陽炎 四
汚れたユニフォーム。後ろ向きにかぶった帽子。
帰り道。俺の隣にヤマはいない。
告白に行ったのだ。前言通り。
俺は先に家路についていた。待ってる必要がないから、保護者でもないし、ましてや子供じゃないんだから。
俺は無心で自転車を漕いでいた。
試合は7回コールドゲームだった。圧勝だった。諸手を挙げて喜びたい心境なのだ、本来ならば。でも今はそんな気には到底なれないでいた。今ごろヤマは里村を呼び出して告白をしているに違いない。良くても悪くても結果が気になってしょうがない俺の自転車を漕ぐスピードが、いつもより速い事など気付くはずもなかった。
いつの間にかグラウンドにいた。誰もいない静寂に包まれていた。きれいに均された土が俺の心を落ち着かせてくれた。マウンドに登り胡坐をかいた。俺の居場所でそっと目を閉じた。目を閉じると、どこからともなく歓声が聞こえてきた。俺は今日の試合を思い出していた。完璧だった。非の打ちどころのないピッチングに、我ながら鳥肌が立っていた。
(・・・?)
突然だった。急に俺を不安が襲ってきた。この調子の良さがどこかで崩れてしまうんじゃないかという不安が俺の脳を支配していた。
甲子園。そこまでの道のりは果てしなく長い。気が遠くなるほどのチーム数が挑戦し、南北海道だけで1校しか許されていない極めて狭い門戸。まさに奇跡と言ってもおかしくない。そこに俺たちは立ち向かっているのだ。堂々と胸を張って。だから余計に不安になる。一発勝負だから、泣いても笑ってもこれっきりだから。
帽子を深くかぶった。孤独が背中から覆いかぶさるように俺全体を包み込んだ。いつも覚えている孤独感。もう慣れてもいいはずなのだが不安で不安で堪らない。それをチームメイトにばれないように、いつも気を張り、いつも胸を張って見せていた。マウンド上にいるエースが背中を丸めるところなど見たくはないだろうから。
「とりあえず、あと2つ」
全道大会まで。
どこの高校が来ようと、どれほどの強豪だろうと俺には関係ない。俺は俺の球を投げるだけだから。あとは後ろの仲間たちが守ってくれるから。そう思うと次第に気持ちは穏やかになっていく。仲間とは、いいもんだ、と再認識する瞬間でもあった。
日が暮れてきていた。辺りが少しずつ橙色に染まってゆく。
「ここにいたのか」
ベンチの方から声が聞こえた。ヤマだった。
「なんか・・・来ると思ってたよ」
俺はズボンの土をほろいながら、ヤマの方に歩を進めた。
ヤマはニヤっとしながら肩から提げていたドデカいバッグをどすんと降ろし「ちょっと走らねえか」といって俺の賛否を聞く前に走り出してしまった。
「おいおい、俺は今日完投したんだぞ」といいながら俺はヤマの後を追った。
それを聞いたヤマはチロっと舌を出して「7回じゃ、もの足りねえだろ」と笑い、速度を上げたのだった。
「おまえな、もっとエースをいたわれよな。次もあるんだぞ」
しかし、そんな俺の言葉はヤマには届いていそうもなかった。
俺たちはすでに3周目に入っていたが、ヤマは4周目には入らずに息を切らしながらベンチの前に大の字に寝そべった。「はあはあ、やっぱ気持ちいいなあ」上下する厚い胸板。俺は寝そべる事なくその場に腰を降ろした。
静かなグラウンド。俺たちの呼吸だけが聞こえていた。俺はそんな静けさを破るように口を開いた。
「で、どうだったんだよ」
俺は視線をヤマから遠ざけながら言った。
「うん」
蚊の鳴くような、うん、だった。
「うん、だけじゃわかんねえよ」
俺はゆっくりとヤマの方へ振り向いた。ヤマの瞳は夕日のせいでキラキラしていた。
「はいって・・・言われた」
俯いたままだった。声が少し上ずっているように聞こえた。
「はいって、まさか・・・」
ヤマの横顔を凝視していた。
ヤマも俺の目を見つめてきた。その目は潤んでいた。ヤマは小さくだがしっかりと頷き、微笑みを浮かべこう言った。「つき合ってくれるってさ」ヤマは俺の手を握っていたのだった。
俺は放心状態になっていた。遠くで聞こえるカラスの鳴き声。心にぽっかり空いた穴をその鳴き声がすり抜けていくような、そんな淋しさが胸を突いた。
「そ、そうか・・・良かったじゃないか」
社交辞令なんて初めてだった。口から洩れるように出ていた。
「意外と簡単なんだな、彼女出来るのって」
想いと違う言葉が口から飛び出していく。
「あはは、俺にもあんな彼女ができるなんてな。けどな、それほど簡単じゃなかったんだぞ」とヤマは笑いながら俺の肩を軽く押した。幸せそうな笑顔で。
「彼女は・・・里村は、どうだったんだよ」
言ったあとに俺は後悔していた。そんな野暮な事は訊かない方がいいに決まってる。俺は思わず口を噤んでいた。
「うん。彼女は彼女なりに結構迷ってたんだと思うよ。返事くれるまで時間掛ってたし、途中で俺ダメかと思うような雰囲気もあったし・・・」
俺はそんなヤマの言葉を片方の耳だけで聞いていたのだ。残る片方では違う事を考えていたからだった。
「突然だったし、戸惑ったんだと思うんだ。何かをふっ切るようにオッケーしてくれたんだよ。最後はね」
結果オーライだった。彼女が最終的に了解したんだから、結果良し、なのだ。俺はヤマに気付かれないように吐息をついていた。
「そうか、ホント良かったな。応援するよ。けどな、野球にだけは集中しろよ」
ヤマは、あったりまえだろ、と言いながら飛び跳ねるように立ち上がった。
「ひとつだけお願いがあるんだ」
「何だよ」と俺もその場で立ち上がった。
ヤマは申し訳なさそうな表情で「みんなには秘密にしておいてくれないか」と両手を合わせていた。
彼女の気持ちだ、とすぐにわかった。ヤマはそれを口にしなかったが、わざとらしい苦汁を舐めたような表情がとてもわかりやすかったし、それにヤマはそういう事に関してはオープンな方だから、前の彼女の時だって同様だったから。多分、いや間違いなく彼女の希望なんだろう、と思った。
「俺はかまわないよ。応援するって言っただろ」
それを聞いたヤマは深く頭を下げ「よろしくな」と言った。
ヤマの筋肉質な肩に俺はそっと掌を載せた。筋肉質なその肩は小刻みに震えていたのだが、女房役のヤマの事でも俺はまったく気付かなかった事があったのだ。それはグラウンドの土に一粒の涙を落していた事だった。




