陽炎 十五
初回のピンチはなんとか脱した。
が、依然と続く毎回の危機。王者は手を弛めることもせず、俺たちに襲いかかる。
反撃の糸口が見つからない。反撃はおろか毎回の猛攻を防ぐだけで精一杯だった。
「必ず来るよ」
6回の攻撃も三者凡退で打ち取られ、ベンチを出る時にヤマがみんなにそう言った。苦笑いで返すのもやっとな感じのナインだったが、ヤマの言葉は心の支えとなっていた。
7回も、8回も耐えた。毎回のようにランナーを出しながらも得点に結びつかない王者の顔には、焦りの色が見え始めた。
「必ず来るよ」
猛攻を耐えるほど、そして回が進むほどその言葉への期待度は増していく。逆に耐えてきた我らの方が、もうすぐそこに訪れるであろうチャンスが希望の光となり、チームの雰囲気を良くしていった。
電光掲示板に並んだ『0』の列。
そして、来る時が来たのだった。
9回の表、王者の攻撃は疲弊したように呆気なく終わった。
「獲れる時に獲れなかったからだ」と三木杉監督がベンチの隅で声を上げた。流れとはそういうもんだと、一度運に見放された者は落ちていくしかないんだ、と珍しく興奮気味に言っていた。
9回の裏。先頭バッターは三番のカネさんからだった。
「マキ、お疲れさん」と上下している俺の肩を、ポンと叩いた。
カネさんの瞳に、その時炎が見えたような気がした。
ツーナッシング。
追いこまれたカネさんは、まだ一度もバットを振っていない。相手の投手を睨みつけたまま仁王立ちしていた。
未だ疲れを見せない相手のエース。9回になってもさすがの貫禄を放っている。
渾身の3球目。
カネさんはこの時初めてバットを振った。
ファールチップ。
快速球にやっと当てたという感じだったが、続く4球目、5球目もカネさんはしぶとく喰らいついていった。
いつの間にかスタンドのブラスバンドが止んでいた。球場中がこの二人の勝負に見入っていた。静まり返る球場。一人ひとりの息づかいが聞こえてきそうなほどの静寂。
次で何球目になっただだろうか、粘るカネさんもバッターボックスで大きく肩を上下させていた。
「カネさんっ」
俺は思わず叫んでいた。
それを聞き審判にタイムを取ったカネさんは、ネクストに置いてある滑り止めスプレーを手に取った。
「カネさん・・・」
その声に反応したカネさんの瞳はまだ死んでいなかった。疲労した表情の中にある瞳だけはまだ諦めていなかったのだ。カネさんは無言で小さく頷いた。
マウンド上の相手投手も、帽子をとりアンダーシャツの袖で額の汗を拭っていた。初めて見せた王者の疲労だった。
(行けるよ・・・この試合)
足を上げた。踏み出した。しなる腕から放たれた白球は、今日の中で最高の一球だった。
円山に響く快音。突き抜けるような金属音。弾かれた白球は美しい放物線を描いていった。
(行けっ)
息を飲んだ。白球はスローモーションのように飛んでいく。
「はいれっーーー」
声を出していた。俺も、ウッチーも、シゲキも、サトルも。ヤマなんかはすでにベンチを飛び出していた。
「はいれよっ、はいっちゃえよ」
俺たちの夢をのせて・・・。
叫んだ。声が嗄れるほど。
どこまでも飛んで行きそうな打球。球場のフェンスよりも、円山の頂上よりも、そしてそのまま夢の舞台・甲子園にまでも飛んで行きそうな白球を、ここにいるすべての人たちが見つめている。
俺たちだってそう、相手チームの選手だって死にもの狂いでしてきた練習の日々。白球にかける想いは皆同じなのだ。
突然、白球が俺の視界から消えた。消えたというよりも俺が見失ったのか。俺もベンチを飛び出していた。
「ヤ、ヤマ。打球は?どこにいったんだ」
震えていた。
「消えたよ」
声も・・・体も。
「消えたって?俺、見失っちまって」
俺はヤマの肩を揺すった。
「・・・たよ」
ヤマの声は掠れていてよく聞き取れなかった。
「何だって、はっきり喋れよ」
揺する腕に力が入った。
ヤマは突然、俺の手首を掴み大空に掲げて雄叫びを上げたのだった。
「うぉっしゃーーー」
「えっ?」
何がなんだかわかっていない俺は、グラウンドに視線を戻した。そこには高らかと右腕を上げたカネさんの姿があった。ひとつずつ踏みしめるように蹴られるベース。カネさんはセカンドベースを周っていた。
「勝ったのか」実感がじわじわと湧いていた。「勝ったんだよな」ひとり呟く俺にヤマが応えるように言った。
「俺たちは勝ったんだー」と。
その声が発端でどよめきだしたスタンド。どっと、グラウンドが地割れでも起こしたような歓声。ベンチの中の俺たちはそれを聞いて確信した。
王者に勝ったんだ、と。
サードベースを蹴り、俺たちに向かって腕を上げたカネさん。その瞳には涙が浮かんでいた。苦しい戦いを乗り越えた男の涙だった。
興奮冷めやらぬベンチ内。深呼吸して落ち着こうとした。でもそれは到底無理と言えた。ベンチに戻ってきたカネさんはもみくちゃにされていた。整列に遅れて審判に注意されたくらいだった。
またひとつ昇ったのだ。あそこへの階段を。多分、それが俺たちに課せられた宿命なのだろう。俺たちは如何なることがあっても挑まなければいけないらしい。あそこへと続く茨の道を。
校歌斉唱。
晴れ渡る空に向かって口が自然と開いていた。
(ここでは歌わない)
そう決めていたのに、無意識で俺は歌っていたのだ。それほどの激闘だったということだ。
カネさんはまだ泣いていた。「マグレだ、マグレだ」と何度も何度も謙遜していたが、それは違う。カネさんもまた宿命を背負わされた一人なのだから。しかもマグレで打てはしない、あの場面であの球は。選ばれた者しかあそこには立っていられないのだから。
静かなる拍手。熱闘を冷ますような優しい拍手が、球場を包んでいた。向こうのベンチ前。王者は膝まづき、涙していた。最後の一年。それは皆、同じことだった。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ運が味方したのだ、俺たちに。その差は何なのか。わかるはずもないし、わかりたくもなかった。
あとひとつ。あと1試合だけ、俺たちに味方してくれればいい。気まぐれな『運』というやつが。
俺は見上げた・・・晴れ渡る空を。
俺は見ていた・・・晴れ渡る空の中を、一筋の黒雲が太陽を遮ろうとしている瞬間を。




