思い出
――開いた窓。その横で空気清浄機が音もなく回っていた。まるで、その小さな体で世界のすべてをきれいにでもしようとするかのように――、まるで地球を丸ごときれいにでもしようとするかのように――、まるで音を失った世界のように、静かにそれは動き続けていた――
「・・・」
私は、いつものように薬を飲み、共有スペースのソファに半分寝そべるように座り、そんな意味のないことをボーっと思い出していた。今日も世界は何ごともなく、平和で、豊かで、絶望だった。
――幼い頃、兄と一緒にお風呂に入っていた時、外国映画で見る泡ぶろを再現しようということになり、二人でせっせとシャンプーや石鹸を湯舟に投入して泡立てようと試みたが、なかなかあの映画のようには泡が立たず、結局、シャンプー一本湯舟に入れてしまい、大変なことになってしまった。両親からはこっぴどく怒られ、これまた大変な目にあった――
しかし、今は、なんだかあれは楽しかったなとなんとなく思える。
「・・・」
なんだか最近くだらないことばかり思い出す。人は死が近づくと、やたらと昔のことを思い出すと何かの本に書いてあった気がする。私はもうすぐ死ぬのだろうか。私は漠然とそんなことを思った。
私は、レクリエーション室に一人立つ。レクリエーション室中央に置かれた卓球台。ここでは意外と卓球が人気だった。だから、卓球台はいつも誰かが使っていて、なかなか空いている時間がなかった。でも、運よく卓球台が空いていると、私たちはよく、ここで卓球をした。みんなものすごく下手なのに、なぜかいつもすごく盛り上がった。空振りとか、大ホームランとか無茶苦茶だったけど、私も美由香も玲子さんも真紀も、みんなその度にお腹を抱えて笑いながらピンポン玉を追いかけた。あの頃は、下らないことでもなんでもすべてが楽しかった。あの時はすべてが輝いていた。それが友だちがいるということだった。それが仲間がいるということだった。
「・・・」
それはちょっと前の出来事なのに、もうはるか遠く昔のことみたいな気がして、胸が寂しさにちくりと痛んだ。
――あれは小学校四年生の時だった。夏休みが明けたその最初の登校日。教室に入り、鞄を机に置いた、その瞬間のあの重たい絶望感。私の周囲では私以外のすべてが、明るく喜びに満ちていた。その中でたった一人震えるような絶望に打ちのめされている私――。これから始まる二学期の長さが、そのまま私の絶望の重さだった――
あの時の絶望を今も、すべての五感と毛穴で私は思い出す。私にとって学校は辛い以外何ものでもなく、五臓六腑すべてが軋むほどの苦しみだった。でも、学校が楽しくてしょうがなかった母にはまったくその思いは伝わらなかった・・。
――小さい頃、私はいい子で大人しく、学校の成績もよかった。だから、うちの母は近所の人や親戚からよく羨ましがられていた。「いい子ねぇ、羨ましいわ」小さな私の頭のはるか上で、大人たちのそんな言葉を何度聞いただろうか。でも、私は、そんないい子の影で、いつも自分が今生きているこの世界に、不安と違和感を感じていた。私の心は絶えず、バランスを欠いて積み上がった積み木のように、不安定で危うい世界の中にいた。摂食障害はきっかけに過ぎない。私はすでに、その前からいつ壊れてもおかしくなかった――
摂食障害で私は壊れたんじゃない。私はもともと、いつ壊れてもおかしくなかった。そういう子どもだった。そう、摂食障害はきっかけに過ぎなかった――。
いつだって私は不安定で不安だった。それが私だった。
――食べたい。食べたくない。食べたい。食べたくない。私はいつも分裂している。分裂した相反するまったく別々の私が同じ私の中に同居している。相反する私がせめぎ合い、葛藤し、そして、私は自ら壊れていく――。それが私だった――
「少しでも食べなきゃだめよ」
看護婦さんが、食堂の席に一人座り、夕食とにらめっこしている私の隣りに来て言う。今日の献立は、鶏もも肉のクリーム煮込みだった。
「・・・」
でも、私は黙って目の前の食事を見つめるだけだった。食欲があるのかないのかよく分からなかった。でも、これを口にしてしまったら、何かが壊れてしう気がして、私は怖かった。




