あの子
――人を求めれば求めるほど、人は孤独になっていく――
これは誰の言葉だったろうか・・。私?
ここのいいところは、みんな病人だということだった。ここでは私は特別じゃなかった。ここでは私は一人じゃなかった。ここでは私は孤独じゃなかった。似たような人がたくさんいる。私よりも、重症の人もたくさんいる。
でも、私は孤独だった。堪らなく孤独だった――。
「僕は不安神経症でね。胃がんじゃないかって医者に行ったら、胃潰瘍だってさ。心配し過ぎで胃潰瘍になってたんだ。笑っちゃうよね」
田部さんはいつもよくしゃべる気さくな人だった。不安神経症とはとても思えない、いつも冗談を言う、とてもひょうきんな人で、見た目もふっくらとした体にオットセイみたいな顔と、どこかコミカルな容貌をしていた。
「何がきっかけだったか忘れたんだけど、確かテレビでなんかそういったドラマかなんか見た時にたまたま胸にちょっと痛みが出たとかだったと思うんだけど・・、心臓発作になるんじゃないかって、突然そんな不安が出てきてさ、そこからお風呂に入れなくなってね。半年」
「半年!」
最後にさりげなく言ったその期間に私は驚く。
「全然そんな兆候もないし健康診断で言われた訳でもないのに。笑っちゃうよね」
「・・・」
半年はなんか笑えなかった。でも、話はなんかおもしろかった。
「僕は車の運転できないんだよ」
「免許ないんですか?」
「免許はあるんだ」
「?」
意味が分からなかった。
「車運転してるとさ、人を轢いたんじゃないかって不安が出てきちゃってさ。全然轢いてもいないのに、何度も車から降りて、車の下とか調べまくっちゃうんだ。ちょっとコンビニ行くだけで、歩くよりも、ヘトヘトになっちゃってさ。笑っちゃうよね」
田部さんはいつも最後に笑っちゃうよねと言って、自ら笑った。
「コンサートとか行こうとしてさ、家を出ても、ストーブ消し忘れたんじゃないかって、家に飛んで帰ってさ。もちろん出かける前に何回も確認してんだよ。三十回くらい」
「三十回!」
その数に私は驚く。
「もうそれだけでくたくただよ」
「・・・」
それはそうだろう。想像しただけで疲れる回数だった。
「そして、家に帰ると、結局、消えてるというね。コンセントまでしっかり抜けてるし。それで、せっかく買った高いチケット全部パア。そんなことが一度や二度じゃないんだ。笑っちゃうよね」
ここまで来ると笑っていいのか同情していいのか分からなかったが、でも、私はやっぱり笑ってしまった。
「首の筋がさ、すごく痛くて、触るとさなんかコリコリするんだよ。これはもしかして、悪性腫瘍か、甲状腺がんか何かじゃないかって思ってさ、医者に行ったんだよ。医者に行くのにも滅茶苦茶不安で、行くだけでそれはそれですごい大変なんだよ。でもさ、そんな思いまでして行った医者にさ、「ただの肩こりです」って、あっさり言われちゃってさ。笑っちゃうよね」
「・・・」
田部さんの話は、聞いていると笑っちゃうけど、本人は本気で大変そうだった。
「僕の知り合いの不安神経症の女の人はさ、自分が乳がんじゃないかっていう強迫観念があって、何度も医者に行きまくっててさ。そしたら、ある日本当に見つかっちゃってさ。でも、発見が滅茶苦茶早くて、医者にこんなに早く見つかった人は今までにいませんて言われたっていうね。笑っちゃうよね」
「いいこともあるんですね」
「うん、まあね。でもさ、ほんと生きてくの大変なのよ。もう、なんか 人生がそのままギャグなんだけどさ」
田部さんは心底しんどそうに言いながら自虐的に笑った。その言い方に、本当に辛いんだろうなと思いながらも、でも、なんかそんな田部さんのそんな姿にまた私はつい笑ってしまった。
あの子だった。あの新しく入って来た子――。
その子は一人窓辺の席で窓の外を見ている。まるで、一人公園の片隅に立つ、すべての人に忘れ去られた孤独な少女像のように、その何とも言えない陰りを含んだ横顔が、普通の子と違う何かを滲ませていた。
「私は小さい時から実の父親に犯されていたの」
淡々となんの感情の抑揚もなくその子は言った。
「・・・」
美由香が言っていた通りだった。美由香は一体どこからいつもそういった情報を仕入れてくるのだろうか。
「ずっと精神的にも支配され続けてきた。ほんと、今考えると奴隷だったわ。色んな意味で・・」
「・・・」
私には想像もできない世界だった。話には聞いていたそんな世界が本当にあるんだということに、私は戸惑う。
「誰にも言えなかった。というか、あまりに幼くて、何が起こっているのかが分かっていなかった」
やっぱりその子は、淡々となんの抑揚もなくしゃべる。
「おばあちゃんが、父の母が、すごく過保護な人で、いつも何があっても父を庇うの。小さい頃から父を溺愛していたの。だから、家族はみんな知っていたけど、表には出なかった。母さんだって知ってた。絶対」
そう語る、間近で見る彼女の肌は異様に青白かった。
「やっと中学生になった時、私が学校でぶっ倒れて、時々、私が私を上から見ているのって言ったら、たまたま中学校の保険の先生がそういうのに詳しい人だったから、事情が明るみになって、児相に保護されたの。なんか解離ってのを起こしていたらしい。性虐待を受けてる子はなる子が多いんだって」
「・・・」
「もう大丈夫よって言われた。最初に児童相談所の施設に入った時に職員の人にそう言われた。私もその時はそうなのかと思った。もう大丈夫なんだって。でも、なんか、もう今さら大丈夫よとか言われても、壊れた自分を取り戻せないの。そのことにすぐに気がついた」
彼女の目には人が持つべき生きている光がなかった。
「私は今でも支配されている。あの人に」
小さく呟くようにその子は言った。
「むしろ離れたらよけいにリアルに、思い出すの。五感のすべてであの時の光景が鮮明に再現されて、私に襲い掛かって来るの。寝る前とか、夜電気を消してベッドに横になると、あの時の記憶が鮮明にフラッシュバックして、パニック発作が毎晩のように起こるの。あの人が私の上に乗っているの。あの時の辛い感情も音も感触も臭いもすべてがリアルに私の深い感覚の奥に流れ込んできて、もうどうしようもないの。忘れようと、考えないようにしようとかしてもダメ。もう自分の意志ではどうしようもないの。私は怖くて怖くて、泣き出してしまう。そして、そのまま嗚咽を漏らしたまま一晩中そんな苦しみにのたうって朝まで眠れない。そんな日々が毎日続くの。怖くて怖くてどうしようもないの。もうここにあの人はいないんだって分かっているんだけどどうしようもないの。怖くて、不安で、苦しくて・・」
「・・・」
「私は今も犯されているの。毎日毎日、犯され続けているの。終わってなんかいない。全然終わってなんかいない」
「・・・」
「いつもいるの。今もいるわ。いつも私の傍に、私の中にあの人はいる。
私の体にねっとりと同化するみたいに張りついている」
「・・・」
「多分、一生張りついてるんだわ。私が死ぬまで」
「・・・」
あまりの話に私は何も言葉がかけられずただ黙って彼女の話を聞いていた。
「いつも吐き気がして、胃が痛くて、頭が痛くて、ちょっとしたことでパニックを起こして気を失うこともある。ちょっとしたことに怯えて、不安で叫び出したくなる。それが私の毎日」
彼女は、そんな壮絶な話を、やはり、なんの抑揚もなく淡々と話をする。まるで他人の話をするみたいに。
「毎日が不調で、いつも体の調子が悪くて、健康っていう感覚をもう完全に忘れてしまった」
「・・・」
「保護されてから、少し落ち着いたある日、私は何もかも失ったんだって気づいた。何もかも・・」
彼女はどこか遠い目をした。
「私の人生もきれいな体も心も、そして家族も・・」
そこで初めて彼女は少し悲しそうな顔をした。
「家族もバラバラになっちゃった。事件が明るみになって、両親は離婚、弟は家出、地元にいられなくなって、家族はみんなどこかへ行っちゃった。一家離散」
「・・・」
「みんな私が悪いんだって。母さんが言ってた」
その時、彼女は、薄っすらと笑った。
「・・・」
私はその笑顔に、少し背筋がゾクりとした。
「・・・」
その後、彼女は窓の外を無表情に見つめた。
「もう、終わってたんだって」
「えっ」
彼女がまた突然しゃべりだし、私は少し驚く。
「もう私の人生は終わってたんだって、気づいた。もう終わっていたのよ。だから、何をしても無駄だったんだわ。ようやく気づいたの。バカよね」
「・・・」
「もう私は取り戻せない一線を越えたんだって分かった。自分を取り戻せる線て多分あるの。その線を越えなければ、壊れた自分を取り戻すことができる。傷ついた心を癒すことができるの。でも、それを超えたらもうダメ。体も一緒でしょ。治るラインともうダメなラインがある。それを越えてしまったらどんな治療をしても死んでしまう」
「・・・」
私はその一線を越えたのだろうか。まだ越えていないのだろうか・・。
「でも、もうどうでもいいの」
「えっ」
「もうどうでもいい」
独り言みたいに彼女は言った。
「何も感じないの」
「・・・」
「もう何も感じないのよ」
その子は窓の外の上空に灰色に広がる雲を見つめた。
「灰色な世界がただ広がっているだけ。どこまでもどこまでも。ただそれだけなの」
彼女は言った。
「それだけなの・・」
「・・・」
その世界をなんとなく、私も知っている気がした・・。茫漠と続く果てしない灰色の世界・・。




