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真知子の青春  作者: ロッドユール
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分かるはずのない距離

 ――私を見つめ過ぎると、私が分からなくなる。鏡で見る自分をずっと見つめていると、その映っている自分がまるで他人のように見えてくるように――


「いったい、あなたは誰なの?」

 鏡に映る私に、私は問いかけた。鏡に映るその私は、幽鬼みたいな顔をして、私を黙って見つめていた。


「面会?」

 突然、看護婦さんに言われ、私は訝しむ。母がいつも来る曜日でも時間でもなかった。もちろん面会に来てくれるような友人もいなかった。私は奇妙に思いながら面会室へと向かった。

「よおっ」

 私は一瞬何ごとかと驚く。そこにいたのは兄だった。

「・・・」

 兄は今他県の大学に通っていて、実家にはいない。しかも、滅多に実家になど帰って来ない人だった。私は、一瞬驚き立ちどまった後、黙って机を挟んだ向かいの席に座った。

「元気か?」

「・・・」

 兄とまともに話をするのはいつ振りだったろうか。それが分からなくなるほどに兄と向き合って話をするのは久しぶりだった。いや、兄が大学に行って実家を出てからは、その姿を見ること自体がいつ振りだったろうか。

 

「久しぶりだな」

「・・・」

 目の前にいるこの人が、私の兄であることに、その兄が目の前にいることに、恐ろしく違和感を覚えるほどに、私と兄はその時間と距離を隔てていた。

「母さん泣いてたぞ」

「・・・」

 兄はこれまで家の煩わしい問題には一切かかわろうとしてこなかった。私のこともそうだった。それでいて要領だけはいい兄は、ポイントポイントだけは抑え、親にも親戚にも評判だけはよかった。多分、この突然の面会もその点数稼ぎのポイントの一部なのだろう。

「お前痩せたな。大丈夫か?」

 兄が無遠慮に、今一番見られたくない私の顔を覗き込んでくる。

「・・・」

 とても嫌な、堪らなく嫌な、屈辱的におぞましい感覚が、私の全身を這うように湧き上がって来る。

「バカなことやってないで、ちゃんと飯食えよ。何でそんな人間としての基本的なことすらできないんだよ。小学校低学年でもできるぞそんなこと」

「・・・」

 中身のない、心のない表層的な、まったく問題の本質を分かっていない兄の言葉が、兄の本質をそのまま体現していた。私のことなどまったく分かっていない、その兄の性格そのままの軽薄な言葉が虚しく、そして、腹立たしかった。その兄が、偉そうに私に何か言うことに私は絶望に似た怒りを感じた。

「お前もさぁ、もう高校生だろ」

「・・・」

 腿の上に置いた拳に力が籠り震える。

「お前も少しは考えろよ」

「・・・」

 しかし、小さな頃からある種の主従関係を植えつけられている私は、兄に何か言うことはできなかった。歳の差もあり、男女の違いもあり、兄には喧嘩をしても、何を言っても、何をしても絶対に勝てなかった。その心の奥に刷り込まれた原体験が、私を兄に対して臆病にし、決して逆らうことをできなくさせていた。

「けっこう金かかるんだぜ。ここも」

「・・・」

「お前は、結局、そうやって、母さんたちになんだかんだ面倒見てもらって、小さい頃もそうだよ。色々買ってもらえてさ、俺なんていつも我慢我慢だぜ。お前は恵まれてるんだぞ」

「・・・」

「分かってるのか」

「・・・」

 三つ上の兄は小学校高学年の頃から、私を避け始め、ほとんど口を利くこともなくほぼ無視状態だった。元々、妹の面倒を見るとかいった、そういっためんどくさいことは一切やらない性格で、上に媚び、下の人間には冷淡な非常に分かりやす典型的なスネ夫タイプの人間だった。

「あんま迷惑かけんなよ」

「・・・」

「要領よく適当にやったらいいだろ。お前、頭はいいんだからさ」

「・・・」

「大学だって行けるだろ。お前成績よかったんだからさ」

「・・・」

 何も分かってない。何も分かってない。何も分かっていない。


 ――いつも私は、私のことを人と話す時、分かるはずもないあまりに遠い絶望的な一億光年の距離を感じて、私は、そのあまりの距離と次元の違いに、虚無に似た無力感に打ちのめされる――


 遠くの方で兄の声が鳴っていた。兄が何か言っていた。私の意識は真っ白く霞んでいた。

「じゃあな。しっかりしろよ」

「・・・、うん・・」

 思いとは裏腹に、素直に返事を返す。

「・・・」

 兄は、話すだけ話すと、さっさと面会室を出て行った。面会に来たという既成事実さえあればいいということが透けて見える、そんな短い面会だった。

「何しに来たんだよ・・」

 一人残された私は、悔しまぎれに小さく呟く。泣きたくはなかった。あんな奴の言葉に泣きたくはなかった。

「・・・」

 意味のない言葉たち。意味も中身もないがゆえに、そんな言葉が人を傷つけることをあの人は何も知らない。

 

 私は部屋に帰ると、ありったけの薬をお酒と一緒に飲み込んだ。そうすることでしか、今のこの心の苦しいもやもやから逃れる術を知らなかった。

「ううううっ」

 悔しかった。悔しかった。

「クソッ、クソッ」

 湧き上がる屈辱と怒りに任せ、私は何度も何度も枕を叩いた。

 心を、心の大事なところを無遠慮にえぐられたような、土足で踏み入られたような、そんな屈辱的な惨めさが、私の絶対に守りたかった絶対に侵されたくなかった大事な部分を、ガリガリガリガリと遠慮会釈なくその芯の神経を刺激するように、それが終わった今も削り傷つけていく。

「何であんな奴にあんなことを言われなきゃいけないの」

 あんな奴、二度と会いたくなかった。二度と・・。

 結局、泣くことしか出来なくて、私は泣いた――。

 

 泣くことにも疲れ、あまり効かない薬の効力も切れ始めた頃、ベッドに大の字になって天井を見つめる私を、堪らない虚無感が包み込んでいく。

「もう疲れたよ」 

 もう、苦しむことにも疲れた。悩むことにも疲れた。この苦しさを分かってもらえないことにも疲れた。

「誰か殺してくれ・・」

 私は、虚しく呟いた。

「・・・」

 もう誰かに私を殺して欲しかった。

「誰か・・」

 もう、そんな声を出すことにも疲れてしまった・・。

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