時計の針を巻き戻せるのは夢の中
時計の針を巻き戻したくなる瞬間、というのは、誰にだってあるはずだ。
たとえば、今。
夏の日差し。煩わしい蝉の声。寝坊した日の朝は、昨日の夜に戻りたくて仕方がない。夏休みも終わりだというのに、今日は朝から既に、猛暑の兆しを見せていた。
正門前にのびる坂。
僕は今日、何度目になるか分からない舌打ちをして、必死に自転車を漕ぐ。
髪から流れた汗は地面を濡らすことなく、目の中に入った。思わず片目を閉じる。なんとか我慢して駆け上がり、正門に辿り着く。自転車を止め、シャツの袖で汗を拭った。
正面に見える校舎には、『第六十五回!苅屋高校文化祭!』と書かれた垂れ幕が、風を受けて揺らめいていた。毎年の恒例で、学祭は九月の第二土曜日から始まるが、夏休み終盤の晴れた日に、一度垂れ幕が降りる。理由は分からない。これも、僕が通う高校の恒例だった。
見上げた視界の端に影が映る。
屋上に女子生徒が一人、立っていた。
……なぜ、屋上にいるのだろう?
ふと湧いた疑問は、彼女の顔を見たら掻き消えた。
僕は彼女を知っている。
おそらく、向こうも僕を知っている。
彼女が動く。
目があった。
……ような気がする。
僕は周囲を見る。
遅刻ギリギリの時間。
見える範囲には誰もいなかった。
「あっ」
彼女が落ちる。
ゆっくりと。
体にまとわりつく夏の暑さも、耳に響く蝉の声も、全ては遠く。
今の僕には彼女しか見えていない。
そして――
彼女はこの世を去った。
僕は彼女のことを何も知らなかった。
その年の文化祭は中止だった。
それは、六年前。高校三年、夏の出来事だった。
「…………」
――ちょっと待て。
――六年前ってなんだ。
時系列がどこかで狂っている。頭の片隅にふっと沸いた思考は、瞬く間に僕の脳を支配し、夏の暑さ、蝉の声、目の前で起きた悲劇、全てが霞んで消えていく。
僕は目を覚ました。
そう。やはり、時計の針を巻き戻したくなる瞬間は、誰にだってあるはずなのだ。