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真知子の青春  作者: ロッドユール
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木イチゴ

 私は、すたすたと慣れた足取りでどんどん先に行く美由香を見失わないように必死でその後ろについて行った。深夜の病院は独特の雰囲気があり、不気味な薄闇と静寂が流れている。


 ――食べ物のカスやゴミに囲まれて、私はふと我に返る。醜く欲望のままに食い散らかし、気づけば私は心も体も醜悪そのものになっていた。そんな自分が今この私として目の前にいる。私はスナック菓子の油のついた油ぎった手の平をじっと見つめた。

「・・・」

 肉のついた丸い醜い手だった。堪らなく醜い手だった。

 不安が湧き上がる。恐怖が全身を覆う。

「私・・、私・・」

 涙が込み上げてきて止まらなかった。なぜこうなってしまったのか。楽しいはずの青春が私だけ、なんでこんなに惨めなのか。涙がとめどもなく溢れて止まらなかった。私は一人声を上げて泣いた。私の周りにあるのは、この食い散らかした、食べ物のカスだけ。そんな荒んだ光景を見ていると、さらに絶望感が湧いてきた――。


「真紀は起きねぇんだよ。眠剤飲んでっから」

 前を歩く美由香は、看護婦たちがいないか警戒しながら誰に言うともなく言った。

「えっ」

 そう言われても、私には真紀という子が誰なのか分からなかった。

 精神病院は患者が外に出ないように、何十にも扉が設置され、さらに内側からは出られないようになっている。それを美由香はスルスルとかんたんに次々突破していってしまう。どうやってるのかは分からないが、何か機械やセンサーを欺くやり方があるらしい。

 非常階段を降り、病院の一階まで行くと、薄暗い廊下の奥にあるボイラー室の脇にあった扉からいともかんたんに外に出れた。

「・・・」

 こんなにかんたんに出られていいのだろうか。私はこの病院のセキュリティーを疑った。

 私たちはそのまま、病院の敷地を横切り、裏山の手前の敷地との境界のフェンスまで行く。

「ほらっ」

 病院の建物の裏側の敷地と裏山を隔てている境界のフェンスに着くと、美由香はそのフェンスの下の脇を掴んだ。そこは横と下のつなぎ目が切れていて、美由香が持ち上げると丁度人が一人出られるほどの三角形の隙間が開いた。

「先行けよ」

「うん」

 私は身をかがめ、四つん這いに近い状態で先に通り抜けた。その後、美由香は器用にその細い体を滑り込ませ、するすると一人で通り抜けた。

「こっちこっち」

 美由香はどこに持っていたのか、小さなペンライトのようなものを点けた。そして、美由香は真っ暗な裏山に入って行く。

「どこまで行くの?」

 私はそこで立ち止まり訊いた。私はここに来て急に不安になった。美由香がどこまで行くのか分からなかった。タバコを吸うのなら、こんなところまで来る必要はなかった。

「いいとこがあるんだ」

「いいとこ?」

 美由香は私の返事など待たずにそのまま行ってしまう。

「・・・」

 私は躊躇した。ここは精神病院だった。彼女も病気。自分で人格障害だと言っていた・・。目の前の山の持つ漆黒の闇が私をさらに怯えさせる・・。

 でも、何がそうさせたのか、気づくと私は、とにかく美由香について歩き出していた。

「病院の裏って、本当に山なんだ」

 私はどこか生々しい自然の空気を感じながら辺りを見回す。そこはもう本当の山、リアルな自然の中だった。人が一人通れるくらいの狭い山道のすぐ脇は、木々が生い茂り、その先は寸分先も見えない真っ暗闇だった。そこは普段人が生きている世界とはまったく違う世界だった。

 そんな小さなけもの道のような道なき山道を上ったり下りたり、曲がったり戻ったりしながら、美由香の後について歩き続ける。どこまで行くのか、どこに行くのか想像すらできなかった。

「ほらっ」

 しばらく、歩いていくと、ふいに美由香が立ち止まった。そして、持っていたペンライトで何かを照らす。私はそれを見る。

「あっ、すごい」

 そこには赤い木の実をたくさんつけた木々が群生していた。

「これ、うまいんだぜ」

 美由香が一つつまみ取って、口に入れた。そして、口をもぐもぐと動かしながら満足そうな表情で私を見る。

「・・・」

 私も同じように取って口に入れてみた。

「あっ、おいしい」

「だろう」

 少し酸っぱかったが甘さもあり、何とも言えないおいしさが口の中に広がり、私は感動した。普段食べている人口的な味とは違って、生の食べ物の味がした。

「何これ」

 私は美由香を見る。

「木イチゴだよ」

「木イチゴ・・」

 名前は聞いたことがあったが、実際に見て食べるのは初めてだった。

「自生してるの?」

「ああ、多分な」

 私たちは、次々とその赤い実を取っては、口に放り込んだ。自然のものを自然のまま食べるのは、幼い子どもの頃以来な気がした。

「ふぅ~、おいしかった」

 不思議と、ある程度食べると、満足した。もっともっとと要求するあの異常な食欲は起こらなかった。

「さっ、行こうか」

 すると、美由香が再び歩き出す。

「えっ、いいとこってここじゃないの」

 私は驚く。

「ああ」

「まだ行くの」

「ああ、もうちょっとだ」

「・・・」

 再び不安を感じながらも、私はさらに奥へと歩き出す美由香の後を追った。

 暗い山道を再びさらに奥へと歩いて行く。運動不足と、拒食の体で山道を歩くのはきつかった。ちょっとした上りで息が切れる。太ももがパンパンで、ふくらはぎが痛い。元気だった頃と比べて格段に体力が落ちているのを実感した。だが、美由香はどんどん奥へ奥へと闇の中を歩き続ける。どこまで歩くのだろうか。私は体力の限界を感じ始めていた。

「ちょっ、美由香」

 私は、もう帰りたくなった。

「あっ」

 その時だった。突然、目の前の森が開けた。

「ここがあたしのお気にいり」

 前を歩いていた美由香が私を振り返った。そこは、巨大な岩が突き出すようにして崖になっていて、そこから、その先の向こうに街の明かりが煌々と輝いているのが見えた。

「きれいだろ」

「うん」

 私たちは、崖の先に二人並んで座った。山と山の間から私の住んでいた町の灯りも見えた。

 美由香はタバコを取り出し、口に咥えると、火をつけた。

「ここで吸うたばこがまたうまいんだよ」

 美由香は、本当にうまそうに大きくたばこの煙を吐く。

「お前も吸うか?」

「ううん、いい」

 私は首を横に振った。

「・・・」

 遠くでホーホーとフクロウが鳴いている。私たちは黙って遠くに見える広大な街の明かりを見つめた。

「・・・」

 暗い山の中にいるせいか時間の感覚もなんだかなくなっていた。静かな空気だけが、月明かりの照らす闇の中に流れている。嫌なことも思い出さなかった。そんなこと自体を忘れていた。

「・・・」

 自分がいた世界。自分が苦しんでいた世界。それが、なんだかもうどこか遠い世界だったような気がした。それはついさっきまでの自分だったはずなのに・・。

 

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