観測者たち― “沈黙を測る者たち” ―
軌道上観測ステーション《アウロラ》。
地球の影をかすめる高度、無音の宙に浮かぶ銀白の要塞。
第零観測室では、静寂を裂くように無数のホログラムが点滅していた。
ティア=レインは、眼前に漂う複層データの束を見つめていた。
白い指先が光の粒をすべらせ、断片的な映像をつなぎ合わせる。
そこに浮かび上がったのは——“欠けた光”だった。
輪郭のない空間。
可視光も、電磁波も、重力線も反応を示さない。
ただ、観測データの中央に**「沈黙」**という深い円がぽっかりと穿たれている。
まるで、世界がそこだけ存在を放棄したかのように。
通信が開く。
上官の声が、ざらつく電波の向こうから届いた。
「——観測不能領域、コードネーム:Silent Zone。
その中心で、旧王国文明の座標データが反応を示している。」
ティアはわずかに息を呑んだ。
“旧王国文明”——百年以上前に崩壊し、記録上から消滅したとされる幻の都市圏。
それが、沈黙の中心で反応を返している。
その報を受け、調査任務の同行者として呼ばれたのは、一人の青年だった。
学府出身の理論研究士、リオル=ヴァイン。
まだ白衣の匂いが抜けきらない新任の科学者である。
ドアが開き、軽い足音。
ホログラムの淡い光に照らされ、彼は軽口を投げた。
「“沈黙を観測する”なんて、詩人の仕事みたいだね。」
ティアは視線を外さず、短く応じる。
「観測できないものを測る——それが、観測者の仕事よ。」
ふたりの間に沈黙が流れる。
だがその沈黙は、観測不能領域の闇に似て、どこか深く冷たかった。
モニタ群がざわめくように波形を乱した。
灰金色のノイズが広がり、空間データが歪む。
一瞬、そこに“何か”が映った——。
それは、
風のように儚い残響。
人の形をして、しかし定義できない光のゆらめき。
ティアはわずかに前のめりになり、囁くように言った。
「……誰かが、そこにいる。」
音もなく、ホログラムが瞬いた。
灰金の乱流の奥、記録の深淵で、確かに**“誰か”**がこちらを見返していた。
調査艇は、灰金の海をゆっくりと進んでいた。
外部モニタはすでに映像出力を失い、視界はただ、ゆらめく靄の中に沈む。
航行灯の光さえ霧に呑まれ、“方向”という概念が次第に意味を失っていく。
リオルは前方スクリーンを見つめ、唇をかすかに噛んだ。
「……これが、“沈黙域”か。」
ティアは無言で頷くと、指先をホログラムパネルに滑らせた。
淡い蒼光が彼女の横顔を照らし、観測機構の階層構造が立体的に展開される。
「光律観測網、全層展開——」
低音が船体を震わせ、光子アンカーが次々と射出される。
無数の光点が球状に展開し、沈黙域を包囲するように軌道を描く。
それは、まるで光そのものが触覚を持ち、**虚空を“なぞる”**かのようだった。
ティアの視線が、走査線のデータを追う。
だが、次の瞬間——センサーの波形が途切れた。
ログウィンドウが一斉に赤く染まり、冷たい電子音が観測室を満たす。
《信号逸失:光律応答ゼロ》
《観測対象:未定義構造体/名称推奨:沈黙域(Silent Zone)》
リオルが息を呑み、椅子を引き寄せる。
「……空間が、光を飲み込んでる。」
ティアは、ほんのわずかに首を振った。
その声は、静寂の中に沈みながらも確かに響いた。
「違うわ。光が、“見られること”を拒んでいるの。」
リオルは振り向く。
彼女の瞳の奥には、ただならぬ緊張と——微かな畏怖があった。
船外の光子アンカーが、ひとつ、またひとつと消えていく。
まるで“誰か”が、観測の手をひとつずつ摘み取っているかのように。
その時、沈黙域の中心——視えないはずの場所に、微かな残響が走った。
空間そのものが脈打つように、灰金の霧が震える。
ティアはその波形を見つめ、かすかに囁いた。
「……そこに、“何か”が応えている。」
沈黙域が、観測を拒みながら——観測者たちを見返していた。
観測艇の内部は、呼吸音さえ吸い込むような静寂に包まれていた。
光律観測網の波形が、何度目かの干渉試行を繰り返す。
ディスプレイの上では、灰金のノイズが渦を巻き、乱流のように形を変えていく。
ティアの指がパネルの上を滑り、解析層をひとつずつ解凍していった。
そのとき——
波形の中心に、金色の輪が浮かび上がった。
それはまるで、沈黙の海のただ中に沈む光の残響。
不完全な輪郭ながらも、確かに「律動」している。
ティアは息を詰めた。
「中心に……律動するパターンがある。
まるで、心臓の鼓動みたい。」
リオルが隣で、すぐさま解析モジュールを走らせる。
データが層を重ね、周期が数値化されていく。
《データ波形一致率:92.3%》
《比較対象:人間脳波・αリズム》
リオルの指が止まり、言葉が喉の奥で固まった。
画面に映るのは、都市の構造信号ではなく、生体的な波動。
「これ……都市の信号じゃない。
“誰か”の意識だ。」
ティアはゆっくりと顔を上げ、その瞳の奥に微かな光を宿した。
「沈黙域の中に、まだ観測されていない“存在”がいる。」
その瞬間、映像が一度途切れた。
黒いノイズが一瞬走り、スクリーンが白く閃光を放つ。
次のフレーム——
そこに、女性の姿影が映っていた。
黄金の光に包まれ、王冠を戴くような輪郭だけが鮮明に浮かぶ。
顔は霞のように揺らぎ、しかし瞳の位置だけがはっきりと「こちら」を見つめていた。
AIアラートが警告音を鳴らす。
《観測対象:光律体エネルギー反応/識別不明》
《観測干渉レベル上昇中》
ティアの声は、囁きのように静かだった。
「——彼女が、“見返してくる”。」
リオルが振り返る。
その瞬間、ティアの瞳に微かに金の光が宿り、
モニタ越しに映る“彼女”の視線と、完全に重なった。
観測は成立した。
だがそれは同時に、観測されることの始まりでもあった。
調査艇は、沈黙域の外縁をゆっくりと離脱していた。
艦体を包む灰金の靄が少しずつ薄れ、恒星の光が再びセンサーに戻る。
だがその安堵の空気の中、船内には張り詰めた静寂が続いていた。
ティアは観測ログを再生していた。
ホログラムに投影された波形は、不規則な揺らぎを伴いながらも、
どこか——**「呼吸」**のように見えた。
その波形の中心に、微かに残る“視線の痕”。
まるで誰かが記録装置の内側から、こちらを見返しているかのようだった。
ティアは目を離さずに言う。
「この領域は、ただの現象じゃない。
“誰か”が観測を拒んでいる。
そして同時に——“観測されること”を望んでいる。」
リオルは隣で眉をひそめ、ログを覗き込む。
彼の声はわずかに震えていた。
「……それは、意思があるってことですか?」
ティアは短く頷いた。
冷たい光の中、その表情はどこか遠くを見つめているようだった。
「ええ。
沈黙の中に、観測者がいるのよ。」
その言葉が落ちた瞬間、モニタが一瞬だけ点滅する。
ティアの瞳に、沈黙域で見た黄金の輪が淡く反射した。
まるであの存在が、いまだこちらを“見続けている”かのように。
彼女は無意識のうちに視線を上げ、黒い宇宙を見つめた。
そこには何もない——はずなのに、確かに“誰か”の気配があった。
リオルが息を呑む。
ティアはただ小さく呟いた。
「観測は……もう、始まっている。」
その瞬間、船体を包む通信波が微かに揺らぎ、
沈黙域の座標が再び短く点滅した。
——それは呼応のようでもあり、警告のようでもあった。




