陽炎 二
ナイッピー、とヤマの声がグラウンドに響いた。
今日俺の球は走っているようだ。ヤマの声色でわかった。調子が悪い時は、ヤマの声も上ずっているように聞こえる。俺への返球にも力が入っているので、非常にわかりやすい。
威勢のいい選手たちの掛け声、土を蹴る音やすべり込む音、高校野球ならではの金属バットの響きが夕焼け空にこだましている。
俺たちは最後の夏に賭けていた。
青春。
そんな奇麗な言葉は必要ない。俺たちに必要なのは泥臭さだけだ。毎日毎日土にまみれ、肺が破裂しそうなほど走り続け、喉が潰れるまで叫んだ。筋肉は極限まで膨張し、体は汗も出ないほどに引き締っている。
甲子園。
球場は兵庫県にあるらしい。全国大会が毎年そこで行われているという。全国の高校球児はそこを夢見て、日々命を削っている。でも、俺にはそこが一体何なのか、どんな代物なのか全くわからないでいたのだ。一つの象徴化している『甲子園』という単語。それを聞くだけで年頃の男たちは夢中になり、浪漫を覚える。
不思議な場所、とだけは理解していた。
個人練習も終わり、守備練習に移ろうとしていた時だった。選手は皆、それぞれの持ち場へと散りすでに準備はできていたのだが、ノックをする当の監督が現れない。選手たちは思い思いに誰かしらとキャッチボールを始めていた。俺もマウンド脇からヤマへと向かってボールを放った。
「ヤマっ、監督はっ」返球を待ちながら俺は声を張った。
「知らんっ」と言いミットを軽く振った後、ヤマは球を投げ返した。
「呼んでこいよ、陽が暮れちまうぞ」オーマイガーっていう感じで両手を開き、そそくさと駆けだしていった。カチャカチャ、というレガースが擦れる音が遠ざかって行く。
その間俺は右足でマウンドを丁寧に均し始めた。二つあいた穴を埋めるように。これは俺専用の窪みなのだ。俺の歩幅といっていい。このマウンドは俺の領域だから、丁寧に土を削り窪みに集める。埋めた土はその後しっかりと両足で踏み固めるのである。そうすることで左足を踏み出した瞬間、いい感じで踏ん張れるのだ。俺は結構この作業をマメにしていた。
夕方になると、やはりまだ涼しく感じる季節。捲っていたアンダーシャツを手首まで戻し、グローブを履き直した。
カチャカチャと遠くから聞こえてきた。ヤマが戻ってきた音だ。その後方を監督がゆっくりと歩いてくるのが見えた。俺はそれを確認した後センターの方を向き右手を上げ「しまっていくぞ」と呼び掛けた。後ろを守る俺の信頼する仲間たちは、一斉に大声を張り上げていた。
ヤマがマスクを被った。悪い悪い、と頭を掻きながらグラウンドに入ってきた監督を見て俺は、相変わらずだなあ、と軽く鼻から息を抜いた。
その時だった。監督の後ろの黒い影。監督の後を追うように小走りしてくるセーラー服が目に入った。
「さ、里村?」
そう、転入生がベンチの前に立っているのだ。少し恥じらうようなその仕草は、転校してきた日を思い出させた。黒くて長い髪が風に靡く。それと一緒にスカートも靡いていた。彼女はそれを押え込むように下を向いた。
俺の胸はまた、ドキドキと高鳴っていた。
「マキっ」
どこからか俺を呼ぶ声が聞こえた。どこか遠くの山のテッペンからでも呼ばれているような、そんな声だった。
「お、おう・・・」と俺は頼りない返事をしたが、ヤマまでそれが届いたかどうかはわからない。
彼女が・・・見ている。
何故ここにいるのか。気になって仕方がない。
練習に集中できない俺は「声だせよ、マキっ」と再度、ヤマに気合いを込められてしまった。
同級で先輩マネのアカネが何やらいろいろと説明をしているようだ。とてもにこやかな表情に見えた。俺は練習の時々で何度もチラ見をしていた。彼女と目が合ってしまいそうなほど、何度もだ。
俺は思い出していた。今日の、あの時の事を。廊下で瞳が重なった瞬間の事を。
大きく息を吸った。そしていった。「声出していこーぜ」と。自分にいったのだ。声をだせよ、と。集中しろよ、と。
守備練習も終わり、ベンチの前で監督を囲むように輪になっていた。監督は後ろに手を組み、難しい表情で今日の練習の総評を言うのが決まりとなっている。俺たちは慎ましい態度でそれを聞いていた。
「それと・・・」監督は終わりがけに再度口を開いた。「新しいマネージャーだ、紹介する」
監督の背中に隠れるようにいた彼女が、紹介されると慌てる素振りで横に一歩ずれたのだった。
「こちらへ」と右手を差し出す監督に誘われるように、今度は一歩前へと踏み出した。
「里村優香くんだ。おまえたちの夢が叶うよう、お手伝いをしたいと言ってくれた。よろしくやってくれ」
俺たちの夢?・・・の手伝い。
甲子園。
(そうか)
はっきりと今、浮かんだ。俺たちの夢。今、それがくっきりと形になったような気がした、彼女のお陰で。
夢・・・だったんだ。形のないもの。だから今まで俺は、いまいちピンときていなかったのだろう。目標へと変わったのだ、はっきりと今。
(甲子園に行きたい)と。
目が合った。ドキっとした。俺は逸らすように俯いた。
まただ。部員たちの隙間を縫うように彼女の視線が、俺を捕らえていた。
ヤマが代表して挨拶していた。主将として。ヤマは鼻の下を人差し指で照れくさそうに擦った。照れてはいたがヤマははっきりと言った。いや、言いきった。胸を張って。
「甲子園に連れて行く」と。彼女の夢でもある、俺たちの夢。
ヤマの言葉が心に残っていた。耳から進入してきたその言葉は、確かに俺の心に刻まれていた。
夕焼け空。
もう少しで日が暮れる。今日という一日が去ってゆく。そしてまた明日という一日と出逢う。それを一生懸命繰り返すことで、俺たちは目標へと一歩一歩近づいていゆくのだ。
彼女の影が俺の足元にひっそりと伸びていた。俺の影は、思ったほど後ろに伸びていない気がしていた。




