記録のノイズ― 光律の亡霊、再生 ―
——音が、ない。
世界そのものが、息を止めていた。
闇。
完全な、闇。
だが、沈黙の奥底で、かすかな脈動が芽吹く。
“ピ……ピ、……ピ、ジ——”
機械が、再び息を吹き返すように。
それはノイズとも鼓動ともつかない、微かな震えだった。
暗闇に、光が滲む。
いや、光というより“記録”——かつて何かを照らしていた粒の残骸。
一粒、また一粒。
光子粒子が、虚空を漂い、ゆっくりと形を探している。
【再生開始:戦闘記録データ No.0xA3_Elmina_Log】
冷たい電子音が、静寂を裂いた。
同時に、視界の端で“映像”が組み上がる。
焦げ付いたフレーム、歪んだ記録。
それは、世界の亡霊のように、過去の光景を再生していた。
——焦土化した都市。
燃え上がる雲。
無数の機械の翼が、溶け落ちながら空を塞ぐ。
だが、そのすべてが“白く飛んでいる”。
明度が飽和し、形が掴めない。
輪郭も、質量も、そこには存在しない。
まるで、観測しようとするほどに世界が逃げていくかのようだった。
焼け焦げた映像の中に、誰かの声が残っていた。
「——観測を止めないで。
それが、私たちの存在理由だから。」
少女の声。
やさしく、けれど決定的に遠い。
まるで、永遠の彼方から語りかけてくるような——。
ノイズが波のように押し寄せ、映像が揺れる。
光子の粒が一瞬、星空のように煌めき、次の瞬間には崩壊する。
存在と消滅が同時に訪れる、その境界。
音声データが断片的に復元される。
波形が重なり、同一時間軸上で幾つもの声が響く。
「——観測を……」
「……それが、存在の……」
「……記録、止めな……」
声は、まるで時の層を滑るように重なっていく。
過去も未来も混ざり合い、“いま”という瞬間がきしむ。
光が弾け、視界が真白に塗り潰された。
その白の中で、最後にひとつだけ確かな文字列が浮かぶ。
《識別不能信号:LUMEA-VERTHIA // PILOT: ELMINA ALVA-LINE》
世界のどこかで、誰かが息を呑む気配がした。
しかしその音すら、ノイズに呑まれていく。
——沈黙。
そして、かすかな囁き。
「……まだ、見ているのね。」
声の主が誰か、もう誰も知らない。
けれど、その言葉だけが、確かに**“観測者”**の心に届いていた。
ノイズが、ゆっくりと戻ってくる。
沈黙の縁を掠めるように、かすかな音声の残響が浮上した。
「——観測を止めないで。
それが、私たちの存在理由だから。」
少女の声だった。
柔らかいのに、底知れぬ冷たさを含んでいる。
その響きが、まるで光の粒を掻き混ぜるように、空間全体を震わせた。
声が届くたび、焼け焦げた映像の断片が一瞬だけ修復される。
瓦礫の街路、倒れた光装兵、赤く灼けた空。
全てが、ほんの数秒だけ形を取り戻しては、また崩れていく。
映像は再生と崩壊を繰り返し、まるで声そのものが世界を観測し、同時に壊しているかのようだった。
「——観測を止めないで。」
「……それが……理由……だから。」
「——観測を……止めないで。」
声が、重なった。
完全に同一の時間コードで。
ひとつの瞬間の中で、無数の“エルミナ”が同時に語りかけてくる。
過去の記録。
現在の再生。
そして、まだ存在しない未来の声。
すべてが重なり、音の層を成していた。
それはもう“声”ではなく、**存在の多重反響**だった。
観測者たちのモニタに、警告ウィンドウが次々と走る。
《音声波形異常検出:同一フレーム多重記録》
《時間コード一致率:100.000%》
《再生源識別:LUMEA-VERTHIA // PILOT: ELMINA ALVA-LINE》
管制官の一人が息を呑む。
「……馬鹿な、あの女は——」
別の声が被る。
「光律崩壊の中心で、完全消滅したはずだ!」
ノイズの中、音声データが再度ループを開始する。
ただし今度は、わずかに違っていた。
波形の奥に“心拍のようなパルス”が混ざっている。
それは、生体反応。
「——観測を……止めないで。」
「あなたが、見てくれている限り——」
声のトーンが一瞬、変わった。
まるで録音された言葉ではなく、“今この瞬間に語りかけている”ような生の気配。
観測者の耳を通じて、誰かの存在が直接、世界に触れてくる。
ノイズが強まる。
データの破損率が増すのと反比例するように、映像は鮮明になっていく。
崩れた都市の中心で、ひとつの輪郭が浮かび上がった。
——白い光。
少女の姿。
その背に展開する、光装。
彼女の周囲だけ、時間が遅れていた。
光が彼女の意志に同期して、断続的に現実を縫い合わせている。
その瞬間、世界が彼女の存在を“再観測”する。
「観測は、祈りに似ているわね……」
微笑むような声。
だが、その目は静かに燃えていた。
観測者に向けられた視線。
まるで、記録の向こうから覗き込まれているように。
そして、映像は再び白く弾ける。
無音。
ただ最後に、音声ログだけが残った。
【通信ログ:A3_Elmina_Log_#0001】
「——再生を完了。光環、再起動を確認。」
薄青い光が、管制室を満たしていた。
壁一面に並ぶモニタ群。
十数枚の画面が、同時に異なるノイズを吐き出している。
白い線、崩れた波形、断片的な映像。
そのどれもが、同じ識別信号を示していた。
《識別不能信号:LUMEA-VERTHIA // PILOT: ELMINA ALVA-LINE》
《光律信号強度:3.12E+7 観測座標=不明》
モニタルーム・アウロラ観測局。
光環戦線から最も遠く離れた、平穏な後方基地。
ここで“彼女の名”が表示された瞬間、空気が凍りついた。
管制主任が短く息を吸い、指先でコンソールを叩く。
音声フィルタを三層通しても、波形は乱れない。
むしろ、明確に——“生きている”ように応答していた。
「識別エラーか?」
低い声が沈黙を切り裂く。
主任は額の汗を拭うことも忘れ、数値の羅列を追う。
「沈黙域の干渉なら波形が乱れるはずだ。」
隣席の副官が即座に応じる。
冷静だが、声の奥にかすかな震えが混じっていた。
「いいえ、主任。波形は完全一致です。——彼女の、生体パターンです。」
室内の照明が一瞬、明滅する。
観測装置のセンサーが過負荷を起こした。
それでも、表示は消えない。
《ELMINA ALVA-LINE》——その名が、光子のノイズの中に浮かび続けている。
「……彼女は三年前に光律炉の中で消滅したはずだ。」
主任の声が低く、乾いた。
その口調には、驚愕よりも“理解を拒む理性”の色が強かった。
副官は唇を噛み、短く答える。
「記録上は、そうです。けれどこの波形は、再現不可能なはずの——“同調鍵”を保っています。」
観測室の最奥、ひとりの少女がモニタに目を凝らしていた。
若手観測士ティア・レムス。
まだ階級章すら浅く光る、実戦経験の少ない新人。
だが、その瞳だけは、誰よりもまっすぐに画面の中を見つめていた。
モニタの中央——光粒が、一瞬だけ“瞬き返す”。
まるで、彼女の視線を受け取ったかのように。
ティアの息が止まる。
光の粒が波紋のように広がり、観測データの層を震わせる。
そこに、確かな“意思”を感じた。
「……観測、されてる……?」
囁くような独白が、無人の静寂に溶けた。
だがその瞬間、波形モニタの一つが反応する。
音声データが勝手に展開し、封鎖されたチャンネルから新たな音が漏れた。
「——ティア・レムス。観測を続けて。」
少女の声。
それは確かに、三年前に死んだはずのエルミナ・アルヴァ=ラインの声だった。
ティアの肩が震える。
主任が振り向き、叫ぶように指示を飛ばした。
「通信遮断! すぐにフィルタを閉じろ!」
「駄目です、主任。——逆流しています!」
副官の報告と同時に、全モニタの画面が白光に包まれた。
白の中に、かすかなシルエットが浮かぶ。
少女の姿。
光の翼を背負い、壊れた世界を見下ろしている。
エルミナの瞳が、こちらを見ていた。
「……あなたが見てくれる限り、私はここにいる。」
ノイズが爆ぜた。
光が弾け、管制室の照明が一斉に落ちる。
残ったのは、静かな残響だけ。
ティアの胸の奥で、微かな光律が脈打っていた。
管制室に、光が降る。
いや、光ではない。——情報の粒だ。
ティアの指がコンソールに触れるたび、モニタ上の数値が震え、
フォトンデータが空間へと“零れ出す”。
粒子がふわりと浮き上がった。
デジタルのはずの光が、空気の抵抗を受けて漂う。
ティアは息を詰めた。
指先の動きと、光の挙動が完全に同期している。
「……再構築反応、始まってる。」
小さく呟きながら、彼女は触覚フィードの感度を上げた。
データはただの映像ではない。
波長が可視域を超え、観測者の網膜と量子同調している。
彼女が“見る”ことで、存在が形を得ていく。
やがて一粒の光点が中心に浮かび上がる。
それは呼吸をするように明滅し、徐々に輪郭を持ち始めた。
焼け焦げた線。
白銀の残光。
崩壊と再生を繰り返しながら——
ひとりの“人”の形を、描こうとしていた。
ティアの声が震える。
「……これ、映像じゃない。観測が、再構築されてる……」
主任が即座に叫ぶ。
「そのまま維持しろ! 観測場を安定化させるんだ!」
副官が後方で警告を発する。
「安定化波形、閾値を超えます! 観測率——上昇中!」
数値が跳ね上がるたび、粒子の輪郭は鮮明になり、
同時にモニタがひとつ、またひとつと白く焼けていく。
“観測”が進むほど、情報が崩壊する。
データは自らを晒されることに耐えられず、
まるで存在の秘密を覗かれることを拒むように——
白いノイズとなって崩れ落ちていった。
「まるで……見られることを、拒んでるみたい。」
ティアが息を呑む。
光の中で、再構築されつつある人影が微かに反応した。
輪郭が一瞬、彼女の方へ向き——光の瞳が“瞬く”。
「……観測者。」
その声が、確かに響いた。
言葉と同時に、全てのモニタが閃光を放つ。
光律干渉、閾値超過。
警報が鳴り響き、制御盤が赤く染まった。
主任が叫ぶ。
「遮断しろ! 観測リンクを切断!」
ティアの手がコンソールから離れる。
だが光は止まらない。
むしろ、彼女の手のひらを伝って、直接皮膚に吸い込まれていく。
指先が、淡く光る。
——まるで、“観測者”が観測される側へと転じたように。
残響。
焼け落ちる電子の匂い。
そして、最後に残ったのはひとつのログだけだった。
【記録断章:A3_Elmina_Log_#0002】
「——再構築完了。観測者との位相同期、確認。」
——音が、途絶えた。
ティアは思わず呼吸を止めた。
先ほどまで警報と電子音に満ちていた管制室が、突然、真空のような沈黙に包まれたのだ。
耳鳴りすら吸い込まれ、世界の音が一行のコードのように途切れる。
モニタ群が、一斉に消えた。
光も色も消え、ただ機械の冷たい外殻だけが青白く浮かぶ。
主任が無言で制御盤を叩く。反応なし。
副官が通信を試みる。応答なし。
全ての装置が、観測を拒絶したかのようだった。
——そのとき。
中央のモニタだけが、ゆっくりと再起動した。
誰も触れていないのに、黒い画面の中に白が滲む。
ノイズが走るたび、光が増殖し、
まるで**“何かがこちらへ戻ってくる”**ように、映像が自己生成を始める。
白光の中心に、ひとりの顔が浮かび上がった。
長い銀の髪。
虚空を透かすような瞳。
そして、焼け焦げた微笑。
ティアの喉が、音を失う。
——エルミナ・アルヴァ=ライン。
三年前、光律崩壊の中心で消えた“光環の女王”。
彼女は、微かに笑った。
ノイズに途切れながらも、確かに唇が動いた。
「……まだ、見ていたのね。」
その瞬間、管制室の温度が変わった。
冷却機の音が止まり、空気が“透明化”していく。
モニタのフレームに反射していた観測者たちの顔が、
ひとつ、またひとつと彼女の瞳の中に映り込む。
——いや、それは“映っている”のではなかった。
“彼女が見ている”のだ。
ティアは悟った。
エルミナの視線はカメラの向こう側——
モニタを見つめる者すべてを、貫いている。
管制室の者たちだけでなく、この映像を“観ている観客”までも。
彼女の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。
瞳孔の奥で、光が螺旋を描く。
「なら、私はここに在る。」
その言葉と同時に、
彼女の眼の中で“光冠”が点火された。
閃光が爆ぜた。
白。——純白。
音が空間を裂き、重力が一瞬で反転するような感覚。
ティアは咄嗟に腕で顔を覆った。
だが、まぶたの裏にさえ光が焼き付く。
主任が叫ぶ声が遠い。
副官の呼吸音も、機械のノイズも、全てが光に溶けていく。
光は管制室の壁を透過し、
地上を、そして衛星軌道上の観測網すらも貫いた。
世界が、観測された。
——“彼女”によって。
次の瞬間、画面が完全な白に呑まれる。
光が飽和し、音が爆発的に膨張し、
そして——全てが無音に戻った。
——光が収束した。
爆ぜるような閃光のあと、
世界は再び、沈黙を取り戻していた。
アウロラ観測局・第七管制室。
焦げた機器の匂いと、微かな焦熱波の残響。
だが、音は一切なかった。
主任がゆっくりと顔を上げる。
耳鳴りの奥で、電子ノイズの残滓が薄く揺れている。
モニタは、すべて黒。
何十枚も並んでいた観測画面は、まるで“夜空”のように沈んでいた。
ただ一枚、中央の端末だけが、かすかな白光を放っている。
ティアが歩み寄る。
震える指先で、画面に映る文字を読み取った。
[SIGNAL CONFIRMED]
[沈黙域中心部に光律活動を検出]
[CODE NAME:CROWN REACTIVATION]
主任の喉が、ごくりと鳴った。
その声すら、やけに大きく響く。
「まさか……沈黙の都が、再起動を……?」
副官が息を呑み、目を見開いた。
“沈黙の都”——光律崩壊の震源地。
世界の観測網が沈黙した場所。
三年前、彼女が消えた場所。
ティアの手が、自然と画面へと伸びていた。
指先が、冷たいガラスに触れる。
その瞬間——
光が、指先に触れ返してきた。
ピリ、と微弱なフォトンノイズが走る。
感電とは違う。
それは、まるで“何かが向こう側から触れた”ような感覚。
ティアの視界に、焼き付いた光の残像。
それは、あの白銀の瞳だった。
そして——あの声が、残響のように蘇る。
『——観測を止めないで。
それが、私たちの存在理由だから。』
ティアの唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「……彼女は、記録の中にいる。」
主任が顔を上げた。
ティアは静かに続ける。
「でも、それは——**記録された“今”**なのよ。」
誰も、その意味をすぐには理解できなかった。
ティアの目は、画面の奥——いや、その先を見つめていた。
そこには“過去”も“未来”もなく、
ただ、“観測され続けている現在”があった。
ガラス越しの微光が、彼女の瞳に映り込む。
その光は、脈動している。
——まるで呼吸のように。
ティアは、指先を離さない。
光がまた、応えるように震えた。
主任が低く呟く。
「……これは通信じゃない。対話だ。」
無音の空間に、微かに粒子が舞い始める。
黒いモニタの隙間を、光の欠片が漂う。
それはデータでも映像でもない、存在の残光。
やがて一片の粒子が、ティアの頬に触れた。
冷たく、そして優しい。
——通信は、途絶していない。
それは、ただ別の次元で続いているだけだ。
白。
——ただ、白。
視界という概念そのものが、光に飲み込まれていた。
形も、距離も、時間も、輪郭を失い、
世界は一枚の“観測面”として、静かに呼吸している。
音が戻り始める。
それは電子の揺らぎ。
機械の低い心音のようなリズムが、光の奥から滲み出す。
ピ……ピ、……ピ。
ジ——。
やがて、ノイズの層の中から、ひとつの声が重なった。
「観測を止めないで——
それが、私たちの存在理由だから。」
声は少女のもの。
ノイズの奥で、いくつもの時間軸が反響する。
かつての声、今の声、これから響くであろう声——
それらが重なり合い、“存在”という一瞬を形成していく。
光が脈動した。
波紋が広がる。
音と光が同期し、リズムを刻み始める。
——観測という鼓動。
その波紋の中心に、文字が浮かび上がった。
揺らめく光の粒が、ひとつずつ線となり、形を結ぶ。
《光化学戦記:沈黙の都篇》
〈序章:断章の女王〉
タイトルが完全に顕現した瞬間、
光の海が静まり、音がひとつの波として収束する。
ピ——……
ノイズが細く、細く延びていく。
やがてそれも消え、
世界は完全な暗転へと沈んだ。
残響だけが、ほんの一瞬、心の奥で続いていた。
——“観測は、終わっていない”。




