物のような鳴き声ではなく、自分も口を動かして美しい声を出したくなった。そうして家に帰って音楽を聴いて、これはかつて誰かが口を動かして歌ったものであることをはじめて実感した。中年がある日旅立ってしまっても両親が事故で亡くなっても、黒は歌うことを止めなかった。


 今夜も黒はいつもの公園で歌を歌う。白に音量を注意されたのを思い出し、渋々少しだけ小さくすることにした。いつもは昔の曲を歌ってみるだけであったが、今日は勇気を出して作詞作曲自分の曲を歌うことにする。響け。いつもそればかり考えながら歌い始める。普段は昔の人の真似をして曲名を呟いてから歌い始めるのだが、黒は曲に名前が付いているということを知ったのが最近だったため、まだ自分の作ったその曲に名前を付けていない。うまく名前が浮かばなかったので、とりあえず思ったことをそのまま呟いた。

「響け。」

 歌い始めると音量が爆音でないことに違和感があった。しかし曲の途中で一人の女の子が立ち止まって聴いてくれた。立ち止まってお客さんが歌を聴いてくれるのははじめてだったので、黒はその子に向けて伝われ伝われと思いをこめて一心不乱に歌った。銀色のネックレスをつけたポニーテールの女の子は、歌が終わるとぱちぱちと拍手をしてくれた。

 黒が感謝を告げ感想を尋ねると、一生懸命に何をしているのか気になって聴いてみたがよく分からなかったことを無邪気な声で伝えてくれた。黒は落胆しながら、自分が歌を歌っていること、歌は言葉と世界の美しさを歌っているのだと説明した。銀の女の子はもっと乱暴なことをしているように見えたことを伝えた。それはこの歌がロックだからだと黒は丁寧に言った。人間が言葉を話さなくなっただなんて、これでは先史時代の類人猿に逆戻りしてるだけだと現代を弾劾しているのだから、乱暴であることはむしろ道理だと黒は開き直った。女の子は分かっていないようだった。女の子は近くの料理店でお菓子職人になるのが夢と語り、今日練習したお菓子をギターケースに入れて帰っていった。

 言葉が無くなって人間の感覚が鋭敏になった現代で、料理人の夢は昔よりもはるかに競争率が激しい職業となった。

「またな。」

黒は走り去る小さな背中に呼びかけた。我ながら格好付けすぎだなと思い、その日は赤面して帰った。月が明るい晩だった。


*10


 紫の心の中にはいつも死があった。医者の仕事をする時も人と会う時も、死を規準にした価値観でものを考え生きていた。彼女は職業柄多くの死に触れてきた。自身も死を恐れ命を考える内、自然と安らかな死を望むようになった。紫は安楽死における新薬開発の最前線に身を置いた。

 未来になって進歩しすぎた医術は人間を神にした。不老不死こそ叶っていないが、倫理や宗教を無視すればこの時代でできないことはほぼ無かった。生き方を選ばなければ寿命の長さを選べるようになったため、医者は死を克服する職業ではなく有意義な死を与える職業になった。死の恐怖から逃れるために、人間は毒や麻薬も処方箋にした。

 母の命が長くないことを紫は知っていた。植物状態にして無理に生かした母が目覚めたのはこの時代でも本当の奇跡だ。その奇跡をどう処置するかは母自身が決めるべきだ。明日はそれを母に尋ねる日であるのに、少しも明日を恐れていないように紫には思えた。ピンク色の液体と紺色の液体を混ぜながら母を思った。混ざった色を見てピンクを少し足した。その姿は若い頃の彼女の母に似ていた。





 翌日、紫は赤に今後の診療方針を尋ねた。余命は一年間で、その一年をどうするか母が選べる選択肢はすべて提示すると紫が言うので、赤は静かにその選択肢を聞いた。

 目を見えるようにするかどうか。見えるようにするなら自分の眼球そのままでも、機械の義眼を入れることもできる。義眼なら視力低下や老眼の心配は無く、顕微鏡と望遠鏡両方の機能が付く。風景の見え方もセピアにして切なさを味わえたり、赤色をすべて青にするなどができ気分によって変えることができる。瞳の色も選べる。前例は少ないが他者の眼球を遺伝子情報を元に生成し、それを移植することも可能。

 身体を自由に動かしたいかどうか。筋力強化の手術もあるが、補助器具を付ける方が効果がある。足が不自由なままでも車椅子に乗ればどこにでも行ける。上半身の補助器具については、微弱な電気を流して筋肉を刺激するサポーターと、脳から身体を動かす指令の電波を察知して筋肉と同じ動きをするサポーターがある。

 愛する人の幻が見られる薬に溺れることもできる。喜怒哀楽の怒と哀を感じないようにする薬もある。身体が死ぬ前に脳味噌だけ生かせば人生を延長でき、脳だけで生きている間のテレパシーも受信のみなら可能。その他の一般的な薬漬の終焉方法が千通り以上から自由に選べる。娘は他にも母が望むことなら何でもすると言った。


 母は最初から決めていたように穏やかな口調で、目だけ見えるようにしてほしいと頼んだ。眼球は自分の目をそのまま。身体についてはリハビリでも何でもして自分でなんとかすることを伝えた。赤は盲目の画家という地位にも特に未練は無かった。そんなことより周囲に迷惑をかける申し訳無さの方がよほど大きかった。手術はいつが良いかと紫が言うと、母はいつでもそちらの都合の良い時にと返した。手術日は母が未来に来てはじめての一枚となる桃色の絵を描き終える頃となった。





 母は思い描いていたよりもずっと強い人だったと紫は思った。テレパシーを使えるようになるまでも早かったし、目を見えるようにする決心も既に固めていたようだ。余命は宣告するよう前もって頼まれていたが、あのように穏やかに聞ける人は紫の診てきた患者の中でも稀だった。

 紫は母に世界の形を教えたのが父であったのを知っていた。父は目が見えない画家の母に世界の色彩を語って聞かせた。夜の月がどんな色か、今日の空の色が何色か、旬の花が何色に咲いたか。父は母に赤色をどんな色だと言葉で教えたのだろうと紫は考えた。焼けるように情熱的な色であるとか、紅葉の色だとか言ったのだろうか。自分なら身体を流れている液体と同じ色だと言ってしまうだろうなと紫は思った。ともかく母は父の目で世界を見ていた。先日母は自分の世界の神様は父だと言っていた。

 だから父の目を母に移植してくれと頼まれる可能性もあると紫は考えていた。眼球を変えれば世界の見方が変わるかは分からなかったが、紫は治療準備を怠らず、先回りすらしていたため父の眼球の複製はもうできていた。母は自分の眼を選んだため、父の眼球はもう不用だ。しかし父の眼は綺麗だった。紫が今まで見てきた眼球と特別変わりはないが、茶色い虹彩と黒い瞳は色が付いているのに透き通っているようで、不思議と見飽きることが無い。父の生前使っていた眼ではなく遺伝子情報から復元した眼ではあるが、この瞳ならば世界が母の絵のように映るかもしれないと思うと紫は自分の眼球を入れ替えたくなった。今日も夕焼けが綺麗だったので、紫は父の眼球を窓際に置いた。父の瞳孔が狭まったので眩しくしたことを謝罪した。父の瞳に映る夕陽もとても綺麗だった。明日母の病室に持っていったら父の眼はどうなるだろうと紫は思った。


*11


 赤とその旦那はよく散歩をする夫婦だった。旦那はいつも目が見えない赤の手を引いた。そこは危ないから気をつけろなどと、その人はガラス細工でも扱うかのように赤を労った。

「もうすっかり秋だなあ。空が高い。」

「空が高いってどういうこと?」

「そうだなあ、雲が高い所にあったり、爽やかな風が上の方まで吹いていく感じかな。ああ秋は素敵だ。」

ふたりはいつもの散歩道を歩きながらたくさん話をした。その人は赤に周囲の様子を事細かに説明し、赤がその感想を返した。

「ほら今日も銀杏の葉が黄金色できれいだよ。」

「銀杏、なのに銀色じゃないの?」

「ああ。銀杏はイチョウとも呼ばれてて、秋になると緑色の葉っぱが黄色に紅葉するんだ。今の時間は夕焼けに照らされてて金色に輝いてるみたいだ。」

「あなた、今日は一段と詩的な表現をするのね。」

「本物の詩人に向かって何てこと言うんだ。」

そう言ってふたりは笑いあった。

 その人はそこそこ名の知れた詩人だった。短い詩ばかり詠む彼は美しい言葉を使い整った表現をすることに定評があった。赤はそんな彼の言葉でこの世界を紹介されていたため、赤が頭の中で想像している現実世界はゆっくりと確実にきらきらしていった。

「あ、秋茜飛んでる。」

「え、あきあかねってとんぼの?」

「そう。今捕まえてきてあげよう。」

「いい!やだ!虫は苦手だって前から言ってるでしょ!」

「虫が苦手な人でも秋茜は大丈夫って人は多いよ。ほら捕まえた。」

その人はとまっていた羽をはっと捕まえて、赤の手を広げてその中にそっと置いた。

「わあぁあ!ちょっとちょっとちょっとやめてよもう!」

勢いよく逃げようとすると、どういうわけか赤の襟元から秋茜が服の中にすっぽり入り込んでしまった。赤は必死にわあわあ言いながら、背中背中、取って取ってと騒いだ。やっと秋茜が空へ再び飛びたった頃には顔を真っ赤にして目には涙がにじんでいた。

「もう、何であんなことしたのよ!やめてって言ったのに!」

「ごめんごめん。君は秋茜をどんな絵にするかと思って。」

「そんなこと言って、私が毎日何描いてるか分かってないんでしょ?色だってあなたがくれたあのパレットじゃ、正しい色で描けてるかどうか分からないじゃない!」

そう言うとその人は何も言わず、赤の手を強めに引いて歩き出した。赤はどこに行くんだろうと少し怖くなったが黙ってついて行った。少しするとその人は静かに口を開いた。

「…君にあのパレットをあげたのは、君にしか描けない絵があると思ったからなんだ。その色であの形のものをこんな風に描いて下さい、っていうのを、目が見える画家は世界の風景に嫌でも言われてしまう。本物を知っているから、それが答えになってしまうんだ。毎日見ている風景は払拭しようと思ってもなかなかできない。」

「…どういうこと?」

「目が見えないからこそ見える世界があると思うんだ。君がそれを絵に描こうとしているのは知ってる。だったら色の選び方ひとつでも、そのやり方を貫いてほしい。そのための手伝いなら何でもさせて。君が目が見える人と同じような絵を描きたいっていうなら反対しないけど、そうじゃないなら君しか描けない絵を描いてほしいんだ。君の絵はあんなに綺麗なんだから。」

赤は涙が出そうになって必死に堪えた。あそこに見事な花が咲いているからちょっと見に行こうと、そう声をかけたその人はもういつも通りの彼なのに自分ばかり泣きそうなのも悔しかった。

「ああこの花だったのか。ほら、とても赤くてきれいだよ。」

「いや、だから、私は見えないの。あなた、秋茜のこと反省して無いでしょ。」

「してるよ。あと、君が秋茜をどんな絵にするのか楽しみにしてる。」

ああ反省していないなあと赤は思った。きっと近いうちにまた酷い目に遭うのだろう。そう考えている横でその人は花に夢中だ。

「なんだか君みたいな花だな。」

「そうなの?何て言う名前の花?」

そう訊くとその人は恥ずかしいから教えないと言った。花を触らせてと頼んでも、摘み取るのはかわいそうだと言われた。渋ったがあちらも強情で、そろそろ夜になって寒くなるから帰ろうと言ってとうとう教えてくれず、いつも通り夕飯の買い物をして帰った。お腹の子の分までたくさん食べなさいと言いながら、今日もその人は自分の片手だけでは持ちきれない程の量を買い込んだ。少しくらい私も持つわと赤が言っても自分が持つと聞かなかった。その人は荷物の重さで腕を震えさせながら、もう片方の手で赤の手を引いて帰った。あの人が事故で亡くなる前日のことである。


 赤が目覚めるといつもの病室だった。どうやら夢を見ていたようだ。今になってどうしてあの時の夢を見たんだろうと思った。紫が手術前の問診のために、執刀医の人と一緒に来ると言っていたのに遅いなと思っていると、扉が勢いよく開かれて娘が息を切らして入ってきた。どうしたのか訊いてみたら、自分が好きな正義の味方の彼が手術の日に応援に来てくれることを知らされた。先日ラジオを聞いているとき空色のように爽やかだと思ったあの彼だ。正義の味方の彼は子ども向け番組以外にもいくつか番組を持っており、その一つの民間人とヒーローが触れ合うことが趣旨の番組に紫が投書してみたら当選したというのだ。無邪気に喜ぶ紫を見ていると赤もなんだか嬉しくなってきた。手術は明日だ。


*12


 空色の正義の味方は本当に来てくれた。きちんと手術の邪魔にならない時間に駆けつけてくれ、赤の体調への配慮も怠らなかった。変身後の、悪と戦闘するためのヒーロースーツを着て来てくれたため病院内で不憫なほど浮いていたが、空色のヒーローは空気が読めないらしく全く気にしていなかった。空色のヒーローは一つひとつのテレパシーごとに必ずかっこいいポーズをしてくれる。赤が自分は見えないのでお構いなく、と伝えても、これが正義の味方の仕事の内だと勇ましく伝えながらまたかっこいいポーズを決めた。決め台詞ならぬ決めテレパシーというのもあるようだ。隙あらばかっこつけようとするのが赤にはとても面白かった。

 空色の敵は人間の悪の心だった。地球を滅ぼそうとする宇宙人の方が子ども達には人気があるため、空色よりも先代のヒーローの方が人気があった。しかしテレパシーで音や映像だけでなく感触や匂いも伝えられるようになった今では、人の感情はとてもストレートに視聴者に届いた。人の痛みが分かる時代、と空色のテレビ局はこの現代に銘打って、心に訴えかける番組を多く制作していた。子ども達に悪いことはいけないことだと教えるため、空色は正義のヒーローのくせに時に悪に染まった。万引きの誘いをなかなか断れなかったり、会社の汚職事件の口止めを強いられ嘘をつきそうになったりもする。しかしあと少しで悪事を働いてしまいそうになる時に正義の心が芽生え、精神の葛藤という動きの少ない戦闘シーンをして、番組が終わるのがお決まりのパターンだった。当初はその地味なストーリー展開から視聴者が離れかかった。そのため最近は精神の葛藤の場面で、悪の空色と正義の空色に分身して正義が勝つというアクションシーンを取り入れたため、なんとか人気を回復した。最近はヒーロー番組の枠に収まらない斬新さや、子ども達から「ダメなヒーロー」と呼ばれながらも人気がある切なさが評価され、一部の偏ったファンも増えている。空色はそのようなヒーローだった。





 今回空色が赤と紫を尋ねたのは、日頃から多くの正義に触れることで空色が悪と戦う時の良心を養っておく、という番組のコンセプトに適ったからであった。嫌に現実的な趣旨であるが人気番組であることは視聴率からいっても間違いなかった。

 母親を助けるために医者になった立派さを、空色は紫にかっこよく伝えた。紫は母が目覚めてくれた幸せを、緊張しながら空色に伝えた。空色は感極まって涙声になっていた。


 目が見えるようになったら何がしたいか、空色が赤にかっこよく尋ねた。赤が絵を描きたいと返事をすると、空色は赤が申し訳無くなるほど熱く共感してくれた。空色は赤が言葉時代の人間であることを知らされていたため、「Hello」という言葉を覚えてきてくれていた。空色は意味を分かっているのかいないのか、ハローハローと無闇にこんにちはを連呼した、しまいにはハローという声と同時にかっこいいポーズまで決めはじめた。

 そのような空色のすべての言動が演技ではないことに赤は心から驚いていた。色々と事情のあるヒーローらしいが、それらは演出ではなくこの爽やかな好青年が本気で自分の人生としてやっていることだった。彼は全力で赤や紫の話を聞いてくれ、その話に全力で共感してくれている。かっこつけたり勇ましかったりするのも元々の性格らしい。番組スタッフも視聴者もそれを理解して、彼は親しまれている。

 最後まで彼らしいままヒーローは退出した。そろそろ自分の中の悪の心が動き出しそうなので退治してくるらしい。空色はいつもの決めポーズと決めのテレパシーを送り、部屋を出た所で番組は終わりだ。しかし収録を終えてもまた部屋に入りなおし、赤と紫の元に来て激励のテレパシーを山ほど投げかけてくれた。ハローも最後まで連呼した。空気が読めず周りが見えないヒーローは、病院内では静かにするように警備員に怒られていた。テレビ局のスタッフから次の番組の撮影があると連絡を受けてもなかなか空色は帰らず、二人を励まし続けた。紫が緊急の仕事で呼ばれ、赤の面会時間が過ぎた頃にやっと自分が帰った方が良いということに気付いたようだった。

 目が見えるようになる日にまた来る事を約束し、空色は爽やかに帰っていった。忙しいからきっと来られないのだろうと思いながら、赤は最後まで元気付けてくれた彼に感謝した。たった一時間ほどの出会いであったが、赤の心はきちんと晴れ渡っていた。


*13


 手術は成功した。明日になれば包帯も取れる。赤はいつもと変わらない様子で絵を描いていて、目に映る絵を描く明日からのために今日までの絵を描き上げようと精を出していた。

 紫がいつも通り時間を見つけて赤の病室に来た時にちょうど絵を描き終わった。赤が未来で描き終えた一枚目は桃色の絵だった。綺麗と紫が母に伝え、赤は「ありがとう。」と言った。紫は、目が見えなくてもこんなに綺麗な絵を描くのだから、綺麗なこの世界を視覚で捉えられたらどんなに素敵な絵が生まれるだろうと紫はどきどきしていた。今日の夕焼けもとても綺麗で、明日の夕焼けがちゃんと綺麗か心配になった。そういえばもう母に画像のテレパシーを送っても問題無いことを思い出し、娘は今日の夕焼けを母にテレパシーした。するとその瞬間赤は雷に打たれたようになった。娘が母を心配すると、母は「え?」と疑問符だけのテレパシーを発した。赤は頭の中に現れた先程の光はなんだったのか全く見当がつかずに混乱した。母の混乱が治まらなかったので、紫は鎮静剤で赤を眠らせ、赤の目が開く明日を待った。

 翌日、赤は目覚めてもいつものように話しかけてきたりはせず少しも動かないままだった。朝食も残したため、娘は母に食べたいものはあるか尋ねたら桃と返事が返ってきたので少し安心した。娘が包帯を取ってもいいか尋ねると、自分で包帯を取ってもいいかと母が聞き返したので娘は肯定した。赤が包帯を取って目を開いた。赤は目を開いたまま動かず、しばらくしてあたりをゆっくりと見回した。

「むらさき。」

紫は自分が呼ばれたような気がした。大丈夫かどうか赤に尋ねた。

「あなたが、紫なのね。私の、娘。」

そう言ったきり赤はまた黙ってしまった。心配になって紫は黒を呼んだ。黒を待つ間も二言三言しか話さず、声もすべて言葉になって出ていた。待っている間に空色が本当にまた見舞いに来てくれた。今日も彼はヒーロースーツで来てくれ、そして病室でも置ける小型のテレビを手土産として持ってきていた。

「あなた…もしかして、空色の、正義の味方の子?」

空色は赤を元気付けようと、元気良く肯定を返した。しかし赤は静かなままだったので、空色はテレビの電源をつけて赤にみせてあげた。するとその瞬間に赤の頭の中に猛烈な勢いで様々な映像が移り変わった。赤が感電してしまったかのように動かなくなってしまったので空色はテレビの電源を消し、紫は母の体調を診た。赤は身体は健康だった。呼びかけにも弱い声ではあるが応えてくれる。紫と空色が赤を心配しどうしたらいいか分からなくなってしまっていると、黒がやっと来てくれた。黒は正義の味方が病院にいることを驚いたが、空色が赤を必死に心配しているのを見て我に返った。

「おい赤さんどうした、大丈夫か?」

「…その声、黒ちゃんなの?あなたが黒ちゃん?ごめんなさい、あなた、黒くないのに。」

「何言ってんだよ元気出せ。ほら、今日は黒い服を着てきてみたんだ。今まで見えないからいいやって思ってたけど、今日はかっこつけてみたんだ。折角目が見えるようになったんだろ。これからたくさん絵を描くんだろ。」

「…。」

紫は昨日画像のテレパシーを送ってからこうなのだと黒に告げた。黒は紫に何をテレパシーしたのか訊き、同じテレパシーを自分に送ってもらった。

「なんだ、ただの夕焼けじゃないか。」

「夕焼け?あれが夕焼け?毎日夜が来る前はみんな、あんなものを見ているの?」

「そうか、赤さんは夕焼けを見るのが初めてなのか。綺麗だろ。俺が赤さんなら毎日空を絵に描くよ。」

「そう、そうなの。あれが空なの。空色ってあんな色なのね。」

「空の色は一色じゃない。ほら赤さん、今世界を見せてやるから。」

紫はかつて父が言葉でそうしたように、自分が好きな光景をたくさん伝えた。

空と海、河川と山と花と街。夏の星、満月の丸、虹の色。冬の雪、聖夜の灯り、白い息。春風で染井吉野が散るところ。雨の日にすすきに留まる秋茜。

他にも母が見たいと言うものも全て見せた。しかし母はあまり楽しそうではなかった。母に世界の美しさを伝えようと、紫は心に残る風景をテレパシーでありったけ見せ、黒はそれを言葉で説明した。空色は帰らなければならない時間を過ぎてもできるだけ赤のそばにいた。黒が言葉にできない風景もたくさんあった。辞書を引くなど苦心し、しまいには歌で表現しようなんて言い出すので紫は必死で黒を止めた。二人がどんなに頑張っても赤は笑顔にならなかった。

「この世界は本当に綺麗なのね。まるで天国みたい。」

赤はそう言って目を閉じた。


 紫は病気の母に無理をさせたことを謝罪した。

「なあ赤さん、もしかしてあんた、本当の世界を見たくなかったんじゃないか?」

「そんなことは無いわ。私はあの人が教えてくれた世界しか頭の中に無かったから、今日はとっても勉強になりました。私はこの世界を色々と誤解してたのね。」

黒は何と言ったらいいか分からなかった。今は言葉もテレパシーも、自分の伝えたいことを伝えられない気がした。赤の手を握る紫にすら、何もしてやれない自分が嫌になった。

「少し疲れちゃったみたい。この世界は私には眩しすぎるのね。」

折を見てまたみんなで世界を見る約束をすると、面会終了の時間が来た。黒は「お大事に」と言って帰っていった。紫は謝罪と就寝の挨拶をして部屋から出た。


 赤はひとりになって、今日はじめて見た世界を思い返した。世界は思ったより青くなかった。空色が持ってきてくれたテレビの画面に人間の顔が映っていた。それが自分の顔だと気付くのに時間がかかったが、気付いた後になって気付かなければよかったと思った。自分が本当に老いた老婆であることをはじめて実感し、その瞬間なんだかどっと自分が老け込んだ気がした。何だか咳がたくさん出た。新しいキャンバスに血がついた。

「あなた。」

そう一言呟いた。それが赤の最期の言葉となった。赤はその夜死んでしまった。


*14


「 」、そう宗教服を着た男性が告げて告別式が終わった。

「 」、そう丁寧に祭場の女性が口を開いて遺体が焼かれた。

「 」、その声を最後に葬儀は終わった。親族だけでなく赤の絵が好きな人もたくさん来てくれた。良い葬儀だった。


 葬儀には黒や白も来てくれた。黒が色はつまり空だなどとよく分からない歌を歌い始めたので、式の後とはいえ不謹慎であることを紫が指摘した。しかし黒は止めなかったので紫は言葉を無くしてしまったが、これは歌ではなく経というんだと白が紫に教えた。空色はずっと泣いていた。いつもの爽やかな彼とは別人であるように曇った顔でずっと泣いていたため、誰も彼が正義のヒーローであることに気付かなかった。彼はよかれと思ってあの日持っていったテレビを、後悔しながら引き取った。紫は弔いに山ほどの林檎を持ってきた。黒も梨を一箱持参した。白は大きく彩り豊かな花束を供えた。

 紫は母の死を痛いほど嘆いた。医者として施せる処置は知り合いの医者に頼み込んですべて試したが、未来も死体を生き返らせることはできないままだった。自分が医者になったのは母を助けるためであったのに、こんな時に自分は母を安らかに死なせる術しか知らなかった。紫は自分が何のために医者になったんだろうと考えて泣いた。

 娘はテレパシーで死んだ母に話しかけた。もう一度会いたい意思を伝えた。また絵を描いてほしい願望を伝えた。また死んでしまうことに文句をぶつけた。一人にしないでほしいことを訴えた。母に言いたくて言えなかったことも全部伝えた。何度も伝えた。

 黒はそんな紫を見かねて、母親を呼ぶ時に言葉ではどう言うのかを教えてあげた。紫は言葉を話したことが無いためうまく発音できず舌足らずであったが、母に届くようにゆっくりと丁寧に声を出した。

「おかあさん」

それでも老女から返事は無かった。紫は涙で赤が見えなくなった。


 赤の死後も多くの人が赤の絵を見た。絵は次の未来にも残り評判になったが、どのような絵なのか言葉で言える人は誰もいなかった。

いつの時代も色彩であふれるこの世界の美しさを表現したくて書きました。

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