夏生の話
「どう?最近、落ち込みは」
医者が訊く。今日は診察の日。目の前に座るのはまだ若い、感じのいい医者だった。
「ないです」
薬を飲んでいる時だけ。
「そうよかった。不安は?」
「ないです」
薬が効いている時だけ。
「そうよかった」
「・・・」
薬が切れたら堪らない不安が襲ってくる。その不安を消すために薬を飲み、それが切れると、禁断症状でより強い不安が襲ってくる。私は何をやってるんだと、自分で自分が、なんだかもう訳が分からなくなっていた。
「夜、眠れる?」
「いえ・・」
「じゃあ、お薬もうちょっと強いの出しておこうね」
「・・・」
――いつからだったろう。世界がざらついて見えるようになったのは・・。窓の外を見つめると、ゴッホの晩年の風景画のように世界が暗黒に渦巻き、歪んで見えた。不吉なカラスが飛び、汚れた湖の底に溜まるヘドロのように世界は淀んでいた――
「・・・」
私は、病院の窓の外を見つめる。
それが今、はっきりと見える。はっきりとそのざらついた世界の淀みが見えた。私の目の前の世界は暗く歪んでいた。
「誰か私を救って。私を助けて、お願い・・」
私は夢の中で泣いていた。胸の中が悲しみでいっぱいだった。
「・・・」
私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。私は一人ベッドで目を覚ます。
夕方に目覚めると何でこんなにいつも寂しいんだろう。窓から差す、夕暮れ時の薄れゆく日の光の残滓が、私の胸を胸いっぱいに寂しくした。
「夏生は何でここに入院してるの?」
夏生は、明るく快活な子だった。普通の子よりも元気に見える。
「あたしはアル中」
「アル中?」
私は夏生を二度見してしまった。どう見ても私とおない年くらいにしか見えない。
「うん、お酒やめらんなくてさ」
「そんなに飲んでたの」
「うん」
その若さで病院に入院するほどの飲酒量ってどんなだろうと私は驚いた。
「二十四時間酔っぱらってたわ」
「二十四時間・・」
「寝ている時以外はいつも酒飲んでた」
「そんなに・・」
逆になんかすごかった。
「現実を見たくなかったの・・」
「・・・」
それは分かった。ぼそりと言う彼女の言葉に私は激しく共感した。私も辛い現実から逃れたくて食べまくっていた。彼女の場合は、それがお酒だったのだ。
「一年経たずかな。アル中になったの。手が震えてさ。幻覚とか見え始めて、最初は無視してたんだけど、死んだはずのおばあちゃんが立ってるんだよなぁ。部屋の片隅に」
夏生は私を見る。
「おばあちゃん私が小学生の時に死んだはずだよなぁって、思って、それ見て、あっ、あたしやばいって思ったの。幻聴も聞こえてさ。酔っぱらってベッドの上にぶっ倒れてたら、隣りの家から、殺される~って叫び声が聞こえて、思わず家飛び出して隣りの家の前に行ったからね。警察呼ぼうかめっちゃ迷ってさ。呼ばなくてよかったよ。次の日めっちゃ普通に生活してたからね。隣りの人」
「あははは」
私は夏生の話し方に思わず笑ってしまう。
「まあ、自分でもびっくりしたよ。こんなに早くなるんだって。アル中なんておっさんがなるもんだと思ってから」
「そうなんだ」
「明らかにおかしいからさ。家族に病院連れていかれてそのまま即入院」
私も家族にここに入れられた。
「滅茶苦茶禁断症状きつくてさ、滅茶苦茶幻覚とか出てくるし、なんか看護婦さんが私を殺そうとしてるって思い込んでてさ。そういう妄想が出てくるんだよね。めっちゃ怖かったよ」
「そうなんだ」
「そして、今」
そして、夏生は脱力するように言った。何かを達観したような言い方だった。
「何とか酒は抜けて幻覚とかは消えたんだけど、酒ぇ~って感じなのよ」
「まだ飲みたいんだ」
「うん、滅茶苦茶」
私も過食の再発をやらかしたばかりだった。
「あと、あたしさ、過食もあるんだよね」
「それは私もある。今は拒食だけど」
「過食って金かかるよね」
「うん」
「マジで、食費半端なかったな。酒代もあったからな。どうやってやりくりしてたんだろ。マジ不思議。月二十万くらい使ってた気がするんだけど、生活費と別に食費だけで」
「・・・」
私は親の財布からお金を盗んでいた。あれほど罵倒した憎い親だったのに・・。そんな矛盾した卑劣な自分を思い出すと、死にたくなった。
「あたし、こう見えていじめられっ子だったんだよね」
夏生が突然言った。
「えっ、そうなの?」
「うん」
「・・・」
全然そんな風には見えなかった。
「なんかダメなんだよね。みんなとうまくやっていくとかそういう協調性がないっていうか。社会性がないっていうか」
「・・・」
それは私もだった。
「特にあの教室の中の独特の人間関係がまったくついて行けなくてさ」
「うん、分かる」
私もだった。
「小学生の時さ、校長先生が言ったんだよね。大体どこの学校でも朝の校長先生のお話ってあるじゃない」
「うん」
あれは、退屈で人生の中でまったく意味のない時間だった。
「あれでさ、もしいじめられている子がいるなら、こっそり、校長先生にだけ教えてくれないかって。そしたら、誰にも言わないし、校長先生が全部解決してあげるからってさ。すっごい、やさしい気さくな感じで言うのよ」
「うん」
「私さ、バカ正直に行っちゃったんだよね。校長のところに。それ信じてさ」
「・・・」
「そしたらさ、分かった。大丈夫、もう大丈夫だからねって笑顔で校長先生が言ったの。そして、頭をなでてくれた。よく言ってくれたねって。君は勇気があるって、ほめてくれた。校長先生が、私みたいな一介の小学生にさ、そう言うんだよ。私はやったって思った。もうほんと、有頂天。しかも、これでいじめがなくなるんだって本気で思った」
夏生はそこで、自嘲気味に笑った。
「でも、次の日。私の担任の綿谷って女の先生が全部知ってた。誰にも言わないって言ってたのに・・。そして、いきなり一時間目からお昼まで授業全部潰してぶっ通しで、クラス会。もちろん、お題は私のいじめに関して。もう最悪よね。もちろんいじめっ子が私がいじめましたなんて言うわけないし、話し合いなんか全然最初っから意味ないの。それでまた、担任がまた山田さんの何が嫌なのとかよけいなこと訊くのよ。みんなに。そしたら、みんなが口々に言うの。山田さんは気持ち悪いんだもんとか、汚いんだもんとかさ、キモイとか、臭いとか、ウザイとかもう散々言われまくってさ。ただ私が一人みんなのさらされ者になって、四時間針の筵で終わったわ。いじめよりきつかったわよ。マジで死にたくなった」
「・・・」
私も小学校二年生の時に、同級生の田代君といういじめられっ子のクラス会が開かれて、でも、それは逆に彼をクラス全員で非難する会になってしまい、ただただ見ていていたたまれなかったのを覚えている。
「しかも、次の日からチクリ野郎っていう汚名もくっついて、さらにいじめられるわけ。チクリって一番嫌われるのよね。どこの世界でも」
「・・・」
「いじめなんて全然、なくならないどころか、より陰湿に酷くなったわ。規模もクラス全体になったし」
「・・・」
「大人の言うことなんて真に受けちゃダメね」
夏生はため息交じりに言った。
「私はそれを学んだわ。やっぱ弱い奴は声を上げない方が無難よ」
夏生は胡坐に肘をのっけて頬杖をつきながら、悟ったように言った。




