鉄の亡霊(The Iron Revenant)
宇宙の黒が、窓の外で冷たく静止していた。
その中に浮かぶ《アステリオン》は、巨大な金属の棺のようだった。
会議ホールの壁面には沈黙域の観測データが映し出され、灰金色の渦がゆっくりと蠢いている。
無音。通信も波形も途絶えた“空白の領域”。
それはまるで、地球そのものが息を止めているようだった。
重々しい声が静寂を切り裂く。
「——観測では止められない。」
軍務評議長の低い声。
彼の指が、沈黙域の中心を示す赤いラインをなぞる。
「ならば、力で沈黙を破るしかない。」
その言葉に、ティア=レインの眉がぴくりと動いた。
彼女は《アウロラ》の観測主任として、この現象の“性質”を誰より理解している。
沈黙域は単なる異常空間ではない。
**“観測そのものを拒絶する知性”**だ。
武力を向ければ、それは確実に——応答する。
ティアは立ち上がり、卓上に両手を置いた。
瞳の奥に、怒りと恐怖と、それ以上の焦燥が宿っていた。
「沈黙域は“敵”ではありません。
あれは……観測に対する“拒絶反応”です。
力で破れば、世界そのものが歪みます!」
会議室の照明がわずかに揺らめく。
だが返ってくるのは、冷たい沈黙だけだった。
モニタに映る将校たちの目には、もはや科学ではなく“防衛”の色が宿っている。
「理屈は結構だ、観測官レイン。だが都市が次々に消えている現実をどうする?
我々は黙って見ているだけでは国を守れん。」
別の声が挟むように響いた。
低く、鉄を擦るような音。
「——そのために、俺を呼んだんだろう?」
ティアの視線が動く。
会議室の扉が開き、長い影が床を横切った。
入ってきたのは、軍服でも科学者でもない。
鈍色の装甲義肢を持つ男——その姿は、まるで古い戦場の亡霊。
艦内AIが名を告げる。
《識別コード確認:ラグナル=ヴォルク。旧連邦階級:大佐。戦死記録、抹消済。》
ティアは言葉を失う。
彼は、確かに“死んだ”はずの男だった。
沈黙域発生の十年前、最後の光律戦争で英雄と呼ばれ、そのまま消息を絶った。
だが今、彼は目の前にいた。
血肉の代わりに、機械の光を宿して。
ラグナルは無感情な笑みを浮かべ、背後のモニタを見上げる。
その瞳は、金属の光を反射してもなお、どこか人間的な温度を残していた。
「……観測不能領域。
面白い呼び名だ。だが結局、誰かが中に踏み込まなきゃならんのだろう?」
評議長が頷く。
「貴殿には、新型機《ヴァルトレアMk-II》の運用権を与える。
沈黙域を突破し、内部構造を解析せよ。——それが、君の任務だ。」
ティアの声が震えた。
「待ってください……それは自殺行為です!
沈黙域は“意識”を侵食します。彼を送り込むなんて——!」
ラグナルはゆっくりと彼女を見る。
その瞳に、哀しみでも怒りでもない、ただ乾いた光が宿っていた。
「自殺か。……いいじゃないか。
俺はとっくに死んでる。」
ティアは言葉を失い、ただその背中を見送った。
鉄と静寂が交じる空間の中で、彼の足音だけが響く。
ラグナル=ヴォルク。
かつて“光律の英雄”と呼ばれた男。
そして今は——沈黙を殺すための亡霊。
ティアは静かに呟く。
「……観測不能領域に、“亡霊”を送り込むつもりなのね。」
窓の外、沈黙域が灰金の光を帯びて膨張を続ける。
それはまるで、世界がもう一度“記録を閉じよう”としているかのようだった。
格納庫の空気は、凍った鉄の匂いで満ちていた。
数百メートルにおよぶ天井クレーンが、巨大な影を吊り下げている。
その影——機械式光装《ヴァルトレアMk-II》。
金属の外殻は鈍く光を反射し、装甲の継ぎ目を走る青白い光脈がゆっくりと脈打つ。
それは呼吸のようでもあり、心臓の鼓動のようでもあった。
しかし、その“心臓”は生体ではない。
——かつての英雄ラグナル=ヴォルクの神経記録。
彼の記憶、戦術反応、戦死直前の意識波——それらすべてを量子記録化し、機械の核に封じ込めたものだ。
ドック全体が低い共振音に包まれる。
起動シーケンスが始まった。
制御AIの声が、静かに空間に響き渡る。
《意識融合率:93.8%》
《戦闘アルゴリズム再構築完了》
《覚醒プロトコル、起動》
次の瞬間、格納庫の照明が一斉に明滅した。
《ヴァルトレアMk-II》の装甲内部で、何かが“目覚める”。
胸部の装甲がわずかに膨張し、光脈が心拍のように強く打つ。
低く、金属を震わせるような声が響いた。
「……俺はまだ、戦場にいるのか。」
その声は、機械の中から滲む人間の残響。
ラグナルの声だった。
だがどこか遠く、無機質な回路の底で反響しているように聞こえた。
ティアは観測デッキに立ち、震える指先でマイクを掴む。
目の前の存在は、もう“人”ではない。
けれど、彼の記録が確かにそこにいる。
「ラグナル……聞こえますか?
あなたの身体はもう人間のものではない。
これは——沈黙域突破のための装備です。
でも、もし内部で“意識の反転”が起これば——」
言葉を途中で遮るように、通信がノイズで揺れた。
そしてラグナルの声が、低く笑うように返ってきた。
「俺が死んだのは、もう昔の話だ。
今の俺は、“沈黙を殺すための記録”だ。」
その言葉に、ティアの心臓が一瞬止まる。
“記録”——それは、彼自身が理解しているのだ。
自分が人ではなく、光律の断片として“再現された存在”であることを。
格納庫の警告灯が赤く点滅し、ヴァルトレアの巨体がわずかに姿勢を変える。
外部の観測窓を通して、沈黙域の灰金の光が遠くに揺らめいていた。
それを見つめるように、機械の瞳がゆっくりと開く。
——その瞳に、かつて人間であった英雄の“戦場の記憶”が、確かに宿っていた。
ティアは小さく呟く。
「あなたはもう……“記録”じゃない。
まだ、戦っている。」
だがラグナルの声はもう応えなかった。
ただ、ヴァルトレアMk-IIの装甲の奥で、規則正しい心音のような電子鼓動が響き続けていた。
苔むしたコンクリートの匂いと、油の熱を帯びた空気が《ベルト=ノア》の格納庫を満たしている。
地表作戦拠点のランプ群が夜の野原を切り裂き、無数の無人機体が整然と並ぶ。
だが最も大きな影は、鋼鉄の巨躯──ヴァルトレアMk-IIだった。
その装甲は夜光を帯び、関節部の継ぎ目から蒼白い光脈が走っている。
合図音が冷たく鳴る。
格納庫の天井が開き、機体群が暗闇へと滑り出す。
地表の空気を裂いて上昇したヴァルトレアの両腕が、ゆっくりと形を変えた。
装甲が展開し、関節から光粒子が凝結して砲身を成す。
それは刀身にも、管にも見える――だが確かなのは、そこに熱ではない意志が宿っていることだけだ。
照準ロック。
ヴァルトレアの目に相当するセンサーが赤く脈打ち、両腕のカノンが同時に放たれる。
光粒子の塊が大気を切り、通常とは逆位相の波動を描いて沈黙域の境界に叩きつけられた。
最初の衝撃は轟音ではなかった。空間そのものが呻き、波紋が見えるように歪む。
そして――裂けた。
灰金の霧が弾け、黒い亀裂が地表から天へと開く。
裂目の縁から、崩れかけたビル群や曲がった街路の断片が粘土のように滲み出す。
それらは実体でも幻でもなく、光の粒子で織られた“記録の残骸”だった。
同時に、薄い黒い霧が漏れ出し、風もなく周囲を覆っていく。
霧は触れたものの輪郭を曖昧にし、電子機器の表示を瞬間的に白く焼き尽くした。
作戦管制からの通信が断続的に流れる。
《境界突破成功。内部構造可視化率:12%》
《観測不能領域:部分崩壊確認》
だが制御室では、ティアの声が震えていた。
観測室の窓越しに見下ろす沈黙の裂け目は、地図の点ではなく“生”のひび割れに見える。
「やめて……それ以上は——!
“沈黙”は、ただの壁じゃない……“意識の境界”よ!」
彼女の言葉は無線の雑音に飲まれそうになりながらも、ラグナルのコクピットへ届いた。
ラグナルは瞳を細め、外界のひび割れを見据える。
装甲越しの声は静かだが、その口調にはもう躊躇がなかった。
「沈黙が心なら、俺が拳で叩き割る。」
ヴァルトレアはさらに前進し、裂け目へと腕を深く差し入れる。
光の砲身が再び閃き、粒子の槍が内部へと突き刺さる。
裂け目の向こうで何かが叫ぶように反響し、断片の群れが渦を巻いて噴き出した。
観測不能だった領域の“内面”が、鋼と火をもって強引に引き剥がされていく。
だが裂けた傷口から見えるのは、ただの瓦礫ではない。
停止したままの人影、長い間凍結していた生活痕、取り残された記録端末──
それらは観測の目が差し向けられる瞬間にだけ再び「意味」を持つ、脆弱な像だった。
ティアはモニタを食い入るように見つめ、手を震わせる。
「私たちが“見る”たびに、彼らは動き出す……でもその動きが何をもたらすか、わからない!」
管制室のランプが一斉に警報を吐き、未知の干渉がデータ列を乱す。
ヴァルトレアの装甲が振動し、炉心の出力が跳ね上がる。
機械の声が低く警告を発する。
《警告:光律炉過負荷》《外郭亀裂拡大》
ラグナルは吐き捨てるように短く言った。
「じゃあ俺は、止められない。行くしかねぇ。」
彼が拳を、機械の腕をもう一度握る。
その拳が光輪となって振るわれるとき、沈黙域の裂け目はさらに深く、そして不可逆に広がっていった。
裂けた境界を越え、ヴァルトレアMk-IIの巨体が沈黙域の内層へと沈む。
闇は空間の形を奪い、時間の流れを曖昧にしていた。
だが、装甲に組み込まれた光律炉の残光が、やがて“世界の輪郭”を照らし出す。
そこに現れたのは、崩壊した旧王国の都市だった。
瓦礫の塔、ひび割れた石橋、ねじれた街路。
それらはまるで空間ごと押し潰されたまま、時間が止まったかのように沈黙している。
だが、ラグナルが一歩踏み出した瞬間——
街の影が“揺れた”。
無数の人影。
男も女も、子供も、兵士も、誰もがその場で静止している。
動かない。呼吸しない。
けれど確かに“生の温度”を残していた。
彼らの瞳は皆、鈍く金に濁り、観測波が触れるたびにわずかに震える。
ヴァルトレアの外装越しに、ラグナルは低く息を吐く。
「……これは、墓地じゃない。
記録された“生”そのものだ。」
ティアの声が通信越しに届く。
ノイズを挟みながらも、焦燥の響きを隠せない。
「あなたの存在が、彼らを“思い出させてる”の。
沈黙域は、記録を保存する装置——!
観測されるたび、彼らは“再生”を繰り返してるのよ!」
その言葉の最中、地鳴りが響いた。
街の中心部、割れた地表から金黒の光が噴き出す。
やがてその光が柱となり、空へ伸びていく。
柱の中から、黒い影が歩み出る。
ノクス。
その姿は以前よりも人間に近く、しかしどこか透明だった。
漆黒の衣の断層に、金の裂け目が走る。
まるでこの都市そのものが、彼の肉体に織り込まれているようだった。
ノクス(穏やかに):
「鉄の亡霊。君もまた、記録された戦士だ。
観測者の意志を超えて、なお戦おうとするのか?」
ラグナルはわずかに顔を上げる。
装甲内部で、古い記憶がちらつく。
銃火に塗れた戦場、仲間の名も忘れた叫び、そして死の直前に見た白い光。
——すべては“記録”の一部。だが、彼にとってそれは生そのものだった。
「俺は観測なんて信じない。」
低く、金属を噛むような声が響く。
「俺が見るのは、敵だけだ。」
その瞬間、ヴァルトレアの眼が紅く光る。
足下の地面が爆ぜ、静止していた人影たちが微かに揺れた。
都市の記録が再び“動き始める”。
ノクスは微笑む。
「ならば、君はまた“記録の戦場”に戻るのだな。」
沈黙域の空が、黒と金の光で裂ける。
二つの“記録された存在”が、ついに対峙する。
沈黙域の中心、崩壊した都市の上空。
瓦礫が宙を舞い、時間の層がめくれ上がるように空間が歪む。
そこに——鉄と闇の巨影が、互いを照準に捉えていた。
ヴァルトレアMk-II。
その装甲からあふれる光律波は、まるで太陽の鼓動。
対するノクスは、黒の律動を纏い、周囲の光を食らうかのように揺らめく。
両者の波が交差した瞬間——
世界が、音を失った。
次いで、衝撃波が奔る。
重力が反転し、都市の残骸が空へと舞い上がる。
建造物の断片、凍結した人々の影、砕けた記録の断層——すべてが、光と闇の奔流に巻き込まれた。
ティアの声が、遠隔通信を突き抜けて響く。
「両者の観測波が干渉してる——!
このままじゃ沈黙域が崩壊する!
“世界そのもの”が観測不能になるのよ!」
だが、戦場の中ではその声すら届かない。
ノクスの輪郭が闇の奔流に溶け、金の断線が空気を切り裂く。
その声は、まるで祈りのように静かだった。
「人は記録を恐れる。
記録は終わりを許さぬからだ。
だが、忘却の中に安らぎなどない。」
ヴァルトレアの光装が唸りを上げる。
ラグナルの咆哮が、機体のスピーカーを震わせ、沈黙域の空に轟いた。
「安らぎなんて求めちゃいない!
俺はただ——この沈黙を終わらせるだけだッ!!」
瞬間、ヴァルトレアの腕部装甲が開き、
光律炉の臨界が解放される。
黄金の爆光が都市全体を貫き、時間の層が“紙”のように裂けた。
ノクスの身体が一瞬、霧散する。
光の奔流が空を焼き、観測データが飽和する。
——だが。
その残光の中で、再び“影”が形を取る。
黒い煙が渦を巻き、ノクスの輪郭がゆっくりと再構成されていく。
「終わりを望むなら、君が光そのものを捨てることだ。」
ラグナルの呼吸が荒くなる。
ヴァルトレアの出力が落ち、内部の意識フレームが軋む。
しかし、彼の瞳だけはまだ赤く燃えていた。
「なら、俺の光で——お前を終わらせる!」
鉄と闇。
光律と反律。
二つの“記録された存在”が交錯し、沈黙域の空がついに——裂けた。
遠く、観測デッキのティアが見上げる。
その瞳に映るのは、黄金と黒が交わり、世界の構造そのものを揺るがす“観測の閃光”。
——沈黙が、叫びを上げている。
沈黙域・中枢座標。
崩壊しかけた空間の中で、《ヴァルトレアMk-II》が膝をついていた。
装甲の継ぎ目からは蒸気と光子の火花が漏れ、機体全体が微かに震えている。
周囲では都市の残骸が崩れ、金と黒の粒子が滝のように流れ落ちていた。
AI警告音が無数に鳴り響く。
《警告:光律炉心温度、臨界値突破》
《外装保持率:12%》
《意識フレームとの同期、断続的》
——限界はすぐそこだった。
ティアの声が、割れた通信越しに届く。
ノイズ混じりの音が、まるで泣き声のように響く。
「撤退して! お願い、今すぐ脱出を——!
あなたまで失えば、もう……!」
ヴァルトレアの内部、コックピットに座るラグナルは静かに目を閉じた。
彼の意識はすでに、肉体の枠を超え、鉄と記録の狭間にあった。
「……俺はもう、“失われた”さ。」
その声は穏やかで、どこか遠い。
かつての戦場で仲間を見送った時と、同じ響きをしていた。
「だが、記録の中でもう一度戦えるなら——
それでいい。」
ヴァルトレアの視界が黄金に満ちていく。
沈黙域の内部に、無数の“記録された残響”が揺らめいていた。
停止した人々、壊れた都市、光の断片。
それらすべてが、彼の炉心の輝きに照らされる。
AI音声が最終ログを読み上げる。
《ヴァルトレアMk-II:自己崩壊シーケンス起動》
《沈黙域内層構造:一時解放》
——沈黙が、裂けた。
光が奔り、空間が逆流する。
黒い雲が渦を巻き、崩れた街の中心から黄金の光冠が姿を現す。
それはまるで、世界そのものが再び“観測”を取り戻すかのようだった。
ティアは観測デッキで、息を呑む。
崩壊する光の中に——確かに、見えた。
瓦礫の塔の頂で、
黄金の環を戴き、ゆっくりと目を開く女性の姿を。
エルミナ。
彼女の瞳が一瞬、こちらを見た。
その視線の奥に、ラグナルの最後の祈りが宿っていた。
——“沈黙よ、どうか記録を赦せ。”
閃光。
世界は白く塗り潰され、音が消える。
残されたのは、最後の通信ログだけだった。
《観測記録:沈黙域中心構造——再構成開始》
《ヴァルトレアMk-II:存在情報——光律へ転写》
そして静寂の中、誰かの声が微かに響く。
「鉄の亡霊よ。あなたの祈りは、記録された。」




