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真知子の青春  作者: ロッドユール
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ショック

 いつものように、タバコを吸いに階下に降りた後、また自分の病棟に戻ろうとエレベーターに乗った時、私はボーっとしていて何も考えずに、他の患者さんの後について自分が下りる階ではない階でエレベーターを下りてしまった。

「なんか変だなぁ」

 と、思いつつ、私は、それに気づかずしばらく廊下を彷徨っていた。私は、小さい頃からかなりな方向音痴だった。

 しかし、明らかに様子がおかしい。見かける患者さんたちの年齢が異常に高い。

「やっぱおかしい」

 鈍い私でもさすがに、ここは別の階かと気づき始めたその時だった。

「うるせぇ、大人しくしてろ」

 突然、怒鳴り声が聞こえた。

「何度言ったら分かんだよ」

 そして、またすぐに怒鳴り声が響く。私が驚いてその方を見る。すると、廊下の真ん中で若い男性スタッフが、よぼよぼの年配の男性患者を前に上から高圧的に睨みつけていた。睨みつけられている高齢の男性患者は、うなだれるようにして縮こまっている。男性スタッフが一方的に、怒鳴っているような感じだった。

「聞いてんのか、コラッ」

 そして、さらに頭ごなしにまた男性スタッフが怒鳴りつける。怒鳴られたおじいさんは、ただもう狼狽するばかりで、元々判断能力が低いのか、かわいそうなほどおろおろとしている。

 私はその光景にショックを受ける。普段人が怒鳴るところなどあまり見ないこともあるが、ここは病院だった。病院とは、病気の患者さんに寄り添い、やさしくするところではなかったのか。

 しかし、周囲にもスタッフや看護師はいるのに誰も何も言わない。注意するべきだという空気すらがなかった。まるでそれが当たり前のような空気感だった。私はそのことにも驚く。

 ここは以前に美由香たちと探検で来た、年配の人たちがいる階の病棟だった。ここは、ずっと、何十年も入院している人たちばかりなのだと美由香はあの時言っていた。

 その時、なぜか私の中に、何とかしなければという変な義務感が湧き上がって来た。気が小さい割に変なところで私は正義漢や行動力があったりする。

「あ、あの、どうしたんですか」 

 私は勇気を振り絞って、二人に近づき、若い男性スタッフに声をかけた。若い男性スタッフが睨むように私を見る。その態度に、私はまたショックを受ける。私の病棟のスタッフは、みんなやさしかった。こんな顔をされたことは一度もない。

「お前に関係ねぇ」

 そして、その男性スタッフは、私にも怒鳴ってきた。なんだか、病院スタッフとは思えないガラの悪い人だった。

「でも・・」

 私は怯える。

「関係ねぇって言ってんだろ」

 私はその男性スタッフの剣幕に怯える。これが病院のスタッフ?私は戸惑う。

「おいっ」

 その時、さすがにまずいと思ったのか、近くにいた他の若い男性スタッフがその男性スタッフの下に行き肩に手を当てとめた。そして、私から遠ざけるように奥へと連れて行った。

「・・・」

 私とおじいさんだけがその場に残された。

「うう、ああ、うう」

 おじいさんは、精神疾患なのか、年のせいなのか、何かを唸りながら呆けたようにその場に佇んでいた。その姿が痛々しくて、私は、見ていて胸が痛かった。こんな人にあんな酷いことを言うなんて、私は、何か堪らない気持ちになった。 

「・・・」

 自分の部屋に帰ってからも、さっき見た光景が頭から離れず、私はショックから抜け出せずにいた。私はベッドに顔を埋める。

 ショックだった。病院て病気の患者さんにやさしくするところだと思っていた。あんなことするなんて、信じられなかった。

 そのショックが、さらに私を鬱と無気力の世界に沈殿させていく。


 ――精神の安定が欲しい。何ものにも動じない安定した精神。たとえそこにもう、私がいなかったとしても、私はその領域に行きたい――


 拒食に加え、飲酒、タバコ、精神薬がそこに加わり私は、もうぐちゃぐちゃだった。もう、何もかも訳が分からなかった。

 でも、もう、それでよかった。どうでもよかった。もう、すべてがどうでもよかった。

 早く壊れて欲しかった。こんな私なんか早く壊れて消えて欲しかった。私という存在欲求を完全放棄した私の屍がただそこにあった。

  

「どうしちゃったんだい」

 直志さんだった。私はいつもの共有スペースのピンクのソファに寝そべって、屍のように弛緩していた。

「直志さん・・」

 直志さんとはなんだか気恥ずかしくて、私から避けるように疎遠になっていた。

「なんだか、別人みたいだ」

「・・・」

 何も言えなかった。

「本当に、どうしちゃったんだい?君はもっと、しっかりしていたと思っ・・、あっ」

 私はその場から走り去った。今の自分を見られたくなかった。直志さんには見られたくなかった。もう、取り繕う隙間さえないくらい惨めで醜いのに、でも、そんな私を見られたくなかった。


 ――愛されることが不安だった。私の何を愛するのか。私自身が私をまったく愛していなかった。こんな私の何を愛するのか。私自身が分からなかった――


 だから、私は誰も愛することができなかった。多分、これからも永遠にそうだろう。


「あっ」

 共有スペースの片隅でふと、窓の外を見ると、あり得ない場所に女の子が一人立っていた。私は驚く。何がどうなっているのか一瞬頭が混乱する。どうやってそこに行くことができたのか、向かいの棟の、窓から出っ張ったコンクリートのヘリのようなところに、女の子が立っている。

「あ、ああ・・」

 私はあまりのことに、全身が固まり声も出ない。彼女が立っているところは私たちのいる五階よりも一階高い。

「あ、ああ、ああ・・」

 声を出そうとするが、やはり、言葉が出て来ない。どこかで見た顔だった。そこに立っていたのは、あの新しく入って来た子だった。あの独特の丸い髪が風に揺れている。

「・・・」

 その子が何をしようとしているのかは、考えなくても歴然としていた。ここは精神病院だった。

「えっ?」

 そして、私の頭がはっきりと現状を認識する間もなく、その子はそこから飛び降りた。ふわりと、飛び立つ前の鳥がその身を中空に投げ出すようにそれは当たり前として自然と行われた。

「あ、ああ」

 私は何もできず、言葉すらも出せず、ただその落下していく姿を目で追っていく。少女は、ただの物質のように、しかし、それは生々しい肉体で、生きていて、でも、そんなこと関係なく、どんどん落下し、そして、地面に叩きつけられた。ドスッという鈍い音が妙に生々しく恐ろしかった。

「ああ・・」

 私は堪らない衝撃を受け、その場で硬直するように固まった。私はその、うつ伏せのまま、変な形で横たわる少女を上から見つめた。ピクピクと痙攣をしているのがなんとなく遠い上からでも視認できた。

「・・・」 

 自殺することは何度も何度も頭の中で夢想した。それが今目の前にある。

「どうしたの?」

 私の異変に気づいた看護婦が、私の視線を追って、落ちた先の横たわる彼女を見つけた。

「あっ、大変」

 そして、そう言葉を発すると、慌ててナースステーションに走って行った。そこから病院中が大騒ぎになって、でも、その時の記憶はあまりない。

「・・・」

 私は、バカみたいに遥か下の地面に横たわる彼女をずっと見つめていた。それだけはなんとなく覚えている。

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