過去を救っても今が変わらないとすれば、過去を変える意味はあるのか
ゴールデンウィークは明日から。企業説明会はひと段落し、エントリーはあらかた終え、あとは相手方の反応を窺うだけ。休み前に連絡が来るのか、後かは企業によってまちまちだが、落ちているのに連絡がなく、最後まで期待を持たせる、『サイレントお祈り』の嫌がらせも存在し、『内定辞退』を持つ就活生とは、毎年良い戦いを繰り広げることになる。両者とも必死という訳だ。
メールボックスを見ると、一件、通知があった。本文の案内から就活生用ページに飛ぶと、新着のメッセージが入っている。
『選考結果について』と素気なく書かれた標題に僕はため息を吐く。メールを開く。
『あなたの益々のご活躍を――』
定型文のお祈りメールだった。最後まで読まず、直ぐにログアウトする。時計を見た。五時三十分、待ち合わせには時間があるが、もうすることがない。僕は気持ちを切り替え、直ぐに家を出た。
下宿先近くのファミレス。今は夕食の時間で店内は家族連れでそこそこ賑わっていた。
「どんな結果になった?」と自分の注文を終え、高木が言った。
この一週間、僕は自分の身に起きた現象に対して色々と実験を行っていた。一つ目、起き続けたらどうなるか。二つ目、寝続けたらどうなるか。三つ目、未来予知は可能か。
「まず、徹夜な。向こうの自分はびっくりしてた。こっちが徹夜すると向こうの日が一日飛ぶんだよ。体調不良で休みになっていた」
「なるほどな」と呟いてから、彼は疑問を口にする。
「不審に思われなかったのか? 高校生の丹野は一日寝てたってことだろ?」
「自分しかいなかったから、一日寝てたとは思われてないんだろう。次の日、前島先生には怒られたけどな」
「前島先生か。懐かしいな。今でも先生やってるのか?」
「分かんないな。学校のウェブページにも載ってなかった」
「ご注文のチーズインハンバーグのセットになります」
高木はスマホを持ち上げ、背もたれに身をひいた。店員さんがテーブルの上に置く。じゅうじゅうと音を立てる。デミグラスソースの香り。高木はナイフでハンバーグを二つに切ると、真ん中からチーズが溢れ出した。一口サイズに切りながら、高木は言った。
「それで、次は?」
「睡眠薬のやつな。どんなに早く寝ても、向こうで起きるのは夜明け後だな」
「いつ寝ても同じなのか?」
「そう。ただ、別に日付が変わっても日が飛ぶとこはないけど、日の出までに寝ないと飛んでしまう。そして、早く寝ようが、日の出の時間前に起きることはない」
「日の出の時刻が鍵か。じゃあ、昼寝は?」
「普通の夢を見る。いつもの昼寝と同じだ」
「なるほど、日の出の時間に起きているか、寝ているかで変わってくるのか。向こうの時間を大切に使いたいなら、日の出前には寝ないといけないとな」
高木はハンバーグとライスをまとめて口に運ぶ。
「そう、だからさ」と、返事ができるようになるのを待ってから僕は言った。
「時折、紹介してもらった先生から睡眠薬を処方してもらおうと思ってる」
彼は僕に視線を向ける。そしてまたハンバーグに向き直り、言った。
「ああ、いざと言う時のために必要だろう。お前のせいで大事なデートをすっぽかしたら、向こうの自分から何言われるか分からんしな」
――そう、いざと言う時のため。僕は心の中で言った。
「次は、未来予知の件か。宝くじはタイミングが良いのがなかった」
一応調べたが、六年前の当選番号が載っていたのは大々的に宣伝しているような宝くじのみだった。新春は終わり、次は夏。そこまでは待っていられない。
「じゃあ、ほかに何か分かったのか?」
「ああ、参考になりそうなものを見つけた」
僕は印刷した一束の記事をカバンから取り出し、高木に渡す。彼は一目見て「なるほどな」と呟いた。
「有名人の死亡記事か」
六年前の四月二十日から四月二十七日の間で病気や事故で亡くなった有名人の記事を集めたものだった。
「そう。六年前の事件って残ってないものなんだよ。必要なのは早く結果が分かるもの、そうしたらここに行き着いた」
「で、結果はどうだった?」
「一日の狂いもなかったさ。このままじゃ、彼女の自殺は避けられない」
「時間もか?」
「多少ずれてはいるが、『十分頃』が『二十分頃』に変わったぐらいだ」
「死因は?」
「今のところ、全て一緒だ」
高木は「そうか」とだけ言って、立ち上がった。僕の怪訝な顔を他所にドリンクバーに向かう。コーヒーを入れ、フレッシュを持ってくる。その様子を僕はじっと眺めていた。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「いいか、今から予測を言う。これは、天気予報だと思って聞いてくれ。『彼女はたぶん直近は問題ない、だが、一ヶ月後は分からない』」
「どう言うことだ? たしかにずれてはいるが、一週間で十分ぐらいだぞ? 八月だとしてもよくて一日ぐらいだろう?」
高木はフレッシュを入れようとした手を止める。
「初期値鋭敏性って知ってるか?」
「聞いたことないな。初めて聞く言葉だ」
「そうか。じゃあ、カオス理論は?」
「名前なら。あれだろ? 蝶の羽ばたきが竜巻を起こすやつ」
「そう。正確にいうなら、ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを起こすのか?」
聞いてみれば、たしかにそんな風だった気がする。
「言ってる意味はなんとなく分かってきたぞ。僕が夢の中で起こしている現象は蝶の羽ばたきってことだろ?」
彼は頷き、コーヒーカップを目の前に押し出す。
「初期値鋭敏性っていうのはな、同じ方程式に似たような値を入れても、結果が大きく変わってくる現象をいうんだ。今、ここにフレッシュを入れると、コーヒーの対流によって徐々に混ざっていく」
差し出したコーヒーにフレッシュを一滴垂らす。白いフレッシュは黒いコーヒーの上に幾何学的な模様を付けた。高木はなおも続ける。
「そこで全くコーヒーを用意してもう一度同じことをする。そうすると、どうなると思う?」
「多少は変わってくるが、大体同じだろう?」
彼はフレッシュを全て入れ、スプーンでかき混ぜる。コーヒーに描かれた白い模様が渦を巻き、混ざりあった。
「いいや、全く予測できなくなる。最初は同じ挙動を示すが、徐々に大きく外れる。これが初期値鋭敏性だ。なぜか? 同じ条件なんて与えられないからだよ。店内が二五度の設定とする。じゃあ、二五度は本当に正確か? 二四.九九九度じゃいけないのか? どこまで正確なら答えは一致する?」
高木はコーヒーを一口飲んで言った。
「世界なんてそんな割り切れるものじゃないのさ」
「だったら、事件の日を知る意味なんてないじゃないか」
「意味ないことはない。方程式が分からない以上、どこから外れてくるか分からないんだ。もしかしたら、一年間は一緒かもしれないだろう? 天気予報と一緒だよ。数日間の予報は当たる。だがな、その先は全く予想できない」
「僕に出来ることは、事件の詳細を掴むことだけか」
「そう、出来る限り詳細なデータをな。彼女の様子は向こうの丹野に任せるしかない。極力目を離さんようにすべきだ」
「ストーカーになれってか?」
僕の言葉に周りの客が反応し、こちらを見た。世間は人間関係のトラブルには地獄耳らしい。高木は小さい声で言った。
「ストーカーになる必要はないさ。向こうのお前と中里の様子はどうだ」
「良い感じだな。正直言って、羨ましい。僕もあんな青春を送ってみたかったな」
僕が夢見がちにため息を吐くと、高木は予想通りのため息をついた。
「だから言っただろう。まあ、今はそこはいい。何か情報はあったか?」
僕は腕を組んで天井を見上げた。
「そうだ、知ってたか? 高校の屋上って、文化祭前は鍵が貸し出されて、先生不在でも登れるんだよ。彼女がどうやって屋上に行ったかようやく分かった。でも、なんで知ってたんだろうな?」
意外にも高木はその言葉に「そういうことか」と納得の様子で頷いていた。
「何か分かったのか?」
「丹野は知らないのか。選択が違ったもんな。垂れ幕あっただろう? 文化祭の時に」
「あったな、何年度文化祭ってやつ。いつもたち筆なんで印刷かと思ってた……おい」
僕は驚きのあまり、思わずコップの水を一気飲みした。
「そうだ、あれを書いたのは彼女だよ。選択科目が同じ書道だったからな。これで、謎は解けたか?」
「彼女が屋上に行けた理由は分かった。屋上での飛び降りを止めたいなら、鍵を先に持っておけばいいわけだ。ただ……」
僕の懸念を見透かすように、高木は続けた。
「それじゃあ、解決にはならんだろうな。根本的な原因を解決するしかない。それは、まだ分からんのだろう?」
僕は頷いて答える。
「今のところな。少し大人しくなっただけで、何か問題を抱えてるようには見えない」
個人的か、家庭内か、学校内か。問題が既に起きているのか、いないのか。それは、過去と今、今後考えるべき僕らの課題だ。
「ゴールデンウィークはどうするつもりだ?」
僕が口を閉ざしたのを気にしたのか、高木から話題を変えた。
「今年は帰る。向こうに戻るのは明後日からだけど。調査のためにもね。ネットで当時の事件を探してもやっぱりなくてな。地元の図書館の新聞になら載ってるんじゃないかと思ってる」
「なるほど、張り切ってるな」
「張り切ってるわけじゃない。高木は帰らないのか?」
「俺か? 特に帰る予定はないな。ゴールデンウィーク明けから仙台で学会があるんだよ。その準備だ」
「そうか、残念だな」
こいつが帰るなら、調査に付き合ってもらおうと思っていたが。これは僕の問題だ。僕は立ち上がり、伝票を掴んで言った。
「そろそろ、出るか」
僕らは会計を終えて、外に出る。既に日は落ちていて人工的な明かりが周囲を照らす。まだ四月下旬、夜に半袖でいるのは少し肌寒い。高木は「じゃあ、調査の結果を教えてくれよ」と言って、自転車に乗って離れていく。僕はその背中を見つめていた。
――羨ましい、なんてレベルじゃないさ。
僕は一人、星の見えない夜を、下宿先に向かって歩いた。