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  序


 余命一年。

 ドラマの中の台詞でよく使われそうな言葉。だからか、あまり自分でもピンときていない。

 先日私が病院で、銀縁の眼鏡をかけた医者から言われたものである。その医者は検査を終えた私を前にして、カルテばかりを見ていた。

 窓からの陽気がとても暖かいまるで春のような昼さがり、私は診察室の椅子に腰を降ろし彼の次の言葉を待っていた。

 今ではデジタルになったレントゲンの画面と手元のカルテの間を、彼の視線は何度も仰々しく往復を繰り返していた。

「先生っ」

 私の背後の立っていた妻の景子が、痺れを切らしたように口を開いたのだった。

「どうなんでしょうか。た、大したことじゃないんですよね、ウチの人」

 逸る気持ちが妻の足を前に一歩踏み出させていた。私はそんな妻の柔らかな手を、横からそっと握りしめた。

 昔から体力には自信があった。学生時代は野球部に所属し、一応、投手を務めていた。甲子園を本気で目指すほどの熱の入りようで、そのお陰か何のスポーツをやってもそこそこは出来た方だった。

 社会人になってからでも、病気なんてしたことがなく。風邪すらもここ数年はひいたことがない。今回はそのたまにひいた風邪が多少長引いたのだろう程度に軽く考えていたのだが、乾いた咳をするようになって一ヶ月くらいが過ぎた頃、胸が痛く、いや苦しくなったのだった。胸と背中を両方から力一杯押されるような圧迫感。いや、もっと何ていうか、肺を直に握られているような、思うように呼吸ができない苦しさが私を襲った。気がついたら病院のベッドの上だった。妻の景子が救急車を呼んでくれたそうだ。

 精密検査を受け、一晩泊まった。胸の方は薬のお陰で、今のところ苦しさはない。

 入院というものを初めてしたが、病院というのはどうしてこんなに暇なのか、とばかり考えていた。療養・養生をする為かもしれないが、この閉鎖された空間は退屈すぎて悪い事ばかりが思いついてしまう。こんなのが続くと思うと、治る病も治らなくなりそうだった。

(二度とごめんだ)

 診察室。

 まだ銀縁の眼鏡の医者は、口を開かない。時折り首を小さく傾げたり、カルテではない別の紙にメモをとったりしている。何かの計算でもしているかのように。

 私は景子の方へ振り返った。

「あなた・・・」

 今でも泣きだしそうな震えた声をしていた。私はそれに、首を縦に振って応えた。

 そんな時だった。

「余命一年ですね」

 右の鼓膜から進入したその単語は、私の脳内を何周しただろうか。しばらくその意味を理解することができなかった。

「うわーーーー」

 私よりも先に理解してしまった妻の景子が、悲鳴を上げ、崩れるように床に膝を落した。私は握っていた妻の手を離してしまっていた。

「・・・長くても」

 付け加えられた言葉。その単語はリアルだった。私は胸に短刀が突き刺さったような衝撃を受けていた。私は回していた首を彼の方に戻した。彼の眼差しは真っ直ぐ私へと向いていた。

「び、病名は」

 銀縁の眼鏡を直す仕草をした後、画面に映るレントゲン写真の方に視線を戻した。

「肺癌です・・・」といいながら、レントゲン写真の白みがかった部分を指差した。

 私は無意識に息を吸っていた。今、痛みなんてものはない。

「治るんでしょうか」

 彼は写真から少しだけ目を逸らし、そして少しだけ首を横に振った。

「・・・末期に近いんです」

 意外と冷静だった。脇には泣き叫ぶ景子がいたのだが。景子は知らぬ間に私の左腕を掴んで離さなかった。

「意義と・・・はっきり言うんですね」

 彼は椅子を静かに回転させ、日射しの差し込む方へと立ちあがった。

「申し訳ありません」

「あなたが謝ることじゃないでしょう」

「そうなのですが・・・この方が賢明かなと思いまして・・・」

「その内容を聞いてショックから立ち直れなかったら、どうする気だったんですか」

 彼は後ろに手を回した。

「今までに、たくさんの同様な患者さんと接してきました。個人の意見は様々ですが、私個人の意見として・・・残された余命を謳歌していただきたい。そう思う事の方が多かったのです。だから・・・」

 彼は体の向きを私の方へと戻した。窓からの逆光が強くてその表情までは確認できない。

「はじめはショックだろうと思います。でもその患者さんたちに何度も言われた同じ言葉がありました。私の手を力強く握り、私の瞳を睨むように見つめて言うのです」

 私は、息を呑んでいた。

「早く、少しでも早く告知してくれればよかった、と」

 彼はまだ若い医者だった。表情は見えていなかったが、目を潤ませているような気がした。

「やりたいことが・・・まだあったんだ、と」

 短い言葉だが、彼が医者として経験してきた苦悩が詰め込まれているように思えた。

 私は景子の手を再び握り、椅子に深く腰掛け直した。

「ありがとう。そこまで考えてくれていたんですね」

 涙は出なかった。何故だかわからない。多分、明日死ぬわけではないからだろう。


 今日も、小春日和だ。昨日から引き続き、陽気が心地いい。少し暑くなったので、肩まで掛けていた布団を腰まで捲くった。

 規則正しく張られた天井の白い板。虫みたいな模様があしらわれているが、私にはそれが何なのかわかるはずもない。退屈な病院の天井だった。景子は今、私の着替えやら私物やらを自宅取りに行ってくれている。

 暇だ。

 これが初めての入院だからか。いや、基本的に楽しむ場所ではない、と理解するように言い含めた。理解はした、頭では。でも溜息の回数が増えている事に気付いてしまった。入院なんてしているから、普段は気付かないことでも気付いてしまう。

(溜息をすると幸せが逃げる・・・か)

 昔、誰かに言われたことを思い出した。これも多分、入院のせいなのだろう。

 今の私は、この六人部屋の一角とその窓から見える景色の二つしか自由にすることができない。厳密にいうと、部屋の一角は占有してはいるが、周りに迷惑が掛るから、好き勝手・自由気ままとは多少の語弊があるかもしれない。が、あまりにも不自由なので大袈裟に言ってみたまでだった。

 枕元の時計を見た。まだ午前の十時半だった。まだそんな時間だ。さっき起きて、さっき粗末な朝飯を採った。何もすることがないから、鶏のように首を右に左に動かして忙しくしているが、基本的にそれらの行動には意味や目的は存在しない。ただ暇なだけだった。

(早く来ないかなあ、景子)

 この呟きも、七度目になっていた。

 午前十一時を廻った頃、看護師さんが体温を計りにきた。中堅の看護師さんだった。白衣の天使。何かそそられた。普段ならそんな事思うことはないのだが、暇、というのは余計な事まで思わせる。

(いかんっ)

 振り払うようにかぶりを振った。それを見た看護師さんが、

「大丈夫ですか、槇原さん。頭、痛いんですか?」と心配そうな表情を向けた。

 私は慌てて手刀も振った。

「胸の痛みはありますか?」

 私は薄い声で、お陰さまで、と答えた。

 薬のお陰。痛みは薬で押えることができるなら、ウチに帰りたい、と訴えた。看護師さんは私の手首を摘まみ、腕時計を見ながらいった。

「薬だけでは良くならないんですよー」そう言った後、ニコっと微笑んだ。「ゆっくり頑張りましょうね、槇原さん」

 そんな呑気な言葉に、

(ゆっくりでいいのか)と心の中で呟いていた。

 そんな事をしていたら、昼の時間になっていた。配給のように置かれていく昼食。朝のものよりは若干はマシだが、やっぱり粗末という言葉が当てはまる。私はそれを五分で食してしまった。その程度の量だから仕方がない。やがて私の胃袋もその量に慣れることだろう、そう思いながら私は緩やかな睡魔に襲われていたのだった。


 優香。

 死ぬなよ。

 こっちを見ろよ。目を閉じるなよ。

 俺はここだよ。わかるかい。

 手、力入れろよ。ぎゅっと握れよ。ほらっ。

 甲子園に連れてけって言ったよな。

 あとひとつなんだぞ。

 一緒に行くんだろ。

 青いツタ見たいって言っただろ。

 聞こえてるかい、俺の声。

 目を開けろよ。

 行くなよ。

 死ぬなよ、優香。

 一人にするなよ。

 優香、なんとか言えよ。

 死なないでくれよ、優香。

 独りにするなよ・・・


 目を開けた。息が乱れていた。全身汗に濡れていた。

「大丈夫?あなた」

 景子だった。私の布団の上で、服をたたんでいた。

「・・・嫌な夢だった」

 私は汗の滲む額に手を当てた。それを見た景子は、私の手をよけて枕元にあったハンカチでその額の汗を拭いてくれた。景子は淑やかで優しい女性だ。

「悠里は?」

 実家にあずけてきたわ、とたたんだ服をしまいながら景子はいった。「どんな夢、見てたの」

「・・・人が死ぬ夢だよ」

 それ以上は言わなかった。昔好きだった女の子が死んだ夢、だとは。

 窓の外を見た。夕日は直接見えないが、夕焼けの空を眺めることができた。あれほど時間が経つのを遅く感じていたのに、気が付くとすでに日が暮れそうになっていた。時間が無情のものだと実感した。私は初めて嘆いてしまった。だって私はこうしながら死へと向かって行くのだから。

 消灯時間。

 憂鬱な時間だった。暗闇が支配する空間。毎晩、寝酒を飲んでいた私は、なかなか寝付けない日々が続いた。寝付けない夜ほど憂鬱で、根暗な思慮が思い浮かぶものだ。考えれば考えるほど良くない方向へと進んでしまう。ましてやここは病院だ。治るものも治らないだろう、とまた思ってしまった。

 一応、目は閉じてはみる。私の睡眠を妨げる隣人の鼾。折れたんじゃなかと思うほどの歯ぎしり。起きてるんじゃないかと思ってしまう寝言。病人とは思えないほど普通に聞こえるのであった。それらに比べると私は重症患者ということになる。

 数日後、景子に言われた。「目の下にクマができてるよ」と。そういわれた私はそっと目の下を触れてみた。すると前にはなかった膨らみのようなものを少し感じた。

 景子は毎日、献身的に通い、私の世話をしてくれている。本当に有難かった。ここしか居場所のない私には、もう景子しかいないのだから。その有難味は痛いほど感じていた。

 今、自分の病状がどうなっているのか。回復へ向かっているのか、それともそうではないのか。薬で押さえられた痛みで、まったく感じることはない。ただ前と違うのは、体が幾分ダルいことくらいだった。


 ある日のことだった。

 イヤホンを耳に差し、私はTVを観ていた。他にする事がないからだ。最近ではめっきりワイドショーの事が詳しくなり、主婦が夢中になるワケが何となく理解できるようになっていた。ただでさえ芸能人は人気商売のせいか、派手に振舞ったり目立つことを好んだりする。そうすることで自分の存在感をアピールしていかなければいけないのだ。芸能人同士の熱愛報道や離婚報道は、あとを絶たない。ワイドショーはそういう芸能人の人間模様をリアルかつ大袈裟に紹介していて、日中の主婦のハートをがっちりと掴んでいるのだろう。暇を持て余している自分も同種だと感じてきていた。

 いつものように真横を向いてTVを観ていたら、背後から優しく肩を叩かれた。私は空いている左手でイヤホンを耳から抜き、肩越しにその手を見た。その手の主は、隣人の稲葉さんだった。歳は見た感じ私よりも十歳ほど上に見える。白いものが混じった髪を丁寧にオールバックにしていて、口調も表情も穏やかな初老の男性である。最近少しだが、稲葉さんと言葉を交わすようになっていた。言葉を交わすといっても挨拶程度のことだが。

 私は失礼のないように体勢を直し、どうも、と会釈をした。稲葉さんも笑みを浮かべ軽く頭を下げた。

「すみませんね。お楽しみの最中でしたのに・・・」

 私は、いえいえ、と手刀を顔の前で振った。

「暇でしょ、槇原さん」

 その通りだったので、ええ、と答えた。

「私も最初は気がおかしくなってしまうんじゃないかって思うほど、暇で暇で堪らなかったんですよ」と少しだけ体を乗り出してきた稲葉さん。

「そうでしょうね、ここならね」と私は病室の隅から隅を見渡した。

「こういうの、興味ありますかな」

 皺の寄った手が一冊の真新しい本を差し出してきた。

「これは?」

 聞かれた稲葉さんは少しだけ誇らしげな表情でいった。

「安藤秀作ですよ」

 聞いたことのない名だったが、稲葉さんがさぞかし嬉しそうに言うものだから、私はそれを手に取り遠巻きに眺めたのだった。いまいちピンと来ていない私の表情に、

「・・・知らないんですか?安藤秀作」と言いながら表情を訝しげなものへと変えた。

 私はそれに臆することなく、ええ、と答えた。

 一時は訝しげな表情を見せた稲葉さんだったが私の返答を聞いた後、開き直ったようにその表情を一変させて「それは良かった」といい、うんうん、と頷いた。

「安藤秀作は現代小説家なのですが、晩年にこれを書き残したんですよ。この自叙伝をね」

 流暢な舌つかいで説明する稲葉さんの表情を見ていると、さっきよりも若干だが若返ったように見えていた。

「彼の人生も、また波乱」

 波乱とも思わせないような笑顔でそういった。

「皮肉なものですよ。現代小説家なのに自叙伝で華開いたんですからね」といって、鼻から息をひとつ抜いた。

 退屈ついでに読んでみたら、と言い残し隔てのカーテンをゆっくりとひいて稲葉さんは身を隠していった。私の手には自叙伝が残った。人生五十年生きてきたが、本という本は読んだことがなかった。読んだといえば漫画ばかりで、活字を読むという習慣はほとんど無いに等しい。しかも、有名なのかは知らないが、安藤秀作という人物にもいまいち興味が湧いてこないのだ。

 自叙伝はそれから数日間開けられることはなかった。


 またいつものように寝て起きたら景子が椅子に座っていた。私は、やあ、と声を掛けたが彼女の反応は薄かった。

「何やってるの?」と上体を少しだけ起こし景子の手元を見た。彼女は丸椅子に腰掛け足を組み、真顔で一冊の本を見つめていた。「それはっ」と話し掛けると景子は、ごめんごめん、といって栞を丁寧に挟み本を閉じたのだった。

「お茶淹れるね」

 私は、うん、と頷きながら彼女に訊ねてみた。

「知ってるの?安藤秀作」

 景子は目を丸くし逆に、知らないの?という表情を見せた。

「そんなに有名なのかい」

「最近になって注目されている作家さんよ。もう亡くなったそうだけど」

 私は鼻から抜けるように、ふ~ん、と返した。

 景子は湯呑みを差し出した後、又その本を手に取った。そして、これどうしたの?とタイトルを見せるように本を立てたのだった。

「お隣の稲葉さんが貸してくれたんだよ。どうせ暇でしょ、とかいってね」

 ぷっ、と景子は吹きだしそうな笑いを堪えていた。あなたが本ねえ、どうせ読まないなら私に貸してよ、そんな言葉が私の頭の中にパッと浮かんだ。けれどその思いつきは覆されることなる。

「たまにはいいんじゃない」

「えっ」

「本を読むと心身のリラックスにもなるらしいよ」

 景子は明るい笑顔でそういった。私が想像して返事とはほど遠いものだった。その景子の言葉で、その景子の思いやりのお陰で、私はその日から少しずつだがその本のことが気になり始めていた。


 当たり前だが、今日も消灯を迎えた。そう思ったが、すぐにその考えは訂正した。その当たり前の事がいつまで続くのか。長くて一年と言われた命。病状が急変することも十分に有り得るのだ。入院して一ヶ月が過ぎようとしていたので、詳しくは残り十一ヶ月ということになる。長くても。

 我が人生。

 余裕をかましていた自分が急に正座をしたような、畏まった心境に陥った。

「人生を謳歌してほしい」

 銀縁の眼鏡の担当医がいった言葉だった。だが私はまだ謳歌していない。いや謳歌することについて考えてもいないのだ。そうしているうちに、後悔する時間も無くなるのか、と思うと舌を打ちたくなった。

(何かを・・・したい)

 何をすればいいのか。行動できる範囲はこのベッドの上だけなのだ。

「何が・・・できる」

 真っ暗な天井を見つめた。周りではいつものように鼾や寝言が飛び交っている。

「私に・・・何ができる」

 翌日、さいわい景子が朝早くから来てくれた。着替えを置きにきたのだ。プラスチック製の籠に詰め込んだ洗濯物を別の紙袋に入れ替えていた。

「景子・・・」

 私の呼び掛けに彼女は上体を起こし、ニコっと笑って返した。

「家のワープロ・・・使ってないよね」

 少し天井を見上げる仕草をした後、うん、と大きく頷いた。何に使うのだろう、と一瞬考えたに違いない。

「明日、持ってくるわね」

 何に使うのかは訊かない妻の配慮に心の中で、ありがとう、といった。

 景子が帰った後、私は初めてあの本を手に取った。安藤秀作である。

「自叙伝・・・」

 私が余生でできること。私という存在がこの世にあったという証を残そうと思った。自叙伝の書き方などまるでわからないが、とりあえず書いてみようと思った。

 と、その前に安藤秀作である。参考までに読んでみよう、という気なった。深く理解しなくてもいい、と思っていた。安藤秀作の人生自体には興味が無いからだ。

 午前十時頃からだったか読み始めたのは、丸三日かかった。かかったが、読んだ甲斐を感じていた。

「安藤秀作もまた・・・悲しき人生」

 人々が言う波乱の人生、そのものであった。

 私はすぐに我が自叙伝のタイトルを考え始めた。自分の人生を題するのである。

 タイトルはすぐに決まった。その名は

【 陽炎 】


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