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真知子の青春  作者: ロッドユール
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屋上

 私は、標準的な愛が欲しい。ただそれだけ――、それだけ――、そんなものがあればだが――。


「本気で人に殴られたことある?」

 真夜が言った。真夜の目の奥はいつも暗く死んでいた。

 真夜は最近入って来たまだ十四歳の子だった。全身黒ずくめで、鼻と口にピアスをしていた。その丸いショートボブが、そのまだ幼さの残る丸い顔によく似合っていた。

「マジで死ぬかもってぐらい、マジで殺されるかもってぐらい殴られたことある?」

 慣れた手つきでタバコを吸いながら真夜が言う。真夜は幼いながら、すでにベテランの喫煙者だった。

「・・・」

 私は親に殴られたことが一度もなかった。怒られたこと自体があまりなかった。私がおかしくなり、あれだけ、親に理不尽な感情をぶつけた時でさえ、それはなかった。

「口ん中がさ、血の味でいっぱいになるんだ。あの鉄を含んだあの味は今も忘れないよ」

「・・・」

「今でも、時々、あの味を思い出すんだ。口の中で」

 真夜の両腕には無数の切り傷があった。その何度も何度も同じ個所を切りつけ盛り上がるような痛々しい傷跡の上にさらに大きなケロイドの跡があった。傷の上から、皮膚を焼いたのだろう。その正視できないほどのむごたらしい傷跡が彼女の壮絶な人生を物語っていた。

「ほんと死ぬかと思ったな。でも、悪い人じゃないんだ。すごくやさしい人なの」

「・・・」

 私よりもまだ幼い真夜も、過酷な境遇をサバイブしてきた子らしかった。

「私の父さんは町の英雄なんだ」

 真夜は、自慢げに語る。

「仕事もすごくできる人なんだ。学校でもすごく成績がよかったって」

「・・・」

 何でそんなに迄された親をそこまで愛することができるのか、私にはまったく理解できなかった。むしろ、ちやほやとやさしく育ててくれた親に対し私は冷淡だった。

 私はどこかで真夜を羨ましいと思っていた。そこまで親を愛せる真夜を――。

 

 今日の診察の担当は、初めての先生だった。どこか異質なというか異様な雰囲気の漂う人だった。年配で、だらしなく太り、見るからにくたびれ、ひげも頭ももじゃもじゃの癖っ毛で、風呂に入っていないのかその髪は脂ぎって頭皮にべちゃっとなっていた。白衣も、いつ洗濯したんだってくらい皺皺でよれよれで、薄っすらと黄ばんでいた。

「・・・」

 私が見ても大丈夫か?と思わざる負えないような雰囲気の人だった。  

 目を見ると、その目は完全に死んでいた。まったく光がなかった。表情も冴えない。多分、この先生も病んでいる。それが一目見た瞬間分かった。

 私なんか診ている場合じゃないんじゃないか。私は、目の前のその医師を見て思った。

「心の病気なんて治らないから」

 診察の途中、斉藤というその医者はそう投げやりに言った。その言葉を聞きながら、多分、この人は私ではなく自分自身に言っているのだろうなと思った。その言葉には絶望が滲んでいた。でも、言っていることは分かった。それが真実であることも私には分かった。

 

 何でこんなに生きづらいんだろう。

 一昔前なら考えられないくらいに恵まれた環境に私たちは生きている。何でもある、食べたいものも飲みたいものもテレビもネットも映画も漫画も音楽も温かい部屋もベッドもなんでもある。昔の人からしたら夢の中の世界だ。

 でも、何でこんなに死にたいんだろう。何でこんなに消えてしまいたいんだろう。

  

 ――なぜ私は、あの楽しそうに笑う同級生たちじゃないんだろう。なぜ私はテレビに出ているあのかわいい子たちじゃないんだろう。なぜ私は、あの雑誌に載っているあのきれいな子たちじゃないんだろう。どうして、私はこの私なんだろう。この惨めで孤独でブスな私なんだろう。私はそんなことをいつも考えていた。なんで・・――


 私は時々思う。この私は、パラレルワールドにいる別の自分。すべては幻。夢なんじゃないか。この真っ青な空の向こうの向こうに、本当の私は別にいて、その私は幸せなみんなのように普通に生きている。時々、寂しくなったり悲しくなって泣くこともあるけれど、根底にある幸せはまったく揺らがない。信頼できる愛すべき家族がいて、友だちがいる。楽しい日常があって、希望ある明日がある。それが本当の私・・。

 ある日、目を覚ますと、私はそこにいる。この私が、ただの悪夢だったみたいに――。

 でなければ、でなければ、今の私はあまりに惨め過ぎる・・。


「・・・」

 私は共有スペースのソファで今日も薬とお酒でラリってぐったりとだらしなく寝そべっていた。すべてに弛緩し、自堕落で、でも、心のどこかにこのままじゃいけないという焦りが渦巻き、常に自責と不安に苛まれている。そんな状態。苦しいけど、苦し過ぎて、もうどうしようもなく無気力。そんな状態。もう、何もかもどうでもいい。そんな状態。

 手首を切っても、酒を飲んでベロベロに酔っぱらっても、特に注意されることもなく、私はほっとかれていた。めんどくさく相手にされていなかったのか、ただ単に、この病院の怠慢なのか、分からなかったが、ずいぶんといい加減な病院だなと思った。

 後に聞くが、リストカットできるものを患者に持たせていること自体あり得ないことだと、私は知る。ましてお酒などあり得ないと、精神病院に詳しいその人は言っていた。

「ちょっと、あなた何しているの」

 そんな私の頭上で鋭い声が響いた。私はもっさりと顔を上げる。顔を上げることすらがもう無気力でめんどくさかった。

「何しているの」

 婦長の田中さんだった。

「・・・」 

 私は黙ったまま、その力のない目で一人熱くなっている田中さんを見上げた。答える言葉が見つからなかったし、見つかってもそれを発する気力もなかった。

「あなたはここに何しに来ているの」

 ものすごい形相で、威圧するように田中さんは私を見下ろしている。さすがみんなに恐れられるだけはある。薬で弛緩した頭で私はぼんやりとそんなことを考えていた。

「あなたは病気を治しに来ているんでしょ」

「・・・」

 正論だった。でも、私は黙っていた。最近の私は反抗的だった。

「ちょっと来なさい」

「お説教なんか聞きたくない」

「いいから来なさい」

 有無を言わせないものがあった。

「・・・」

 私は田中さんに追い立てられるようにソファから立ち上がると、その後ろをついて行った。

「ここは・・」

 いつも患者が絶対に通らない裏側の廊下や階段を上り、辿り着いた扉を田中さんが開けた。

「屋上。この病院の屋上よ。自殺防止のために普段は誰も入れないようになっているの。過去にあったからね。そういうことが」

「・・・」

 私は彼女の自殺の場面を思い出した。彼女はどうやってあんな場所に立つことができたのだろうか。精神病院である病院のセキュリティーに問題はなかったのか。ふと思った。

「見て」

 田中さんが遠くを指を差す。

「・・・」

 田中さんの指さす方を見ると、山と山の間に町の灯りが見えた。

「・・・」

 久々に見る町の明かりだった。そこは、ちょっと前まで私が住んでいた町だった そういえば、最近、私は町のことをまったく思い出していなかった。考えてすらいなかった。私は、そのことに少し愕然とする。

「・・・」

 私はしばらく無言でその町の明かりを見つめていた。

「あなたはあそこに生きる人間よ」

 田中さんが町の明かりを指差し言った。

「・・・」

「あなたはあそこにいる人間」

「・・・」

「ここにいる人間じゃないわ」

「・・・」

「あなたはあそこに生きる人間よ。ここにいてはダメ」

 田中さんは、もう一度言った。

「あなたはあそこに戻れる。戻らなきゃいけない。こんなところにずっといてはダメよ。ここはあなたがずっといる場所じゃない」

「・・・」

 私は・・。 


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