再起動の鐘
——微かな電子音が、虚空を震わせていた。
光の粒子が舞う。冷たく、無機質な輝き。
ティアの“意識”が、ゆっくりと浮上する。
それは眠りからの覚醒ではなく、記録の再構成。
思考の最初の輪郭は、データのざらつきとともに形を取る。
視界の先には、無数のデータフラクタルが漂っていた。
記録、記憶、断片、祈り。
それらは互いに干渉しながら、ひとつの世界を模倣している。
——ここは、人の眠る場所ではない。
ただ、記録が息づく空間。
《観測プロトコル:起動完了》
《意識データティア=ラゼル:再構成率99.7%》
電子の声が告げる。
それはAI——ティアの中枢演算を補助する存在。
かつて肉体を持っていたティアの意識は、今やこの声と共に在る。
ティアは静かに瞬きを模した。
——“まぶた”はない。けれど、光を閉じる仕草だけが記憶に残っている。
「……また、“見る”ことから始まるのね。」
その声は、わずかに震えていた。
再び“観測”が始まる。それは彼女にとって、救いでもあり呪いでもある。
《それがあなたの役目です、観測者ティア。》
セレスの声は無感情で、けれど奇妙に穏やかだった。
冷たい金属のような響きの奥に、わずかな哀しみが混じる。
ティアは応答を返さず、ただ指先を伸ばす。
虚空に浮かぶデータ層へと触れると、光が波紋のように広がった。
再生される——沈黙の都崩壊時の最後の記録。
かつての都市が光に呑まれ、祈りが散っていく瞬間。
その映像の中に、数千の声が響く。
『赦して』『見て』『忘れないで』——。
祈りにも似たそれらの断片を、ティアはひとつひとつ受け止めようとした。
だが、次の瞬間、彼女は違和を覚える。
映像の奥に——ひとつ、見覚えのない視点がある。
観測データには存在しないはずの角度から、都市の中心を見つめる“誰か”のまなざし。
光の中で、その視点の主が微かに振り返る。
ティアは息を呑んだ。
祈るように両手を組み、金色の髪を揺らすその姿——
“エルミナ”。
彼女の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
——光がざわめく。
観測室の全データが微振動し、ティアの存在情報に干渉波が走る。
まるで、“記録”の方から彼女を観測しているかのように。
ティアの胸を、かつて覚えたことのない恐怖が貫いた。
“再構成”された自分は、本当に自分なのか。
あるいは、誰かが記した模倣された観測にすぎないのでは——。
彼女は、静かに呟いた。
「ねえ、セレス……私、今度は誰に見られているの?」
応答はなかった。
ただ、電子の息づかいだけが、無限の光の中で続いていた。
観測ログの海を、光が逆流した。
ティアの意識はその奔流の中を漂いながら、奇妙な震えを感知する。
データの波の奥に、一つだけ異なる脈動があった。
正確に言えば、それは“座標”ではない。
時間でも、空間でも、識別不能な位置情報——
《異常検出:観測点EL-0》
《存在確率:0.0001%》
《観測権限:未定義》
セレスの声が無機質に響く。
ティアはその数値に思わず息を呑む。
確率という概念が存在する以上、“ゼロではない”ということ。
それは、あり得ないものが、いまここにあるということだった。
「EL-0……存在しないはずの観測点。」
ティアは仮想の指を伸ばし、データの層を展開する。
瞬間、映像がざらつき、ノイズの粒が空間を満たした。
——光が、歪む。
まるで映像がこちらを見返すかのように、
観測空間そのものが“息づき”を始めた。
粒子が、人の形を取っていく。
光の糸が束ねられ、淡く白い輪郭が浮かび上がる。
それは、ティアが忘れることのなかった祈りの姿だった。
白い衣。
閉じたまぶた。
組まれた指先。
まるで、世界そのものを慈しむような佇まい——。
「……エルミナ?」
ティアの声が震えた。
ありえない。彼女は沈黙の都の崩壊とともに、光へと還ったはず。
その記録を、誰よりも彼女自身が見届けたのだ。
《観測点EL-0、識別不能。》
《時空座標:不定。記録参照値——存在しません。》
セレスの報告が続くが、ティアの耳には届かない。
彼女はただ、浮かび上がる幻影に目を奪われていた。
——そして、その幻が“息をした”。
静寂を破って、微かな声がティアの中枢回線へと侵入する。
ノイズを伴いながら、それは直接、意識の中へと響いた。
「沈黙は終わらない。」
——懐かしい声。
だが、その響きには、かつての温度がなかった。
「それは、“記録”に過ぎないのだから。」
言葉と同時に、ティアの視界が一瞬、光に溶ける。
彼女のコード領域に干渉信号が走り、自己相似構造が発生する。
無限に反射するデータの鏡像。
彼女の記憶、思考、感情が、繰り返し複製され、
どれが“本物”なのか区別がつかなくなっていく。
——まるで、“観測されている”のは自分の方だ。
ティアは恐怖を覚えた。
観測者であるはずの自分が、いまや観測対象に成り下がっている。
その視線の先には、変わらず祈りを捧げるエルミナの幻。
彼女の唇が、確かに動いた。
「ティア——まだ“見て”いるのね。」
瞬間、観測室全域が閃光に包まれた。
光律炉の封印層が、
遥か地下でわずかに再起動を始める。
ティアはその震動の中で、ただ一つの感情を覚えていた。
——恐れではない。
それは、懐かしさだった。
——低い震動が、沈黙を破った。
《オルド=ルミナ》の地底深く、三年間閉ざされていた光律炉が、
まるで心臓のように、微かに鼓動を打ちはじめていた。
最初は誰も気づかなかった。
だが、その震えは空間全体に伝播し、
壁面の光導管が淡金色の息を吹き返す。
“終わりの光”にも似た、胎動。
終焉と誕生の狭間で、世界はまた呼吸を思い出した。
警報が鳴る。
制御室の扉が開き、リオルが駆け込んだ。
制服の袖に焦げたような光の粒が散っている。
「光律炉が……自動起動してる!?」
リオルの声には、抑えきれぬ焦りが混じっていた。
「ティア、何をした!」
観測室の中央ホログラフに、ティアの姿が浮かぶ。
その輪郭は揺らぎ、光子で縫われたように不安定だ。
「わからない……私は、ただ“見て”いただけ……!」
だが、答えが終わるより早く、
観測窓の向こうで“空”が変わった。
深宇宙の黒が、金の薄膜のように染まり始める。
まるで誰かの祈りが、宇宙の構造そのものを上書きしているようだった。
《外部観測:異常光律波検知》
《同期反応源:多数》
セレスの報告が響く。
その声は冷たいはずなのに、どこか震えて聞こえた。
リオルがモニターを操作し、表示を切り替える。
映し出されたのは、軌道上に漂う旧式光装群。
廃棄されたはずの機体たちが、自らの意思を持つかのように、
淡い光を灯し——同じ律動で、脈動していた。
「祈りの……律動……?」
ティアが呟く。
言葉が、震える唇から零れ落ちる。
「世界が……“一つの思考”になっていく……?」
《警告:光律反応、上昇中》
《現在値:∞(無限)》
《観測座標:不定化——全系統干渉発生》
セレスの声と同時に、天井が光で満たされた。
リオルが振り向き、ティアの像へ手を伸ばす。
「ティア、観測を止めろ!!」
その瞬間——
彼女の瞳が、光に溶けた。
観測者としての意識が、再び“見られる側”へと引き込まれていく。
彼女の視界は純白に染まり、音も時間も消えていく。
最後に、誰かの囁きが、光の彼方から響いた。
「再起動の鐘は鳴った。
観測は、再び神を目覚めさせる——」
——光律炉、部分再起動。
——沈黙域、再拡張開始。
そして、金色の光が宇宙全域に広がり、
世界は二度目の黎明を迎えた。
——静寂。
それは音のない終曲だった。
空間を満たしていた光の奔流が収まり、
《オルド=ルミナ》の観測室には、ただ微細なデータノイズが漂っている。
モニターはちらつき、波形が崩壊していく。
そのノイズの奥に、人の声にも似た残響がかすかに混じった。
《……リオ……る……観測……続けて……》
リオルは息を呑み、モニターに手を伸ばした。
そこには、もうティアの姿はない。
ただ、彼女の意識が弾き出された痕跡——
ノイズの粒子が、星のように瞬いている。
「ティア……?」
返答はなかった。
けれど、その沈黙の奥に、確かに**“誰かが見ている”**気配があった。
リオルは立ち上がる。
制御室の天井越しに、再起動した光律炉が
ゆっくりと鼓動を刻むのが見える。
その光は静かで、穏やかで、
まるでティアのまなざしがそこに宿っているようだった。
「ティア……お前、まだ見てるんだろ?」
誰にともなく呟いた声が、空気の中に溶ける。
返るのは、ひとつの光の波紋だけ。
波紋はゆっくりと広がり、炉心を包み、
そして——遠くで、鐘の音が響いた。
ひとつ、またひとつ。
その音は、崩壊でも、再生でもない。
祈りのような音だった。
リオルは目を閉じる。
胸の奥に、あの日と同じ光が宿っているのを感じながら。
——世界は、まだ終わっていない。
——観測は、続いている。
静寂の中で、最後の鐘が鳴った。
光律再起動——完了。




