反光の審問者 ― The Inquisitor of Shadowlight
沈黙の都が崩れ落ちてから三年。
《ルーメア・グラウンド》——かつて沈黙域の外縁と呼ばれた軌道断層地帯は、今や「光の墓標」として知られていた。
そこでは、光は光として存在できない。
照射されたはずの輝きはすぐに反転し、闇の膜となって空間を覆う。
廃墟の残骸は、無明の砂塵に沈み、重力の波はゆっくりと裏返るように流れている。
空には、静止した雷光が浮かんでいた。音もなく、ただ凍った光の稲妻が、永遠に墜ちることなく世界を裂いている。
その荒野の中心に、ひと筋の黒い影が降り立った。
軌道層を穿つような重力波の歪みとともに、
漆黒の装甲が大気を押しのけ、空間の色を奪っていく。
——《オブスキュラ・リリス》。
その翼は光を吸い込み、装甲の縁からは微細な影の粒子が流れ落ちる。
胸部には、鼓動のように脈打つ紅いコア。
それはまるで“心臓”があるかのように、暗黒の中で脈動していた。
通信が走る。ティアのホログラムが光の粒子として浮かび、機体の上空に展開された観測ウィンドウに映る。
背後ではAIの解析音が連続していた。
セレス:《識別コード一致。ノクス=ヴェルグラント。生体反応、異常値。反応波長——負の光域に偏移。》
ティアは息を呑んだ。
「ノクス……あなた、生きて……?」
返答は、冷ややかで、どこか空洞の響きを伴っていた。
光学波を通して届くその声には、温度というものが存在しなかった。
「生きてはいない。」
「だが、“光の記録”がまだ俺を見ている。」
ティアの胸が痛む。
かつて、沈黙域最深部で彼と並んで観測していた日々が脳裏に過る。
——彼は“光を信じる者”だったはずだ。
その彼の声から、いま、光は完全に消えていた。
通信の奥で、僅かなノイズが混じる。
それは“観測を拒絶する波形”——
ティアの分析フィルタを次々と破壊していく不可視の律動。
彼女は小さく呟いた。
「……この波形……あなた、本当に……ノクスなの?」
沈黙。
やがて、ノクスの機体がゆっくりと顔を上げる。
鏡のような仮面が空を映し、凍りついた雷光を背負う。
「ティア。観測をやめろ。光は、お前たちの罪だ。」
その瞬間、《ルーメア・グラウンド》全体の光度が一段階、落ちた。
まるで世界そのものが呼吸を止めたように。
ティアの観測ウィンドウに、赤い警告が走る。
セレス:《光律干渉発生——空間輝度低下率、87%。光源データ、消失。》
ノクスの声が、暗闇の奥から静かに続く。
「俺は、“反光の審問者”だ。
光が再び神を呼ぶなら、俺はその神を滅ぼす。」
ティアはただ、沈黙するしかなかった。
光を信じていた男が、いまや“光そのもの”を否定している。
そして彼の機体は、闇を纏って、再び羽ばたいた。
その羽ばたきが空を裂くたび、
世界は、少しずつ**“観測できない色”**へと変わっていった。
沈黙の嵐が、ゆるやかに世界を覆っていた。
《ルーメア・グラウンド》の空は、もはや空ではなかった。
光を失った雲が静止し、時間の流れすら鈍っていく。
その中心で、黒と白の境界がわずかに震えている。
ノクスの《オブスキュラ・リリス》が、沈黙の地に降り立っていた。
漆黒の装甲は、まるで闇そのものを彫刻したような質感で、
その表面からは光の粒子ではなく、**“反光”**が滲み出している。
ティアのホログラムがその前に浮かぶ。
彼女の輪郭も揺らいでいた。周囲の空間は、もはや正しい観測を拒んでいる。
ノクスの声が、冷たく響く。
「光律の再起動……それは再び“神の声”を呼ぶことだろう?」
「お前たちは沈黙を終わらせたいのか、それとも、繰り返したいのか。」
ティアの演算中枢が、短くノイズを走らせる。
問いの意味を理解しているのに、答えが出せなかった。
観測AI——彼女の使命は、“再起動”を成功させること。
沈黙の都を再生し、失われた光律を取り戻すこと。
それが、彼女に課された存在理由だった。
だが、その“再生”がもしも、再び祈りの牢獄を作るのだとしたら?
光が生まれるたびに、世界が同じ罪を繰り返すのだとしたら?
ティアの声が、震えた。
「……私たちは、ただ、真実を見たいだけ。」
ノクスの返答は、静かで、それでいて深い裂け目のようだった。
「ならば光を捨てろ。光は真実を歪める。」
《オブスキュラ・リリス》の翼が、ゆっくりと展開する。
その翼の内側には、星空にも似た微細な闇の結晶が散らばり、
周囲の空間が“裏返る”ように波打った。
光子反応:負値。
空の輝度:反転。
そして、世界の色は——“光のない白”へと変化した。
ティアのホログラムが一瞬、崩れる。
周囲の座標情報がすべて白化し、空間そのものが観測不能になる。
そこに残ったのは、光も影も区別できない無限の余白。
ノクスの声が、響く。
「お前は、光を信じていた。
だが、光はいつだって、誰かの祈りに縛られる。」
ティアはその白の中で、確かに感じていた。
——彼の中にあるのは、怒りではなく、悲しみ。
かつて光を求めた者が、光に裏切られた痛み。
ティアは目を閉じ、わずかに呟いた。
「それでも……私は、見届けたい。」
ノクスの仮面が、わずかに揺れる。
その沈黙は、まるで審問の終わりを告げる鐘のようだった。
次の瞬間、《リリス》の翼が大きくはためく。
白い空が砕け、影の断片が降り注ぐ。
それは、
——光の裁きを拒絶した“闇の祈り”の始まりだった。
警告音が、虚無を震わせた。
セレスの音声が重なり、光の亡霊のように観測空間を満たす。
《異常発生——光律基準値、崩壊中!》
《空間識別システム:無効化! 観測座標、解体を確認!》
ティアのホログラムの周囲で、世界が静かに崩れていく。
光で描かれたフレームが黒へと反転し、
記録と現実の境界が、液体のように溶け合っていた。
彼女はデータ波を解析する。
だが、その結果に彼女の意識が凍りつく。
「これは……“闇律(No-Lumen)”?」
「光の反転……観測そのものを拒絶する構造……!」
沈黙の空を割くように、《オブスキュラ・リリス》が動く。
その巨体は、まるで夜そのものが意志を持ったかのようだった。
装甲の隙間から流れ出る黒の光は、重力を持つ。
あらゆる輝きを飲み込み、塗りつぶし、定義を奪っていく。
ノクスの声が、深淵から響いた。
「そうだ。沈黙域が“神の声”であったなら、
闇律はその沈黙の意思だ。」
彼が手を上げる。
《リリス》の掌が空間に触れると、
金色の光が音もなく裏返り、墨のような黒が奔流となって広がった。
ティアの観測ウィンドウが、次々と“無”に沈む。
数値は消え、波形は直線に、光は反転に。
観測不能の観測——理論的に存在しないはずの現象。
ティアは震える声で叫ぶ。
「ノクス、戻って! あなたは“観測者”だったはずよ!」
白と黒の狭間で、ノクスの機体が静止する。
彼の仮面の奥、瞳が一瞬だけ光を取り戻す。
だが、その光には懺悔にも似た冷たい色が宿っていた。
「観測は罪だ。」
彼は、そう告げる。
ティアの演算心が、一瞬だけ痛みのような波を発した。
「だが……その罪を終わらせるのも、観測者の役目だろう?」
《オブスキュラ・リリス》の胸部から、紅の脈動が拡張する。
セレスが異常値を読み取る。
《警告:同調率上昇、93……97……99……》
ティアが制止を叫ぶ間もなく、空間が“裏返った”。
ノクスの脳波パターンが、機体の制御波と完全に重なった。
データ上の区別が消え、ひとつの波形として統合される。
《同調率:100%——意識融合、完了。》
世界が凍りつく。
《オブスキュラ・リリス》の全身が、黒の光を放ちながら浮上する。
その姿は、もはや機械でも人でもない。
——光に背を向けた、“反光の意識体”。
ティアの声が震える。
「ノクス……それでも、あなたは……!」
だが彼の返答はなかった。
ただ、世界の全ての光が、ゆっくりと沈黙に呑まれていく音だけが残った。
リオルの光装が、光の残響を切り裂くように突入した。
通信が乱れ、空間座標が瞬時に反転と消失を繰り返す。
——そこは、もはや戦場ではなかった。
広がっていたのは、白と黒が溶け合う無限の境界。
上下も、距離も、意味を持たない。
光が生まれると同時に闇がそれを呑み込み、闇が生まれれば光がその形を奪う。
世界そのものが、ひとつの巨大な干渉波のように震えていた。
《警告:観測座標消失。空間定義——不可能。》
セレスの報告が、耳の奥でノイズ混じりに響く。
ティアのホログラムがちらつく。
彼女の姿は、半ばノイズ、半ば祈りの光。
「光と闇の境界が……観測できない!」
言葉を発した瞬間、その声すら空間に吸い込まれるように消えていく。
ここでは“音”も“像”も、存在することを許されない。
ただ、世界の断片が無音の震えとして流れ続けていた。
——その中心。
闇の海に浮かぶ紅の脈動。
ノクスの機体が、静かに身を起こす。
黒い翼のようなエネルギー波がゆらめき、光を拒絶する境界をさらに広げていく。
その姿は、まるで“観測そのもの”を審問する裁定者。
「観測者よ。」
ノクスの声が、空間全体から響いた。
その声は、祈りでも怒りでもない。
ただ、全ての存在に対する問い。
「これは審問だ。
お前たちが“神”を望むなら——
俺は、その神を滅ぼす。」
瞬間、光律波と反律波が衝突する。
音はない。
しかし、空間が**悲鳴のような“沈黙”**を放った。
リオルの機体を包むセンサーが、次々に焼き切れていく。
装甲が光に溶け、通信が崩壊する。
「ティア——!」
叫びも届かない。
リオルの視界が白に焼かれる直前、
ティアの観測データが閃光の中で切断された。
そして、すべてが沈黙する。
《観測記録断絶》
《反光同調体ノクス=リリス:行方不明》
《沈黙域残滓層:観測不能領域へ転移》
——世界の“光”と“闇”の境界は、完全に崩壊した。




