プロローグ④
外は雨が降っていた。
地面に付着する水滴でようやくそれとわかるほどの細い雨。ただの通り雨だろうか。曇天の空の中にはもう月は姿を消しており、星が煌めく夜空を大雲が遮っている。
傘は使わなかった。
傘を使うほどの雨ではない。上着のフードで雨風を凌ぎながら、肌寒い風から逃れるように身体を縮こませる。夜の街を照らすのはネオンと街灯だけ。月明かりは無い。朝も昼も夜も、空を照らすものは何も無い。核戦争が終わってからと言うもの、空は灰色に染まり、この世界の光は失われた。
この街も変わったな。
特に目につくのがホームレスたちだ。かつての街にもホームレスは存在していたが、今は数が異常だ。橋の下には、数十人のホームレスたちのコミュニティが出来上がっており、目つきがおかしい。おそらく薬物中毒者。あるいは売人と言ったところか。治安が悪化していると、R.Eは言っていたが、これは元々最悪だった治安が元に戻っただけだと思う。
腐り切った街の匂いがレックスの鼻筋を撫でる。吸い込むたび、胸が腐っていくような、甘く、汚れた血の香り。
目的地であるダイナー『ビリーズ・ビリー』の入り口は路上の裏側にあった。小さな建造物の前に電動型の黒い車が停められ、すぐそばに体躯のデカい大男が退屈そうに立ち尽くしていた。髪は黒く総髪。目元はくぼみ、ホリの深い骨格がコンジットらしからぬ、人好きのしそうな柔らかい表情を作り出す。
「待たせたな」
「ミリオーレ・アミーコ! 会いたかったぞ、相棒!」
男は、豪快に、レックスを自分の身体に抱き寄せる。
「久しぶりだなR.E。元気そうでなによりだよ」
「俺が元気じゃない時なんてあるかよ。お前もちっとも変わってないようで安心したぜ」
「最後にお前と会ったのは一年前か……こうしてみると、案外、一年も長いもんだな」
「ああ……本当に長い一年だったよ」
「おふくろも、お前に会いたがってたぞ。このまま語り合いたいところだが、長引くとおふくろに怒られちまう。さっさと中に入ろうぜ」
店の中に入ると、地下に伸びる短い階段が出迎える。まるで、濃い霧にでも包み込まれ、知らない世界に迷い込んだような気分がレックスを襲った。
階段の奥から、スーツに身を包んだ男が歩いてくる。
「いいかよく聞け。あの女は、俺たちの商品だ。ボスの前で、私に恥をかかせてみろ、お前たちの代わりなんていくらでもいるんだ。死にたくなければ。何がなんでもあの女を探しだせ」
男は大股で近寄り、玄関の前でレックスとぶつかった。
睨みつけながら、軽く舌を鳴らす。
「仕事の匂いがするな」
「ほっとけ。今の俺たちには関係の無い話だ」
厚い扉に手をかけ、力一杯に押す。
店のラウンジとカウンターには、五、六人ほどの人影しかなかった。ここは、不殺の聖域。ギャングだろうが、コンジットだろうがここでは、どんな人間でも平等に扱われる。レックスがカウンターに座ると、R.Eも隣に座った。
「いらっしゃい。ご注文は何に――」
カウンターの奥から老年の女性が見える。
「久しぶりだな。ママ・アバーテ」
ジッと座っているレックスの前に、ママは、急ぎの用事に追われているかのように、慌てた様子で素早く立つ。まるで幽霊でも見ているかのような目つきだ。
「レックス……アンタ、レックスかい」
「帰ってきてたんだね」
「ああ。と言ってもつい最近、戻ってきたばかりだがな」
「アンタが街を出るって聞いてどれだけ心配したと思ってるんだい。街に帰ってくる時くらい連絡してくれればいいのに」
「こっちにも色々事情があってな。まぁ、大した理由じゃないが、連絡しなかったのは悪かった」
「いいよ。気にしなさんな。アンタにはアンタの事情があったんだ。いちいち野暮なことは聞かないよ」
「助かる」
「で、この街に戻ってきたってことは、ロックではうまくいかなかったんだろう?」
「上手くいってなきゃ、ここには戻っていないさ」
「ってことは、また仕事に復帰するのかい? その様子だと、もうすでにいくつかの仕事を終わらせたって顔だね」
「まぁな、仕事に復帰する為に色々と任務についていたんだが、その任務中に怪我を負ったりしてまだまだブランクが抜けきれないがな」
「お前が怪我? 珍しいこともあるもんだな」
「ゲシュタルトでもないのによくやってる方だよ。アンタは」
カウンターの端で、ママが『ブラックムーン』のボトルを抱えていた。カラメルのような独特な甘みのあるラム酒で、ストレート・ロックで香りを楽しむのがレックスのこだわりだ。
「ほら、アンタの好きな『ブラックムーン』だよ。せっかく帰ってきたんだ。一杯くらい奢るよ」
「いいのか?」
「あの金にうるさいおふくろが、誰かに奢るなんてな、今日は嵐でもくるのか?」
「黙ってなリチャード。アンタも何か注文しな。冷やかしはお断りだよ」
「わかってるよ。じゃあいつものやつで」
「はいよ。ちょっと待ってな」
「おふくろさんも元気そうだな」
「あれでも、今年で百十四歳だからな。まだまだ若いさ。あの調子じゃ、二百歳まで生きてるかもな」
「親孝行してやれよ。こんな仕事だ。いつ死ぬかもわからない中で、ママも心配してるはずだ」
「おふくろなら大丈夫さ。ああ見えてもコンジットの母親だ。俺だって、おふくろを残して死ぬ気はない」
「俺もお前もタダでは死ねねぇってことだ」
「お前がいなくなってからと言うもの、仕事が山積みでな。最近はグレイプニルとマスター・キリングが火花を散らして戦争間近だ。稼ぎ時ではあるが、命の保証はない」
「俺もぼちぼち頑張ってはいるが、そんなことはどうでも良い」
「今日、ここに来てもらったのにはワケがある」
「わかってる。仕事だろ」
「話が早くて助かるぜ。今回の仕事はかなり骨が折れるからな。なんせ、俺たちに依頼をしてきたのは、あの"フィアンマ・パルセ"だからな」
「ブラックシティ最高のレーダー、ディーゼル・ルーと並ぶ、伝説の男だ。彼からの依頼を受けるのはコンジットたちからすれば、一生の誇りだ」
R.Eはふところから一枚の写真を取り出す。写真と言っても、白黒に印刷された旧式の写真だ。今の時代、写真なんて扱うゲシュタルトはいない。こんな古い技術を知っている人間を探し出せたR.Eの人脈には、素直に驚いた。
「よくこんな写真を手に入れられたな」
「お前のために頼んでおいたんだ。この写真を印刷するのに、俺の給料が三ヶ月分飛んだんだぞ」
「それはわかった。で、続きは」
「この女は、アラライカ・ユーティ。タイニー社の令嬢だ」
――タイニー社。
名前は聞いたことがある。
ゲシュタルトたちの人体に埋め込む機械パーツ――コスチュームを製造している大企業だ。コスチュームは身体能力や生体機能をさまざまな形で向上させる代物で、製造できる会社はこの世界に六社しか存在しない。
「その大企業の令嬢が、一ヶ月前、ヘアリッドの連中に誘拐された。おそらく金銭目的の襲撃だったんだろうが、ヘアリッドたちの襲撃で大勢の民間人だけでなく彼女の父親、レオン・ユーティまでもが射殺され、生き残ったのはこの女だけだ」
「ヘアリッドの連中は最初、多額の身代金を要求したんだが、タイニー社はそれを拒否した。つまり、令嬢は見殺しって訳だ」
「近々、第四地区のどこかでヘアリッド主催のオークションが開催され、この女も競売にかけられる。場所は候補がありすぎて特定できていないのが現状だ」
「その情報は確かか?」
「俺の情報に間違いはない」
「大企業の令嬢だ。オークションにかければ、数千万……いや、数億の金だって動くかもしれない」
「俺たちの任務はこの女をヘアリッドたちから奪還すると言うことか」
「そう言う訳だ」
レックスは悩む。
依頼はとりわけ難しい訳ではない。ハザードランク(任務の危険度)は、Bと言ったところか。しかし、相手はギャング。二人だけで仕事をこなすには無理がある。せめて、ハッキングスキルのあるダイバーが一人と、逃走経路を用意するドライバーも必要だ。オークション会場に潜入するソロは自分たちで足りている。
だが、R.Eの給料で集められる人材には限りがある。
やるしかないか……。
「お前とならやれる……こんなデカいチャンスは二度と来ないかもしれないんだ」
「頼めるのはお前しかいないんだ。俺ともう一度、仕事をしようぜ」
「……わかった。やろう」
「グラッチェ・アミーコ! お前ならそう言ってくれると思ったぜ!」
「他でも無いお前の頼みだ。簡単に断れる訳ないだろ」
「そう言ってくれてうれし――」
ダイナーの扉が勢いよく開かれた。客の数は三人。ギャングか。いや、違うな。パンク風なファッションを着飾った、チンピラだ。
酒を飲みに来たと言う風には見えない。
「……面倒くさい奴がお見えになったぞ」
「仕事だぜ、レックス」
「おやおやおや……誰かと思えばR.Eじゃねぇか。ここでお前と出会えるなんてツイてるぜ」
「なんのようだ三下共」
「例の件に決着をつけようと思ってな」
「この街から出ていけ。ここは、お前のホームじゃない。俺たち、キル・スクアッドの縄張りだ。同じコンジット同士、喧嘩はしたくないだろ」
「代わりに第五地区にでも拠点を移したらどうだ。あそこならお前みたいな、ソロにとってはうってつけな場所だろ。これは、取引だ」
「どうする? 乗るも断るもお前次第だぞ」
「言葉をつつしんだらどうだ?」
「誰だテメェ……俺たちの会話を遮るんじゃねぇ。このハエ野郎。あまりイキがるなよ。この街では俺たちに喧嘩を売らない方が身のためだぞ」
「弱小チーム如きが吠えるなよ」
「なんだと? お前、今なんつった」
「弱小チームが強がるなって言ってんだ。お前たちに忠告しておいてやる。俺がいる限りここでは悪さをさせない。お前たちのボスにもそう言っておけ」
「舐めやがって……」
男はふところに隠していた拳銃を取り出す。狙いはレックス。
「上等だ。今ここで、お前をぶっ殺して冥土の土産にボスに献上してやる」
「ちょっと待ちな」
「お前らも少しは足りない脳みそで考えたらどうだ。ここは、俺たちの街だ。他人が首を突っ込んでくるんじゃねぇ。調子に乗るのもそこまでだ」
「なんとも覇気のない脅しだな」
「やるか? 今ここで――」
重い金属的な衝撃音が二度、深夜のダイナーに響いた。それが銃声だと言うことにすぐには気がつけなかった。音のした方には老紳士がひとり、天井に銃を構えていた。弾はない。おそらくブランクガンだろう。威嚇のためか、老体のせいか、不安定に腕が震えている。
「残念ながら、今ここで死ぬべきなのはキミたちの方だ」
目の前には、老紳士が構えた拳銃があった。チンピラたちに向けられた銃は偽物ではあるが、その銃口には、言いわけもお世辞も通じない。至近距離であるせいか、銃で狙うというよりも、動いた瞬間に殺してやると、脅しつけるような様子でもあった。銃を手に持ったのは老紳士だけではない。ラウンジに座る客たちが一斉に武器を構えている。
「ここは、不殺の聖域だ。聖域を汚すなゲス共」
「勝負は終わったみたいだね」
「私は今日、すこぶる機嫌が良いんだ。命だけは取らずにおいてやるよ」
「さっさと消えな。ここはアンタらみたいな三下に出す酒はないよ」
「舐めんなよクソども……背中にはせいぜい気をつけるんだな。お前のことだクソガキ。覚えてやがれ!」
やみくもに逃げまどう。追い詰められたネズミのように、入り口から飛び出す。三人とも武器を持っていたが、この人数を相手にするほどの度胸はなかったらしい。
「どうやら、腕は落ちていないようですね。レックス殿」
老紳士がレックスに語りかける。唇の周りには、丁寧に生えそろった長い髭とそれにつながる乾いた皮膚を動かしながら。
「さっきの奴はなんだ?」
「気にする必要などありませんよ。この街では人はすぐに消えていく。力が無ければあらがうこともできない。他者の力にすがり、己の強さを過信した愚か者は特に……」
「これを……渡しておきましょう」
「アンタの番号か。名前が書かれてないぞ」
「この街で生き抜くためには、名前は必要ありません。腕の良いコンジットには、腕の良いレーダーが必要でしょう。仕事で困った時はいつでも連絡してください」
「それでは」
握手の手を差し出す暇も与えず、さっさと店から出ようと、規則正しい足取りで歩き出した。後ろも振り返らなかった。
「助かったぜ、レックス」
「いや……俺はなにも……」
「辛気臭い顔はおよし、せっかくの酒が不味くなるだろ」
「それじゃあ乾杯と行こうか」
ラム酒を握り、冷えた感触がじっとりと手のひらの体温に移っていく。
「アッラ・サルーテ!」
軽いガラスがぶつかり合う音が店に反響する。甘美な、生への実感のような音の波が、ダイナーの中を走り抜けるのだった。




