陽炎 十七
俺が迷っている理由は、実はもうひとつあるのだ。当時の仲間には決して言えないような理由が。
それは中体連の決勝が終わった直後のことだった。俺らはベンチの前で負けを喫した相手中学の校歌を聞き、涙を流した。高校のような深い思い入れのあるやつばかりではないので、涙するやつもいれば、準優勝に満足して笑顔のやつもいる。帰り支度をするベンチ裏は様々な表情を見ることができた。俺はその満足げな表情に、負けた悔しさが次第に癒されていくのを感じた。突如ほぐれた緊張感は尿意を催した。俺は審判席の裏にある男子トイレに駆け込んでいった。
武者震いのように身体を震わせズボンのチャックを降ろした時、俺と同じように慌ててトイレに飛び込んできたやつがいた。
「おあ~、あぶねえ、あぶねえ」
俺はそれを聞いて笑いそうになるのをひそかに堪えていた。
「あれっ」そいつは俺の方を見て言った。「槇原くん・・・だよね」と。
俺はそいつを下から舐めるように見た。
「そ、そうだけど・・・」
「やっぱりそうだ。俺・・・わかる?」右手の人差し指を顔に向け、ニカっと笑った。「俺、さっき決勝で」
(あっ、敵の)
俺は開いた口を閉じることを忘れていた。
「わかった?俺、山城っていいます。キャッチャーだよ、知ってるよね。さっき試合したからね」
変に親しみを感じる彼に俺は愛想笑いを見せていた。
「それにしても槇原くん、キミってすごい球投げるね」
腰を2度落とす動作をした彼は、チャックを上げながら手洗いの方に歩いていった。そして、声を少し大きくして続けた。
「さっきの試合はどっちが勝ってもおかしくなかったよね。そう思わない?結果的に俺たちが勝ったっていうだけでさ。だって俺たちヒット1本しか打ってないし」
手洗いとを仕切るつい立てから顔だけをヒョコンと覗かせて彼は言った。
「負けは負けだよ」
俺はズボンのチャックを上げながら、彼のふたつ隣りの手洗いの前に立った。
「そうかなあ。でも、本当にキミの球はハンパでないよ」と俺の顔を指差した。そして「甲子園って考えたことある?」と言い、手を降ろして顔を近づけてきた。俺は若干背中を仰け反らせて答えた。
「あ~、う~ん。夢・・・だな」
「一緒に叶えないか、その夢」
俺は耳を疑った。さっきまで敵として戦った相手に、思いもよらぬことを言われたからだ。
「い、一緒にって?」
俺はおもむろに眉をしかめた。
「同じ高校で」
「おなじこうこう・・・ねえ」
そう呟いた俺の頭の中では、実は眩しいくらいの光の束が天へと昇っていくような、そんな晴々とした光景が浮かんでいたのだ。俺は目を閉じていた。
「俺はワケあって地元に残ろうと思っている」
急に神妙な声に変わった。俺はゆっくりと瞼を上げ、彼の顔を見た。さっきまでの軽いノリとは全く違う、あえて言えば男の顔つきになっていた。
「俺は自分の力で行きたいと思ってるんだ。今日勝てたのだって、俺たちチームが一丸となって勝ち取ったものだ。努力の賜物なんだ」と彼は拳を握っていた。
俺も知らずに拳を握っていた。それは体が共感した証だった。
「俺の球を受けるってことか」
彼は子供のような笑みを浮かべ、大袈裟なくらいに頷いた。
「キミの球なら喜んで受けるさ。ここいらじゃ、あんな球放るやつはいないよ。それを受けれるんだから、俺は幸せ者だ。キミの球はもっと速くなるよ。もっとキレも良くなる。だってストレートだけで俺たちを押さえ込んだのだから、そのセンスはタダものではないよ。俺が保障する」
大そうな口をきくやつだと思いその時は聞いていたのだが、俺たちを倒した山城の中学は全道を制し、全国へと行くことになる。まさか全国まで行くとは露とも思っておらず、それを聞いた時はさすがに俺の心はぐらついたのだった。
「考えといてくれよ。また会おうぜ」
土色した太い腕を差し出して、またニカっと笑った。
「ああ」
短い返事だったが、俺は確実に心を動かしていた。
(組みたい・・・こいつと。バッテリーを組みたい。こいつが受けてくれれば・・・)
俺の球はもっと活かされると思った。伸びのある最高の球を放れると。
それからの俺は気もそぞろだった。間も無く夏休みに入ったのでチームメイトには気付かれてはいないが、自分の部屋でこっそりとその事だけを考える日々をしばらく送っていたのだ。
「とうごー」と階段の下から俺を呼ぶおふくろの声。「晩ゴハンだよー」と。
俺はその日初めて部屋の扉を開けたのだった。




