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小学生の太平洋戦争

作者: 笠原正雄

プロローグ


 随分昔のこととなりましたが、昭和18年(1943年)4月私は神戸市須磨区の板宿国民学校(註1)に入学しました。

 当時はまさに大東亜戦争(註2)の真っ只中でした。


 世の中はいわゆる“銃後の守り”という張りつめた緊張感の中にありました。


 こんな時代を5~8才という年齢で過ごした私の幼い目に映った戦時中、そして8~10才の年齢で過ごした戦後の大きな混乱を幼い子供の目がどのように見つめていたかお話ししたいと思います。


 太平洋戦争を後世に語り継ぐ一つの資料としてお読みいただければ誠に有難く思います。


おことわり


(註1)

 昭和16年に「尋常小学校」から「国民学校」へ、昭和22年に「国民学校」から「小学校」となりました。

 必要なとき以外は一般に「小学校」という表記をさせていただきます。


(註2)

 戦時中、「太平洋戦争」は「大東亜戦争」と呼ばれていました。

 必要なとき以外は一般に「太平洋戦争」という表記をさせていただきます。


パートⅠ:大将と“要養護生”


父の勤務先の都合で、東京から神戸の(いた)宿(やど)に転居したのは2歳の夏のことです。時はまさに太平洋戦争(当時の呼び方は大東亜戦争)に突入する直前です。


 読者諸賢には


「あぁまた戦争の苦労話を延々と述べるつもり?」


と思われるかも知れませんね。


 しかし、中高時代、先生方から戦中戦後に如何に不自由し如何に苦労したか、といった話を聞くことはあまり好きなことではありませんでしたから、そんなお話は例えあったとしても、ここで長々とつづることは私の好みではありません。


 とにかく幼少年時代物心がつき周囲を見渡すと、そこは日本と米国が(やいば)を交える“いくさ場”、壮絶ないくさ場でした。


 しかし我身に痛みを感じない限り幼児は幼児です。

 ライオン群がるケニアの草原で小鹿達が喜々として飛び跳ねるように、子供達は


♪♪♪ かーごめ、かごめ、かーごの中の(とーりー)は……♪♪♪


などと歌いながら輪になって元気一杯遊んでいたのです。


 ある日、近所の仲間達と三輪車に乗って坂道を走り抜けるという遊びに夢中になっていましたところ、ちょっとした弾みでフェンスを乗り越え崖下に転がり落ちてしまいました。


 以来、母に背負われての病院通いとなりましたが、この通院生活が小さな身体に大きな負担を与えたのかも知れません。小学校に入る前、私は肺炎に1度ならず2度までも罹病してしまったのです。


 2度目の肺炎の時には戦争の影響が深刻となり、薬剤が逼迫ひっぱくしたためでしょう、病院からは自宅療養を勧められました。


 医学について何の知識もない母に介護の役が全て任されたのです。

 母の当惑ぶりは想像するに余りあります。母はこの時、もはや我が子は助かるまい神仏に頼るしかない、と覚悟したことでしょう。


 こんな絶望的な状況の中で、救いの手をさしのべて下さったのは隣に住むお医者様の仁木先生でした。まさに奇跡的な救いの手だったでしょう。


 先生は私にとってはお隣の小父さん、仁木先生にとっては垣根越しに、たわいのないお話を楽しめる坊やという関係です。

 仁木先生は開業医でなかったことだけは確かですが、先生のご専門勤務先など、幼かった私は覚えている由もありません。


 仁木先生は、ビルマ(現在のミャンマー)に軍医として従軍されるまでの何ヶ月もの間、1日も欠かさず夜遅くに往診して下さいました。

 毎晩10時頃に病床を訪ねて下さり、私の小さな胸全体に温かい湿布をまいて下さる姿、大きな注射器をかばんの中から取り出される姿を、今も忘れることはできません。


 伊勢(三重県)の浄土真宗のお寺に7女として誕生した母の目には、毎晩来診して下さる仁木先生の姿は、阿弥陀(あみだ)様のように見えたことでしょう。


 ビルマに軍医として従軍された仁木先生が、無事ビルマから帰還されたことを祈るばかりです。


 小学校に入る前の私が、毎晩判子をついたように仁木先生に尋ねることは


“僕、死ぬようなことはありませんね……”


といった内容であったことを今も鮮明に覚えています。


 仁木先生はこんな質問に首を大きく左右に振りながら


“大丈夫!安静にして休んでいたら大丈夫だよ”


と優しく言葉を返して下さいました。


 肺炎が治癒した後も、関節痛等の様々な後遺症に悩まされて、長く寝たきりの状態でした。


 幻聴、これは私にとっては定常状態でした。寝ている間特に真夜中は、“うーうーうー”と間断なく頭の中でサイレンが鳴り響いていました。

 しかし私は母に訴えることは全くありませんでした。世の中は夜になると、こんな風に音が鳴り響いているものなのだと、勝手に納得していたためです。


 夜中胸苦しくなって目を醒ますと、真っ暗な闇の中を巨大な石臼がゆっくり回転しながら私の胸の上にのしかかってきます。

 ずしりずしりと重く重くのしかかってきます。小山のような巨大な石臼の下でもがく私……。


“前にもこんなことがあった。また石臼がのしかかってきた……。ああぁーもう今度はだめだ”


 得体のしれない経験でした。何かの拍子に突然襲ってくる巨大な石臼、一体何であったのか、年齢を重ねた今も時折思い出し自問することがあります。

 このこともまた、母に訴えることはありませんでした。異常なこととは考えてもいなかったのでしょう。


 半年近く殆ど寝たきりという状態でした。


 そんな中での楽しみは絵本、“講談社の絵本”です。

 戦争中でしたけれど、分厚い表紙のカラフルな絵本が子供達のために出版されていました。


 なかでも上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いに、胸を躍らせました。何回も何回も読んでいたと思います。


 太平洋上遙か南の島で戦う兵隊さん達の生活ぶりが描かれた絵本、これは戦争をすることそのものが、楽しいハイキング、ピクニックをしているという感じで描かれていました。

 緑豊かな樹木に囲まれて、眩しい陽の光を浴びながら兵隊さん達が美味しそうなお弁当を食べている姿などが描かれています。


 南の島々で起こっている壮絶な戦いとは全く別な世界が描かれており、絵本を読みふける私の脳裏には、戦争は楽しいもの日本軍が常に勝利するもの、という現実とは全くかけ離れた姿がしっかり展開されていたでしょう。


 寝たきりの坊やの私が一生懸命考えていたこと、一体それは何だったでしょう?


 この答は私の進むべき将来の道です。


“えっ、寝たきりの坊やが将来進むべき道を考えていたって?”


と首をかしげられるかも知れませんね。


 しかし将来の道を懸命に考えていました。幼児語を大人語に翻訳して私が考えていたことを以下に紹介しましょう。


“我が進むべき道は二つある。何れにすべきかが大問題だ”


ということでした。二つある道、それは


“陸軍大将になるべきか?”


“いや、それとも海軍大将になるべきか?”


という大きな問題です。


 絵本を参考にしこの答を求めて考え続けました。一日中考えていたことも少なくなかったと思います。

 結局迷うばかりで、答は見付からないままでした。


 後遺症に悩まされながらの寝たきり状態であった私にとって、最高の楽しみは、小学校2年生の姉が母から勉強の手ほどきを受けるのを傍らで聴講させてもらうことでした。


 「門前の小僧習わぬ経読む」の理屈で、小学校2年までの学習内容の殆ど全てを小学校入学前に吸収してしまいました。母が


“25+37は?”


と姉に筆算を促した途端、私はすかさず大きな声で


“62!”


と頭の中のノートで素早く筆算をして答えます。


 姉は、中学時代に著した作文の中で


「寝たきりの弟が傍らから正解を先に言う。弟を勇気づけるとは思ったけれど、少し口惜しかった」


と述懐しています。


 板宿小学校(当時は板宿国民学校)に入学する日、何とか歩けるまでに体力を回復しました。


 1年生が1学期に学習する唱歌の一節:


♪♪♪こくみんがっこうー、いちねんせいー♪♪♪


を元気に口ずさみながら玄関口に向かいます。


 母が買ってくれたぴかぴかに黒光りする編上げの靴を履き、得意満面で玄関口を2、3歩出たのでしたが、思わず顔をしかめ


「靴が重い!」


と叫んでしまいました。靴が重くて歩けません。


 2歳上の姉は


“真っ黒の編上げの皮靴をはく弟の足はゴボウのように細く、まるでミッキーマウスのようであった”


との感想文を作文に残しています。


 姉は


“こんな弟がイジメの対象にならないか心配して、クラスの様子を外から伺っていた”


と、やはり作文の中で述べています。

 作文では触れていませんが、姉は


“ケンカの強い同級生のこうぞうちゃんを念のため連れて行った”


と笑いながら話していました。姉はしっかり作戦を立てて、私の様子を伺っていたに違いありません。


 今も手元に残されている1年次終了時の成績表(当時、通知簿)を見ると、学校医のコメント欄に冷たく、


“要養護”、“要含嗽(がんそう)”、“疲労要注意”、“呼吸疾患注意”


と記されています。


 当時の神戸市の教育理念が通知簿に記されていますが、これを見ると


              神戸市教育綱領


 一、承詔必謹 国体奉護ノ翼賛国民ヲ錬成スルコト


 一、気魄雄渾 八紘為宇ノ建設国民ヲ錬成スルコト


 一、質実剛健 強靭不抜ノ必勝国民ヲ錬成スルコト


 一、識見高邁 進取敢為ノ創造国民ヲ錬成スルコト


 一、知行一如 勤労奉公ノ生産国民ヲ錬成スルコト



              神戸市校園必行事項


 一 大東亜戦争必勝祈念ヲ国民儀礼ニ併セ行フコト


 二 大詔奉戴日行事ノ徹底ヲ期スルコト


 三 詔勅奉読ノ実修指導ヲ適切ニ行フコト


 四 児童生徒ノ幹部並ニ中堅ヲ錬成スルコト


 五 校園防衛ノ訓練演習ヲ実施スルコト


 六 青少年団及ビ報国隊ノ総合的訓練ヲ行フコト


 七 体力増進運動ノ強化ニ努ムルコト


 八 校園貯蓄組合ノ実績向上ヲ図ルコト


 九 兵器資金トシテ所定額ヲ献納スルコト


 十 工夫創作並ニ勤労生産ノ奨励会ヲ開催スルコト


等々と勇ましい言葉が掲げられています。


 ここで、昨今はやりのクイズ番組ではありませんが、質問を1つ出させていただきましょう。


「体錬科に最重点を置く軍国主義教育のまっただ中、体練科の授業のとき、常に見学しているだけの“要養護生”がクラス代表(当時、級長。校長が任命する)に選ばれるようなことが起こり得るか?」


 読者諸賢は、話の流れから“選ばれ得る”が正解らしいが、戦時中にそんなことはあり得ないこと、と思われるでしょう。

 しかし「門前の小僧効果」により、


「右の者 級長に命ず」


という仰々しい證書、今も手元に残されている證書とともに、私は級長のバッジを校長先生から拝受しました。


 このバッジは神戸市のマークの上に級長という文字が浮かび上がっていますが、あらゆる金属が貴重品となった世情を反映して瀬戸物製でした。


 バッジを受け取ったこの日


“クラスの大将になったのだ!”


と喜び勇み、放課後の掃除を級友にまかせて帰宅しました。

 母に一刻も早く證書とバッジを見せたかったのでしょうね。


 当時の級長はクラスのリーダーとしてふさわしい人物が選ばれていました。


 行進する場合は常に最前列を歩き、


全体(ぜーんたーい)止まれ!”


“敬礼!”


“右むけー!右!”


などと号令を掛けたりしていました。


 養成護生であったとはいえクラスの大将となった私の部下である級友に掃除を任すことは許される範囲内のことと考えたのでしょう。


 しかし翌日のことです。担任の山本先生は、日頃の優しい顔とは打って変わった厳しい表情で


「なぜ、お掃除を休みましたか」


との訊問です。


 私は少しも悪びれず即座に


「大将は掃除などしません!」


と答えました。大将がいつも王様のように振る舞っているマンガなどの影響もあったのでしょう、掃除は部下がするものと勝手に決め、さぼるという感覚は全くありませんでした。


 山本先生は、私の意外な内容の返答に一瞬驚きの表情を見せましたが、直ぐ元通りのきりっとした顔で、


「大将がお手本を示すのです!」


とおっしゃいました。


“なるほどその通りだ”


 すっかり納得して、その日から人一倍掃除に精をだすことを心に決めました。


パートⅡ:一家離散への道


 昭和19年7月「サイパンの戦い」で日本軍が破れると、日本全土がB29爆撃機の往復飛行圏内となって戦況は一変します。

 我国は連日のように空爆を受けることとなりました。神戸も空襲が激しくなります。


 深夜、神戸市上空に飛来する爆撃機を捕捉するためのサーチライトの光が夜空を駆けまわり、警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴り響きます。

 焼夷爆弾が雨あられと降り注ぐ状況でしたが、私の住宅は都心ではなく高取山(標高328m)のふもとにあったことで直接的な被害をまぬがれていました。


 板宿小学校(当時板宿国民学校)に通う道で、目に焼きつく光景のひとつは、電信柱に


“うちてしやまむ”


という標語が2年生の私にも分かるような字で記され、貼ってある光景でした。

 この標語は“米英を撃たないでおくものか”という内容なのですが、私には分かる由もありません。


“うちてしやまむって一体なんだろう?”


 私が想像のかぎりを尽くして到達した意味は、山奥に住む“うちてしやまむ”という大蛇でした。

 夜中に“うちてしやまむ”が襲ってくるのではないか……、そんなことを考えていました。とても不気味でした。


 この頃から神戸市にも厳しい灯火管制が敷かれました。

 我が家にも暗幕が必要な枚数配られてきます。屋内の灯りが万が一にも外に漏れないためです。


 屋内の灯火(ともしび)は豆電球一つ。食事は外が明るいうち早い目にすませて、暗幕を降ろした後はお風呂を長い目に入って、早い目に就寝という生活が続きます。


 夜間、近所の子供達と外で自由に遊べなくなり、閉じこもりのようになった“要養護生”の私を、母は不憫に思い、また夜風にあててはならないと考えたのでしょう、ねんねこにくるんだ上


“お星さまを見に行きましょうね”


と私を背負って外をゆっくりゆっくり歩いてくれました。


 母の肩ごしにいつも目にする夜空、それは圧倒的に美しい世界でした。

 天の川がミルク色にひろがり、無数の星達がキラッ、キラッ、キラッと眩しいばかりに輝いていました。まさに、夜空一杯に広がるシャンデリアを見るが如しという光景だったでしょう。


 月の光もまた現在目にする月の光とは全く強さが違います。

 私を背負う母の姿がまるでシルエットのようにくっきりと路面に描かれていました。


 平成28年の今の世の中、都会そして市街地に住む子供達に何としても見せたい、見せてあげたいと思う夜空の風景です。


“私達人間は宇宙に住んでいる。宇宙に浮かぶ地球、この限りなく美しい惑星を住まいとしている”


ということを子供達は強くつよく感じることでしょう。


 小学校2年の夏、日毎に激しくなる戦火を避けるため、私達家族は大阪市と京都市のちょうど中間に位置する高槻市摂津富田に住む伯父の家に同居することとなりました。いわゆる縁故疎開です。


 摂津富田の国民学校に転入した私でしたが、目に入った光景は板宿国民学校のクラスの風景とは全く異なったものでした。


 小母さんという感じの先生が連日暴力を振るっていました。

 ささいな理由で、授業中に目についた生徒を、教壇に立たせた後、床の上に投げつける、あるいはバケツに水を一杯に入れた上持たせたままにする。次々と繰り広げられるこんな光景に私はショックを受け続けました。


 板宿国民学校1年生の時の山本先生そして2年生の時の大河先生の姿勢。厳しくはあったけれど、常に笑顔を絶やさないで一生懸命に勉強を教えてくれた2人の先生の存在。戦時中の子供達にとって貴重な存在であったことを、このとき悟ったに違いありません。その後、年を重ねるにしたがって、この思いは強くなっていったと思います。


 摂津富田の伯父の家は狭く、両家合わせて9人が生活するには到底無理な住宅環境でした。


 1ヶ月同居をした後の昭和19年9月、父と別れ母姉とともに三重県津市の母の実家に転居しました。


 父はこの年から勤務先が神戸にある通信技術系会社から大阪大学(当時大阪帝国大学)に変わっていました。

 一人暮らしとなった父は、京都の左京区真如堂近くの閑静な住宅街にある母の姉伯母の家に下宿することとなりました。


 母の実家は津市一身田町(いっしんでんちょう)にあるお寺でした。


 昭和40年頃から進んだ右肩上りの高度成長期、お寺の周辺の土地にも都市再開発の波が押し寄せ、4、5階建のマンションがところせましと立ち並ぶようになりました。


 しかし、昭和19年当時は明治大正昭和の時代を経ても町並みに余り変化はなかったのではないでしょうか。


 広い庭の向こうにカキやナツミカンの木、それにスギやヒノキの常緑樹が、はるか向うまで広がっています。

 母の生まれ育った土地の水が、私の身体にぴったり合ったのでしょう。めきめきと体力を回復し、2、3ヶ月も経たないうちに野っ原で同級生達と取っ組み合うほどになりました。

 大の仲良しの田原君、村中君とは相撲に明け暮れる毎日でした。


 雨降りの日にはお寺の御堂で、ドッタンバッタン、ドッタンバッタンと取っ組み合いです。阿弥陀様もびっくり、いやニコニコにっこりだったでしょう。


 田原君の父親は、元力士で幕下まで進んだ人。私達の相撲をいつも腕組みをしながら眺めていましたが、時折見るに見かねたのでしょう。


「待った、待った」


と声をかけた後手とり足とり指導してくれました。

 こんな元力士さんのご指南もあって、3人は立派な豆力士に育っていたに違いありません。


 昭和19年当時六大都市の一つであった神戸市で、いわば都会っ子として育った私は、“緑”“緑”“緑”緑一杯の田園地帯に囲まれた一身田町国民学校に転校することになったのでしたが、カルチャーショックのようなものは全く受けませんでした。


 クラスメート達も“我が町のお寺の男の子”として、つまり身内の人間として迎えてくれたのかも知れませんね。


 神戸市に住んでいた頃、近くに住む母の姉、伯母が我家を頻繁に訪ねてきましたし、また母が学んだ三重県立津高等女学校の友人達が度々遊びに来ていました。


 こんな日は家の中は“伊勢弁”の嵐、嵐、嵐になっているという感じで一日中盛り上がっていました。この嵐にもまれて私も自然に伊勢弁をマスターしていたと思います。


 このことが転校先のクラスで、伊勢弁を自由に使いこなす“ネイティブ・スピーカー”の仲間として、都会っ子の私を受け入れてくれた大きな理由の一つであったでしょう。


 クラス担任の長谷川先生は、戦争の激化で神戸から高槻そして津へと転々としてきた私をとても温かく迎えてくれました。


 一身田町国民学校に登校した最初の日、長谷川先生との間で交わした会話は生涯忘れることのできない会話です。紹介しましょう。


私:「先生、ご不浄の場所を教えて下さいませ」


先生:「えっ!ご不浄!?お便所のことね!」


 こんな会話です。


 神戸では目上の人にお便所の位置を教えてもらうような場合は、“ご不浄”という用語を必ず使っていました。勿論、小学生も例外ではありません。


 今の子供達であれば


「先生!トイレどこ?」


といった話し方になるかも知れませんね。


 少し脱線ですが、日本人の日常話している言葉、言葉遣いは戦時中戦後そして現在と大きく変遷してきているのではないでしょうか。


 このことについては本稿の姉妹編『太平洋戦争の時代を経験した少年の戦後70年』で取り上げることにしましょう。


 母の里に転居した私でしたが、近くの人達は非常に温かく迎えてくれました。


“今のお寺には男の子はいない。ひょっとすると後継者かな?”


と、お寺の後継ぎさんのことを心配する人達は、行く行くは我が町のお坊さんというイメージが私に重なったかもしれませんね。


 一身田町国民学校では太平洋戦争の影が、神戸市の板宿国民学校に比べて色濃くなかったように思い出されます。

 一口で言えばのどかな学校という感じでした。


 電信柱ごとに貼られ板宿国民学校時代、私を悩ませていた


「うちてしやまむ」


のポスターも近くでは見当たりませんでした。


 伊勢(三重県)に来てこの貼り紙から解放されたのです。


 一身田町国民学校の「通信簿」には


       校訓


  我等は身體の健全を圖り

  自治の精神を養ひ禮儀を尚び


  公徳を守り規律を重んじ

  勤勉を主とし之を總ぶるに至誠の徳を以てす


  至誠は天地の大經人倫の要道なれば

  日夜にこの徳を失はざらんことを期す


とあります。内容を繰り返し読んでみましょう。

 この文章は現在の小学校や中学校の校訓として掲げられたとしても、特に異論をはさむ余地はないと私は思います。


 残念なことにこの校訓は、戦後すぐさま削除されてしまったのではないでしょうか。重ねて残念ですね。以下のような自問自答が胸の中に宿ります。


私:“こんな立派な教育思想教育哲学どうして消えたのかな?”


某:“危険思想だから削除したのですよ!”


私:“えっ!それ、まっことですか”


某:“そうですよ。危険思想なんです!”


私:“何かを恐れて、すぐさま削除するという思想こそ危険思想ではないですか!?”


某:“(無言)”


 深く深く考えもしないで付和雷同する姿勢、この姿勢こそが太平洋戦争を始めた大きな理由の一つではなかったでしょうか。


 読者諸賢には今の世の中の姿を、社会の有様(ありさま)そして小学校、中学校の姿をじっくりご覧になった上、危険思想であるか否かをご判断下さいませ。


 板宿国民学校の昭和18年度(1943年度)通知簿には


「神戸市教育綱領」


とのタイトルのもとに前述のような五項目、そして


「神戸市校園必行事項」


のタイトルのもとに同様に前述の十項目が述べられています。


 津市の校訓と比べると同じ国民学校であってもかなりの差が認められますよね。


 思うに神戸市の場合は少し高台に上がって瀬戸内海を眺望すると、(まぶ)しいばかりに青々と輝く洋上を、ポンポン蒸気と呼ばれていた小さな沢山の漁船に交って戦艦あるいは傷病兵を乗せた病院船などが航行していました。


“戦争をしている!私達は銃後の守りをしっかりしなければならない!”


というような切迫感が神戸市民全体にあったのではないでしょうか。


 昭和18年度といえば未だ空襲のなかった頃ですが、学校に万が一戦火が及んだ場合、神戸市の場合は学童もバケツリレーなどで消火に努めねばならないことを想定していたことが、文面によって明らかです。


 一身田町国民学校ではこのような切迫した雰囲気は全くありませんでした。


 父母が考えに考え抜いて決心した“縁故疎開の道”は私にとっては、


・自然の中に溶け込んで“自然の子”として過ごす日常生活の中での健康回復。

・身内のような感覚で受け入れてくれた近隣の住民達の存在。

・沢山の友人達との出会いと遊びがもたらした要養護生から豆力士への脱皮。


等々の意味で、少なくとも私には有難い選択であったと思います。


 真冬の頃だったでしょう。裏庭のナツミカンが黄色く色づいてきました。私は


“ただいま!”


といって、ランドセルを畳の上に滑り込ませるやナツミカンの木にまっしぐら。なるべく大きくずしりと重いのをもぎ取って木の上で食べました。日課です。


 丸々1個を食べるとナツミカンにたっぷり含まれている強烈なクエン酸の影響で歯ぐきは麻酔をかけられたようにしびれた状態、つまり歯が浮いたような状態になりました。


 姉や母が好んで食べている甘いだけのカキよりも、何故かナツミカンが大好きでした。

 時期的に早すぎたためでしょう、とても酸っぱいナツミカンでしたけれど、1日に1個は食べていました。

 身体がビタミンCを要求していたのかも知れませんね。


 1ヶ月ほど在籍した高槻市の国民学校の同級生は勿論、2年生の1学期まで在籍した板宿国民学校の同級生についても名前や顔は忘却の彼方、全く記憶していません。

 1年生~2年生の1学期まで在籍した国民学校で記憶に残っているのは1年生のときのクラス担任山本先生、2年生の時の大河先生だけ。


 そんな私でしたけれど一身田町国民学校に転入したその日、その瞬間に私の心は全くドラマティックに変化したと言ってよいでしょう。


 長谷川先生のクラスでは、初対面の日に親友になった村中君がクラスの級長を務め、また2学期の級長は池田君でした。2人ともそろってしっかりしたリーダー振りでした。

 私は3学期に級長を務めることになったのでしたが、学業の点で非常に高いレベルにあるクラスという印象を強く受けました。


 因みに大阪大学大学院で工学博士の学位を取って助手(現在の助教)となった年、私は里帰りのような感じで津を訪ねました。


 村中君は高等学校卒業後、津市内の地方銀行に勤務し、田原君は食品加工会社を経営し、池田君は有名国立大学の法学部を卒業し、実社会で活躍していることを、久しぶりに再会した相撲友達たる田原君そして村中君から教えてもらいました。


 三重県津市の伯母の家に母姉とともに縁故疎開した私でしたが、わが心、どうしてドラマティックに変化したのでしょうか。心理状態が子供のそれから大人のそれに何故大きく変化したのでしょう。


 それは父と別れたその日から、家族という一つの社会の中での私の“存在”が大きく変わったことを自ら悟り、強く認識したことでしょう。


“日本男児たるもの、自分こそが母姉を守らねばならない”


という意識が心の中に強く芽生えたからでした。


パートⅢ:縁故疎開と集団疎開


 昭和19~20年、全国の沢山の学童達が縁故疎開という形で、知人親族を訪ねての流転の旅を始めました。

 多くの家族で、父親だけが都会そしてその近郊にある危険な勤務地に留まっての一人暮らしとなりました。


 縁故疎開という形がもたらした父親不在の家庭環境の変化、その中で当時


“日本男児たる自分が家族を支えねばならない、支える存在にならなければならない”


と考えた児童は少なくなかったでしょう。


 親族や知り合いを頼っての縁故疎開の道を選べなかったか、あるいは国の進める方針に従うことが賢明と考えて縁故疎開をあえて選ばなかったか、その何れかの理由で子供達が選択した道は集団疎開の道でした。


 しかし、集団疎開を選んだ彼らには縁故疎開の子供達とは全く異なる運命が待ち構えていました。


“健康上問題がない”


“学業の点である程度優れている”


といった判定基準で選抜された児童達は、全国の市町村にある公的な施設あるいは大きな神社仏閣等々の施設などに開設された臨時の教室で勉強を始めました。


 父母達は国の進める集団疎開の制度に全幅の信頼を置いていたことでしょう。

 それに、日頃何かとお世話いただいている学校の先生方が引率し同行して下さるということで、大きな安心感を得ていたでしょう。

 少し長い目の林間学校に子供達を送り出す、そんな気分だったかもしれませんね。


 父母達は、子供達を安全で自然美豊かな農村地帯にある臨時の学校に送り出したことで、一安心も二安心もしたでしょう。


 泊りがけの遠足といった感じで、ワクワクした思いを胸一杯に抱いて、疎開地に向った子供達も沢山いたに違いありません。


 しかし終戦後、集団疎開から帰還した子供達が帰宅直後に語った数々の苦労話は、集団疎開の選に漏れて残留せざるを得なかった子供達そして縁故疎開に頼った私には想像を絶するものでした。


 彼らが口々に、下鴨国民学校で留守番役を務めていた私達学童に語ったことは、記憶する限り以下のような内容でした。


“お父さん、お母さんがたまらなく恋しかった。

 夜、布団をかぶった後は恋しさの余り泣いて寝ついていたけれど、自分のほかにも泣いている子が沢山いた”


“どんなに遠くてもJR(当時国鉄)の線路伝いに鉄橋を越えトンネルを歩いて、京都に帰りたかった”


“空腹に耐えきれず、夜、畑に忍び込んでキュウリやトマト、ナスビなどを食べた”


“サツマイモなどを掘り出して生のままかじっていた”


 こんな話でした。縁故疎開をしていた私には全く信じ難い内容の話でした。


 勿論、全国の疎開先で地元の人達から町ぐるみ、村ぐるみで厚遇されていた子供達は沢山いたでしょう。

 沢山のお百姓さん達が、そんな盗み食いをする子供達に気づいていても、見逃したでしょう。


 お百姓さん達は、注意したり叱責(しっせき)したりすることはなかったのではないでしょうか。

 畑に忍び込んだ子供達からそんな話を耳にすることはありませんでしたから。


 私が知る限りでは、下鴨国民学校以外の場合であっても同じような内容の話であったと思います。

 集団疎開から返ってきた子供達は、口をそろえてこんな苦しかった半年、1年間を振り返り語っていました。


 しかし重ねて申し上げますが、これはほんの2、3の小学校の子供達から聞いた話に過ぎません。全国沢山の疎開先で楽しい生活を過ごしていた学童達は数多(あまた)いたに違いありません。

 もしそういう話を聞くことがあれば、将来ここで紹介させていただきたいと思います。


 本稿執筆中の平成28年8月23日NHK大阪放送局制作の番組『ニュース・ほっと関西』を視聴していました。私の大好きな番組の一つです。

 何という偶然でしょう。テレビ画面に『学童集団疎開が伝える戦争の影』という文字列が映し出されます。


 杉山さんという方が出版された絵本のタイトルでしたが、絵本にはお寺の大広間で正座の姿勢で机に向う子供達の様子等々がカラーで生き生きと描かれています。私は画面を食い入るように見詰めました。

 以下のような説明が番組の中で流されます。


“空腹に耐えきれず甘い味が僅かにする白い絵の具をなめていた”


“タニシを乾燥させて食べていた”


 学童達を受け入れたお寺には、何名かのお坊さんが1人ないし2人ずつ入浴できる小さなお風呂はあったでしょう。しかし、3、40名の学童達を入浴させることはムリだったかも知れません。


 このため子供達はタライにぬるま湯を入れ、数人単位の学童が分けあって使い、身体の汚れをとっていました。


 この子供達の姿を見て近所の人達何名かが、家に子供達を招いてお風呂に入れてくれたことをテレビは報じていました。

 ……しかもその中の何軒かは、お風呂の後、ヤギのしぼりたてのお乳を飲ませてくれたと伝えています。


 子供達は


“お乳をふるまってくれる家のお風呂に入りたい”


と熱望していたということです。


 大都会で学んでいた学童達のうち成績上位の子供達が選ばれ、国の施策として実施された学童疎開に参加したわけでしたが、彼らを待っていたのは空腹、望郷の思いでした。


 一方、選抜にもれた成績下位の子供達、あるいは健康に問題のある子供達の運命は2通りに別れました。

 町の中にとどまったために、B29による猛爆によって幼い生命を落とした子供達、そして命は助かったものの大きな怪我、心の傷を受けた子供達がいました。


 激しい空襲にもかかわらず奇跡的に命を失わなかった人達。その中にも子供を失って嘆き悲しむ親が沢山に出たことでしょう。


 親を亡くして路頭に迷う子供達あるいは一家の大黒柱であった父親や夫を失い、住む家も焼け出されて、あてどもなくさまよい歩く母子家庭の姿が見られたでしょう。


 突然に襲った悲劇などといった表現では到底語れない凄絶な生活が彼らの前に待っていたのです(姉妹編『太平洋戦争の時代を経験した少年の戦後70年』お読み下さい)。


 都会にとどまったけれど運よく空爆の被害をまぬがれた子供達は空腹を感じることもなく、勿論望郷の思いに駆られることもなく、丁度私が下鴨国民学校の残留組の子供達と嬉々として、鬼ごっこ、缶けり、縄とびを楽しんでいたように遊んでいました。


 こんな事実をしっかり認識した青年期の私は、申し訳なかったという気持ちに(さいな)まれましたがこの気持ちは今も全く変わることはありません。

 家族とともに流転した私は、集団疎開に参加した子供達、同級生達の苦労を全く知ることもなく、元気一杯遊んでいたのですから。


 学童疎開を深い悲しみで振り返る私の心に最も強い衝撃を与えた出来事、それは余りにも悲しい“対馬丸事件”でした。


 沖縄からの学童達を乗せて受入先である九州に向った貨物船「対馬丸」が、米潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没し、多数の学童達と民間人、乗組員、兵士らが犠牲になりましたが、その数は千数百名に上ったとされています。


 昭和19年8月22日米軍潜水艦による攻撃によって沈没とされていますから、私が板宿国民学校2年生の夏休みの時ということになります。厳しい報道管制によって、この事件を知る人は私の両親を始め、殆どいなかったでしょう。


 私と同じ年令の子供達が、国の集団疎開の方針に従って父母と別れ九州に向ったのでしたが、船は翌日に沈没し多数の学童達があたら貴い命を絶たれたのです。


“仲良しになることができた沢山の子供達が犠牲に!”


“どうして!”、“どうして!”、“どうして!”


という思い、私の胸から消え去ることは絶対にありません。


 2016年8月現在の今も、世界各地で子供達が戦争のために犠牲になっていることでしょう。世界の至る所で争いが起こり戦争状態となっています。激しい空爆が行われ、何も分からない幼い子供達が貴い命を失っています。彼らが過ごすはずであった長い長い人生が奪われています。


“正当な空爆”、“正義の空爆”


の連呼のもとに市民そして子供達が犠牲になっています。


“戦争は絶対にしてはならない”


と強く思います。戦争は余りにも残酷です。


 津市一身田町国民学校に在籍した当時、近くの同じ学区内の施設で名古屋市からの学童達が集団生活をしていました。


 私が記憶する限り、名古屋の学童達と私達地元の学童達の交流、少なくとも強く印象に残るような交流はなかったのではないでしょうか。


 集団疎開の対象となる学童は年齢を考慮して、3年生以上の学童達にだけ認められた制度であったと思います。

 このため集団疎開の学童達と受け入れ先の市町村の学童達の交流は3年生以上の学童達の間に限ってされていたかも知れません。


 しかし、当時2年生であった私が記憶する限りでは、一身田町国民学校で上級生達が集団疎開の学童達と楽しく交流している、ということはなかったと思います。そういう雰囲気を学校生活の中で感じることは全くなかったのですから。


 関係者達は


“一身田町の学校に通う学童達と名古屋市内の学校から選抜されて疎開してきた学童達の間には、学業成績等の点でかなりのレベル差があるのでは?”


と考えていたかも知れません。


 町角(まちかど)で見知らぬ子、たぶん名古屋市内から集団疎開してきている子にすれ違うことがしばしばありました。

 何となく“大都会の子供”、“眩しい存在”として彼らを見ていたように思います。


 今の私であれば100パーセント、彼らに声をかけているでしょう。

 しかし国民学校2年生だった私は、彼らを見ると急ぎ足ですれ違っていたと記憶しています。

 彼らの表情はいつも非常に固く、何か一心に思いつめているような印象でした。


 一身田町そして名古屋市両校の先生方も学童達のレベルはかなり違うかも知れないと考えて、お互いに敬遠していたとすれば、両校の学童達にとってとても不幸なことだったと思います。


 名古屋市からはるばる学童達を引率されてきて、一身田町の施設で学童達を指導されていた先生方と受け入れ先市町村の国民学校の先生方の間での交流はあったのでしょうか。話し合いはあったのでしょうか。


 あるいは学童を送り出した自治体そして学童を受け入れた自治体との間でしっかりした連携プレーはあったのでしょうか。


 私は非常に心細い、とても心細い状況であっただろうと推察します。


 実は私には


“これは、国あるいは自治体等の疎開学童達へのささやかな配慮かな?”


と思ったことが一度だけありました。

 それは秋期に実施された遠足の日のことです。


 近くの見晴らしのよい高台まで元気一杯に行進し、ひろびろと広がる田畑を遙かに眺望できる秋真っ盛りの丘の上で、お弁当を思い思いに広げます。


 母が心をこめて作ってくれた日の丸弁当、そしておかず入れには厚焼きのお卵、煮魚、カマボコ、季節の野菜の煮つけなどが入っています。


 私の直ぐそばでお弁当を食べ終わった長谷川先生が、にっこり笑って


“この遠足では笠原君だけ特別におやつがあるのよ!”


との説明で私の手の平に乗せてくれたもの。それは一枚のビスケットでした。


 長谷川先生の説明は私が記憶している限りでは


“一身田町国民学校に通っている疎開児童にはビスケットが一枚ずつ配られるのですよ”


であったと思います。


“えっ!そんなこと!どうして?!”


と首をかしげながら受け取ったと記憶しています。


 ビスケットの大きさ、長谷川先生の笑顔、今も胸の中に鮮明に残っています。


“僕は皆と一緒、普通の子なのに……”


という思い、


“それとも僕は特別な子なのか?”


という思いが、胸の中でいつまでも交錯していたと思います。


 この日、同じように遠足に参加した姉は


“ビスケットを一枚もらった”


とにこにこ顔で母に報告していました。


 このビスケットはどこの組織が主体になって配給してくれたのか、全く知る由もありません。

 三重県、津市、一身田町、それとも国?どの組織だったのでしょうか。

 何れにしても一身田町国民学校には30枚ぐらいのビスケットが入った紙袋が一個、縁故疎開の子供達への慰問という形で、春と秋に配給されていたのではないでしょうか。


 戦争直後、京都の下鴨国民学校に在籍していた当時、集団疎開先から引き揚げてきた学童達から、先程お話したような筆舌し尽くし難い苦労話を聞いた時、津市一身田町の町の中ですれ違っていた名古屋の学童達のことを思い出しました。


“彼等は厚遇されていただろうか”


“苦労の多い彼らにはビスケットが1枚か2枚、おやつとして毎日与えられていただろうか”


“どんな思いで暮らしていたのだろう”


 こんな思いが胸をよぎります。


 国民学校3年生ではありましたけれど、無関心でいた私は少なからぬショックを受けました。悪かったなという強い、とてもつよい思いです。


 戦後70年も経ちましたけれど、今も悔悟の念を覚えることが正直あります。


“彼らと一緒にスポーツをしたり劇をしたり音楽会を開いたりしていたら……”


 こんな後悔の想いが胸の中に残っています。


 ……しかし、縁故疎開は私達家族には正解でした。


 豊かな自然、温かく迎えてくれた沢山の人達、この環境の中で私は要養護生から“自然の子”に脱皮し、心身ともに成長することが出来ました。


 勿論、私達のようなケースばかりではなかったでしょう。

 疎開してきた家族と彼等を受け入れた家族の間で、一つ屋根の下で顔を突き合わせて過ごすうちにさまざまなもめごとが起こり、争いが絶えない毎日が延々と続く、といったことは全国至る所で見られたに違いありません。


 肩身の狭い思いで日々を過ごした縁故疎開の子供達は全国至るところに数多存在したことでしょう。


 集団疎開そして縁故疎開をした児童達それに縁故疎開の道もなく、集団疎開の選抜にも漏れてしまった児童達の実態を多元的にとらえることは、戦争というものを真に理解する上でも、戦争史として正確に残されるべきではなかったかなと思わざるを得ません。


パートⅣ:米軍兵士と和尚さんそして日本の兵隊さん


 半年近く経ったある日、すっかり田舎っ子に変身した私が、上級生達と田んぼの中の一本道を下校中、伊勢湾上空を超低空で飛んできた米戦闘機(グラマン)が、突如全くの突如上空に現れました。


 米軍機は急接近してきます。まさに得体(えたい)の知れない怪物の接近です。


 上級生の悲鳴に近いような命令で、田んぼの中の山と積まれた稲わらの後ろに一斉に飛び込みました。

 分厚い稲わらの山は機銃掃射に対する絶好の盾なのです。上級生達は稲わらの中にもぐりこむように身を伏せています。


 しかし、米戦闘機が最接近したせつな、私は怖いもの見たさ或いは


“うちてしやまむ”


の精神を忘れてはいけないと思ったのでしょう、稲わらから顔をのぞかせました。

 驚いたことに、上空30メートルの至近距離に米兵の顔が窓わく越しに鮮明に見えたのです!


 帰宅して母に米軍機襲撃の一部始終を語りましたが、母はひと言も返事をしませんでした。

 そのかわりに、昼食カットという罰を私は受けてしまいました。

 勇敢にも米兵を睨みつけたことを褒めてもらうつもりだったのですが……。


 母は、私には全く語ることはありませんでしたけれど、恐いもの見たさの心理で顔を上げた子供達のうち、何人かが犠牲になったことを知っていたと思います。


 級長を務めている私がルール違反をするとは思ってもいなかったことでしょう。ルール違反をした私を許すことは到底出来なかったに違いありません。


 ……その後、小学校を卒業し中学高校大学と進んだ私は、ルール違反をしていた同級生が少なからずいたことを知りました。私だけではなかったのです。


 日頃優しい母でしたが、上級生の命令に従わなかった行動は、それ相当の罰を受けるべきと考えたのでしょう。そしてこんな危険な行動は絶対に慎んでほしいと強く願ったことでしょう。


 今から20年程前の京都工芸繊維大学時代、同僚のM先生とはよく昼食を共にしていました。


 ある日の昼食時間、この米軍機襲撃事件の話をし、また上級生の命令に背いた話をしました。

 それまで笑顔を絶やさないで話をしていた円満なお人柄のM先生は、急に厳しい顔つきとなり


「笠原先生!それはとんでもない話ですよ。無謀そのものの行動でしたよ」


と言って大きくため息をつき、自分も三重県に疎開していたとおっしゃった後、重い口を開きました。


「国民学校1年生時代の私のクラスメートは、笠原先生と同じようなことをしたために、伊勢湾上空を低空飛行してきた米軍機(グラマン)に狙撃されたのですよ」


 私はこの時まで、米軍機は子供と分かれば必ず見逃してくれるものと考えていました。しかし、実際には狙撃していたのです。


 M先生の言葉に、怖いものを見たさあるいは“この野郎!”といった無謀な勇気によって、幼い生命(いのち)を奪われた学童達は少なくなかったのではという想像もしていなかった思いが強く私を襲いました。


 あの時代、私も狙撃されて大けがを負ったか、或いは最悪の場合短い生涯を疎開の地、一身田町で終えていたかも知れません。


“戦争は絶対にしてはならない”


 私の心の底からの願いです。


 疎開先のお寺の“和尚さん”は、履謙伯父さんです。

 早稲田大学の文学部出身という肩書でしたが、昭和30年ごろから20年近く、毎日新聞紙上で文芸評論を続けた平野謙はその弟です。


 毎週、町の人達と一緒に聞く履謙和尚の仏教説話は大変面白く、私にとって最高の楽しみの一つでした。


 説話に耳を傾ける私の胸に、


“病気との長い闘い”


“ビルマに軍医として従軍される前に毎晩往診して下さった仁木先生の温かい手”


“厳しくも優しかった山本先生”


“新しい友人達との出合い”


“のどかで平和な田舎町の上空に突如稲妻のように襲来した米軍機”


“米兵の顔”


“戦争と平和”


子供には整理しきれないほどの数々の出来事が何度も去来しました。


 下校中に米軍機に襲撃されるという今から思えば背筋が寒くなるような経験をしましたけれど、津市の郊外にある一身田町は米軍空爆機ボーイングB29の攻撃目標から外されていたのではないでしょうか。

 焼夷弾を雨あられのように落され、辺り一面が一瞬にして猛火に包まれるという被害は、少なくとも私が住んでいた昭和20年3月迄は免れていたと思います。


 しかし連日連夜のように、四日市などの工業都市に向かうボーイングB29爆撃機が遥か上空を


“ぶぅーん” “ぶぅーん” “ぶぅーん”


という不気味な爆音を響かせて飛んでいました。


“ひょっとすると爆弾を投下するかも知れない”


 大人達の不安気な面持ちを敏感に悟ったのでしょう。B29の爆音に大きな不安を感じて寝付けない私を、母は


“お念仏を唱え、讃仏歌を口ずんでいたら大丈夫よ”


といいながら、讃仏歌を子守唄代わりに歌ってくれました。


 母がよく歌ったこの讃仏歌は今でも断片的に覚えています。


♪♪♪六角堂の夜半(よわ)の月、流れも清き吉水の……♪♪♪


♪♪♪我らがためとは(いたわ)しや……♪♪♪


♪♪♪(たた)え 讃えー♪♪♪


 確か、こんな歌でした。とても美しいメロディでした。この讃仏歌に誘われて私は眠りについていました。


 三重県津市で疎開を続ける私達親子3人は、京都の伯母の家に下宿する父を1ヶ月に1度ぐらいのペースで訪ねました。

 津駅からJR(当時国鉄。母は参宮(さんぐう)(せん)と呼んでいました)の蒸気機関車に乗車して数時間、終着駅京都に着きます。


“久しぶりに父に会える!”


と思うだけで胸が躍ります。


 この参宮線の汽車の中で忘れ難い経験、今も胸の中に深く残る思い出があります。


 車内で私は、母と姉から少し離れた席に、腰を下ろしていました。車窓にかじりついて、窓の外に走る美しい風景を存分に楽しみたかったからでしょう。


 私の横と前の席に3人の若い兵隊さんが腰を掛けていました。

 楽しそうにしゃべっていましたが、そのうちの1人がにこにこ笑いながら声をかけてくれました。

 私と兵隊さんとの会話です。紹介しましょう。


「坊や、何年生?」


「国民学校2年生です」


「お名前は?」


「笠原と申します」


「えっ笠原!?」


と言って3人は一瞬驚いた様子です。


「笠原中将の身内かな?」


 私は首を横に振って答えます。


「いいえ、親戚にはそんな方はいらっしゃいません」


 この後、3人の兵隊さんと交わした会話はとても楽しいものでした。


 兵隊さん達は、残念なことに途中の駅で下車しました。


 最後に交わした会話、思い出すことは出来ません。想像に任すしかありませんが、あの当時のことをしっかり回想すると、こんな会話だったかもしれません。


“笠原君、しっかり勉強して親孝行するんだぞ!”


“見事手柄を立てて帰って来て下さいませ!!”


 こんな会話だったでしょう。


♪♪勝ってくるぞと勇ましく―、誓って国を出たからにゃ―♪♪


♪♪手柄(てーがら)立てずに帰らりょか……♪♪


♪♪進軍ラッパ聴くたびにぃ―、(まぶた)浮うーかぶ旗の波♪♪


 子供達はこんな軍歌(露営の歌)を歌う毎日でしたから、心の底から


“手柄を立てて帰って来て欲しい”


と別れ際に思ったに違いありません。

 (この歌の歌詞は子供達の聞き覚えでしたから必ずしも正確ではないでしょう)


 戦後70年経った今も、この3人の若い兵隊さんの優しい笑顔を忘れることはできません。

 手柄はさておいて、無事に帰国されたことを祈るばかりです。


 京都駅に降り立つといつも目にする光景、それは出征兵士を沢山の人達が見送るシーンです。一番先プラットホームの中央改札口付近であったと思います。日章旗、旭日旗の小旗を手にして、人々は


“万歳!”  “万歳!”  “万歳!”


と声の限りに叫んでいました。上述の軍歌で歌われている“旗の波”の光景です。

 戦地に(おもむ)く兵隊さんの武運長久そして無事の帰還を祈り願う旗、旗、旗の波なのです。


 私は


“僕も将来こんな風に皆に見送って欲しいなぁ”


と思ったことでしょう。


 しかし、出征兵士を見送る人々の姿は、悲しく耐え難い離別の光景だったに違いありません。


 彼らは何のために戦い、何のために尊い命を落としたのでしょうか。


 一身田町での生活そして時折父を京都に訪ねる生活は、未来永劫ずっと続くものと考えていました。

 この生活に突然に終止符が打たれるなどとは夢にも思っていませんでした。


 しかし全く突然に、一身田町国民学校の級友達との別れの日が訪れました。


 昭和20年の春、3月頃だったでしょう。父から


“京都は安全な場所だ。一緒に暮らそう“


との内容の手紙が母の手元に届いたのです。


“再び親子4人で暮らせる!“


 私達の胸は喜びで一杯になりましたけれど、その一方で田原君、村中君そして仲良く遊んだ一身田町国民学校の級友達との“別れ”が待っていました。

 私にとって耐えられない離別です。


 兄弟のように仲良くしていた彼らに向かって


“また何回も帰ってくるからね”


というのが精一杯でした。


 幼少年時代、外出先から泣きながら帰ってきた私を見て、日頃優しくしてくれていた母、その同じ母の口から飛び出してきた言葉、


「日本男児たるもの、人前で泣くとは何事か!」


との厳しい戒めの言葉を、私は生涯守り抜こうと固く心に決めていました。


 親しくなった友人との辛い別れ、目に熱いものがこみ上げてくるのを必死にこらえたのでした。


パートⅤ:再び一つ屋根の下に


“京都市は世界的に有名な文化都市。歴史ある神社仏閣があちこちに点在する町。このことによって米軍は京都市を攻撃目標から完全に外している”


との噂のような話が、京都市民の間にあったのではないでしょうか。


 確かに京都市は大阪市、神戸市、尼崎(あまがさき)市などの阪神地方あるいは三重県四日市市を含む中京地方の大きな都市と比べると、空襲による被害は比較的少なかったのでは、と思います。


 父の恩師である京都大学(当時京都帝国大学)の加藤信義先生が、お隣の方が満州ハルビンに疎開されて空き家になったとき


“京都は文化都市、世界的にみても貴重な神社仏閣が多数存在している。大空襲はまず考えられない。

 親子4人、京都で暮らしてはどうか。ちょうどお隣の家が空き家になったことだし……”


と私達が一つ屋根の下に住むことを、強く勧めてくれました。


 この頃、少なからぬ人達が日毎に激しくなる戦乱を避け、また満州の開発、発展に寄与するために満州に渡っていました。

 加藤家の隣の方もその流れの中で、満州ハルビンに疎開されたのでした。昭和20年3月、終戦の年の春のことです。


 私達は加藤先生のお言葉を感謝の気持ちで受け取りました。


 家族が再び一つ屋根の下で過ごせるという大きな期待を胸に、津市一身田町に迎えに来てくれた父と一緒に京都に向かいました。


 向う先は京都の下鴨の加藤家の隣ではなく、父が半年間下宿していた京都市左京区浄土寺真如町の伯母の家でした。


 直接下鴨に向うのではなく、何故一旦伯母の家に身を寄せたのか、その理由はもはや覚えていません。とにかく縁故疎開のような形で2週間程伯母の家に滞在することになったのです。


 伯母の家は5人家族のほか、伯父の親戚筋の高齢の女性と小学生兄妹が身を寄せていました。私達4人を合わせると12人が一緒に暮らすこととなりました。


 真如堂近くの生活は楽しいものでした。

 空襲警報、警戒警報は全く発令されず、早速仲良しになった近くの子供達と一緒に真如堂で遊んでいました。

 広ーい境内、見上げる程に高い緑の樹々に心が休まります。


 伯母の家に滞在したのは2週間ぐらいだったと思いますが、とても楽しい毎日でした。

 私が甘い物好きと分かると、毎夕食、スプーン一杯のお砂糖をごはんの上に乗せてくれます。


 正直、白米の上にお砂糖とはなぁ、と思ったのでしたが、生涯私に優しく接してくれた伯母らしい振る舞いでした。


 真如堂近くでの楽しい“縁故疎開”の2週間、あっという間に経ちました。

 神戸→高槻→一身田町→浄土寺真如町と転々と居を移した縁故疎開の後、左京区下鴨のマイホームに向う日がきたのです。


 4人家族の引っ越しといいますと現代の感覚では大型トラックに一杯の家財道具を積み込んでの引越しを想像することでしょう。

 しかし、戦時中、着のみ着のままで4回も転居した私達の資産はスーツケース2つと大学の先生であった父の研究に必要な書籍、ノート類だけでした。


 これらをリアカーに積み込んで父がこれを引っ張り、母と姉それに私の3人が後押しします。リアカーから荷物が転落しないように注意しながら、まだ見ぬ土地下鴨に向かいます。


 浄土寺真如堂→今出川通り→下鴨神社というルートを選んで約4キロの道を通って、未だ目にしない我が家に向かいます。


 春の陽ざしを浴びてキラッ、キラッ、キラッと輝きながら流れ下る鴨川、そして緑、緑、緑の下鴨神社が初めて我が(まなこ)に飛び込みます。この時の大きな感動!終生忘れることはできません。


 夕方近くだったでしょう、満州に疎開されたために空き家となった加藤家の隣の家、我が家に落ち着きました。嬉しいうれしい8ヶ月ぶりのマイホームです!


 落ち着く間もなく加藤家の末っ子、五男で小学2年生の信夫君が差し入れをしてくれます。

 大きなお鍋一杯に入った栄養たっぷりの豆モヤシです。


 信夫君が差し入れしてくれた豆モヤシ、4人揃っての久しぶりの夕食のメニューの中で唯一私の記憶に残りました。生まれて初めて口にしたモヤシ、食感もよく大いに気に入りました。


 京都は神戸や津とは異なって沿岸魚に恵まれず、また農村地帯に囲まれているわけでもありません。

 このためでしょうか、京都は神戸や津に比べると食生活はやや貧しいという印象であったと思います。

 この窮状を救うために成長が早く栄養分も豊かな豆モヤシが市民に盛んに供給されていたのではないでしょうか。


 昭和20年春以降豆モヤシが京都の食糧事情を救うべく活躍してくれていたこともあって、豆モヤシは私にとって生涯忘れられない食べ物となりました。


 スーパーなどで売られている豆モヤシを見るたびに


“オー、マイ オールド フレンド!(懐かしき旧友よ!)”


といった気持ちになります。決して笑わないで下さいね。


 下鴨の地への引越し以来17年間、比叡山を朝夕に眺め、鴨川に親しみ、(ただす)の森に遊ぶ生活が始まりました。


 私達が転居してきた昭和20年春当時、町の人々は、京都は今後も大規模な空襲はなく100パーセント安全な町である、とは考えていなかったと思います。


“油断はできない。いや、必ず大規模空襲の被害を受けることになる”


と信じ、防空壕作りに励んでいました。


 将来の食料不足を想定して、食料の自給自足体制作りに励み、空き地は全て畑にしていました。


 2メートル近く畑地を掘り下げ、上に分厚い板などを乗せ、その上にさらに土を山のように盛り上げて、防空壕を作っていました。

 作業に直接携わっていませんでしたので、必ずしも正確には作業過程を思い出すことはできませんが、大体こんな風に作っていたのでは、と思います。


 沢山の人達が助け合って完成した防空壕に、警戒警報のサイレンとともに逃げ込みます。

 夜中の2時、3時に飛び起きて逃げ込むことは日常茶飯のことでした。


 子供達はしばらく防空壕の中にじっとしていましたけれど、何事も起こらないと分かると申し合わせたように、チャンス到来とばかりに、防空壕の外に飛び出して昼間の遊びの続きをします。

 大人達もこれを注意することはありませんでした。


 警戒警報のサイレンは昼夜を問わず鳴り渡りました。


 午前中、学校で学習に励んでいる際にも、警戒警報が発令されると授業は即中止。給食用のパン(コッペパン)をもらって帰宅します。

 ぷうーんと(こう)ばしい風味のするコッペパンをもらって元気に帰ります。


 昼食後は家の周りで近くの仲間と鬼ごっこ、缶けり、かくれんぼ、相撲、ドッジボール等々と、思いっきり“遊びの時間”となります。


 このように、警戒警報は頻繁に発令されましたけれど、私の住む下鴨小学校地区をはじめ、近くの(あおい)小学校、出雲路小学校、どの地区も空襲による直接的被害はありませんでした。

 警戒警報のサイレンは鳴っても空襲は起こらず、結果的に楽しい遊びへの解放のサイレンとなってしまいました。


 ここに著すことを非常にはばかりますが、やはり以下のことを正直に述べておかねばならないでしょう。胸中非常に苦しいですが告白しましょう。


 ラジオ放送が


“敵機は豊後(ぶんご)水道を北上中”


の場合は、遊びへの解放の知らせとはなりませんでした。


“敵機は紀伊水道南方洋上を北上中”


のニュースは逆に解放の知らせとなります。


“日本軍の飛行機が迎え撃ち、見事やっつけてくれる!”


“高射砲が片っ端から撃ち落としてくれる!”


こんな確信が心の底にありました。


 しかし、終戦後に分かったことでしたが、こんな期待はとても空しく悲しいことでした。


 米軍飛行機はそんなに甘くはありませんでした。撃ち落とされた米軍機も確かにあったでしょうが、彼等はそれに数百倍、いや数千倍、数万倍……、の被害を与えて帰還していたのです。


 敵機の襲来を遊びへの解放の知らせとして受け取ったことは太平洋戦争終了後、戦争の実態を知るに従って私の心の中に悔悟の念として深く長く残りました。


 太平洋戦争はこの意味でも沢山の子供達に後悔の思い、深い心の傷を残したことでしょう。仲間の苦難を全く知らなかった、という強い悔悟の思いです。


 警戒警報の知らせを遊びへの解放の知らせとして受け取っていたこと、終生消え去ることのない心の傷となって残っています。


 終戦直前のことでした。竹やりが各戸に一本ずつ配られてきました。


 竹やりといえば江戸時代は勿論、平安・奈良時代を飛び越えて遡ること石器時代の武器ではありませんか。

 戦国時代の武将達が手にしていたやり、絵本に描かれているやりと、配布された竹やりとの差は子供の目にも明らかでした。


 土間にひっそりと立てかけられていたこの竹やりは、大人の背丈ほどだったでしょうか。ほっそりとした印象でちょっとした力で折れてしまいそうな竹やりを私はいつも心細く眺めていました。


 しかし大人達はこんな竹やりを構えてでも米兵に立ち向うんだ、国と運命をともにするんだ、というような精神的な存在としてとらえていたかもしれません。

 当時の逼迫した状況のもとではこの竹やりを様々な思い、立場立場で大きく異なる思いで受け取っていたのではないでしょうか。


 昭和20年春頃から、子供達は悲しげな歌を聞き覚えで口ずさんでいました。


♪♪♪ 7(しち)(がつ)7(なぁ)(のか)の朝まだき― ♪♪♪


♪♪♪ 有明月の影さして― ♪♪♪


♪♪♪ 全軍既にぃ、玉砕(ぎょくさぁい)す― ♪♪♪


 この歌は軍歌『復仇賊』の一部です(聞き覚えでしたから正しい歌詞からズレているかも知れません)。


 人々そして子供達はサイパン島の戦いで戦地に倒れた兵隊さん達へのレクイエム、挽歌(ばんか)として口ずさんでいました。


 新聞、ラジオが伝える大勝利のニュースの陰で報じられる玉砕のニュースに接して


“日本軍の敗色は濃い”


と悟った人は少なくなかったのではないでしょうか。


 小学校低学年生であった私のおぼろげな記憶をたどれば、昭和19年秋以降終戦の日までのことだったと思います。

 毎朝配達されてくる新聞記事に無我夢中でした。我を忘れて新聞を読んでいました。


 新聞記事を、目を皿のようにして読む私の心境、それは丁度平成28年8月現在、大リーグのマーリンズで活躍するイチロー選手や日ハムの大谷選手が活躍する記事


“イチロー3000本安打達成!!”


“大谷20号ホームランを放つ!!”


に胸を躍らす大人や子供達の心境に似たものであったでしょう。


 国民学校3年生の春~3年生の夏まで、胸を躍らせて読んでいた記事は、例えば


“航空母艦2隻大破”


“重巡洋艦3隻撃破”


“戦闘機30機撃墜”


等々の輝かしい戦果を伝える記事でした。


 勿論、ラジオも同じような勝利のニュースを伝えていました。

 しかし、何回も何回も繰り返し読むことのできる新聞記事が伝える喜びは、ラジオよりも数倍も数十倍も上だったように思います。


 新聞の場合には、戦果を伝える紙面を大きくかざしながら


“大本営発表!大本営発表!ほら!凄い戦果だよ!”


と言って、父や母それに姉に伝えることができます。

 丁度私自身がラジオの放送局になったように感じながら。


 人々は連日の大戦果を伝える新聞を争って買い求めていたことでしょう。

 当時、新聞はメディアとしての力を存分に発揮していたと想像されます。そして絶対に勝つ!という思いを、人々は一層強くしていたことでしょう。


 戦後、というよりも比較的最近といった方がよいかも知れない時期に、小さな胸を躍らせて読んでいた戦果の殆どが虚報であることを、テレビの報道によって知りました。このテレビ報道によって


“やはり虚報であったのだな”


と思いましたけれど


“だまされていたのか!”


とは全く思いませんでした。


 戦争という行為そのものが狂気の沙汰ではないでしょうか。このような状況のもとでは報道だけではなく、ありとあらゆることが常識では到底考えられない狂気の沙汰になり得るのではと思います。

 戦争は絶対にすべきでないと思います。


 終戦直前の昭和20年8月14日、正午過ぎです。


“あの空は一体なんだ?!”


と叫ぶ人々の騒ぎに私は表通りに飛び出しました。

 近くの人達が右往左往し、不安げな表情で西の空を眺めています。


 夕暮れ時ではありません。お昼過ぎの時間帯であるのに西の空全体が夕焼けのように真っ赤に染まって、光り輝いているではありませんか!

 得体の知れない不気味な赤さでした。私は真っ赤な西の空、この空を眺める人々の不安気な表情を今でも鮮明に覚えています。


“一体何が起こったのだ?”


“いやっ、何か天変地異が起こるのではないか!?”


 生涯経験したことのない真っ昼間の夕焼け空を見て、近所の小父さん達、小母さん達も“不安な思いで一杯”という表情でした。


 それから数時間経った夕刻、父が憔悴(しょうすい)しきった顔で帰宅しました。無念そのものという表情で


“やられた。大学近くの国鉄(現在JR)の京橋駅がやられた”


“大学の建物にも爆弾が落された。学生が1人犠牲になってしまった”


といった内容のことを繰り返し私達3人に語り続けました。父は放心状態だったことが昨日のように思い出されます。


 昭和20年8月14日正午過ぎ、大阪市城東区の大阪城近くの広大な地域(現在の大阪城公園全体)にあった陸軍の軍事施設がB29による猛爆撃を受けたのです。

 その近くにあったJR京橋駅そして父の勤める大阪帝国大学工学部キャンパスにも爆弾が投下されました。

 京橋駅での被害は甚大で1,000名に近い人達が犠牲になってしまいました。

 「京橋駅空襲」とも呼ばれる誠に悲しい出来事です。


 京都の人々はその実態を知ることがなかった「東京大空襲」は、やはり終戦の年の3月10日未明、東京下町を襲いました。

 その被害のすさまじさは筆舌尽くし難いものでした。何万という方々の貴い命が一夜にして失われたのです。

 そして同時にそれ以上の方々が、一夜にして夫を失い、妻を失い、父や母そして子供を失いました。


 沢山の人達が命は助かったものの傷つけられた肉体そして心の傷を背負って、生涯、悩まされ続けることになったのです。


 「東京大空襲」に前後した米軍沖縄上陸作戦(3月26日~6月23日)は、沖縄全土にわたって繰り広げられ、多数の一般市民を巻き込んでの地上戦となりました。


 太平洋戦争唯一の市民をまきこんだ大規模地上戦によって、沖縄を犠牲にしてしまったことは、痛恨の極みといった言葉では到底済まされないでしょう。


“どうして!どうして!どうしてなの!?”


という強い思い、今も決して消えることはありません。


 昭和20年8月6日広島への原子爆弾投下、8月9日長崎への原子爆弾投下は戦場への、人類史上最初の原子力エネルギーの不幸な利用となりました。このエネルギーによる被害がどのように悲惨であるかは戦後70年を越えた現在でも私達の脳裏から決して消え去ることはありません。


 しかし当時、京都市民は以上のような状況を知り得ていなかったと思います。


 厳しい報道規制が敷かれていたため、京都市民の多くは広島、長崎への原子爆弾の投下の事実についても知り得ていなかったでしょう。


“遥か西の方のどこかで、新型の強力な爆弾が投下されたらしい”


ということを、殆ど口伝えのような形で知っていたのでは、と思います。


 人々はこの恐るべき新型爆弾を“ピカドン”と呼んでいました。

 ピカッと光ってドーンと爆発する恐ろしい爆弾が落されたらしい、と理解していました。


 子供達のささいな悪戯(いたずら)にいつも目を光らせ、カミナリを落とす近所の小父さんを私達子供は、早速“ピカドン”と名付けたりしていました。


 物理的に(すさ)まじい破壊力を与えるピカドンがどこかで投下されたと、当時の人達は理解していましたが、沢山の貴い人命が失われたこと、そしてこの後何十年もの間、広島や長崎の人達を苦しめることとなった(のろ)わしい放射能汚染のことなどについても、全く想像すらしていなかったのではないでしょうか。


 技術倫理を伴うことのない科学技術の成果が、その動機が何であれ、結果的に筆舌尽くし難い悲惨な形で、平和に生きていた広島市民そして長崎市民の貴い生命を奪ったのです。

 幸い生き延びた人達も放射能被害に苦しめ続けられ、それは現在も続いています。


 当時の原子力科学者達は原子爆弾がこのような形での大きな被害を与えることは、勿論、十二分に承知していたでしょう。


 痛ましい沖縄全土での戦い、東京下町を焼き尽くした東京大空襲の事実、これらのことも私達家族そして近所の人達も全く知り得ていなかったと記憶します。


 厳しい報道管制によって、太平洋戦争中、私達には被害の状況は何も知らされていませんでした。


(いたずら)に国民に不安を与えてはならない”


という国からの厳しいお達しがあったのかも知れません。つまり


“一部始終を正直に国民に伝えても不安を(あお)るだけで、戦争遂行上利するところは何もない”


ということだったのでしょう。


 確かに国民の間に“不安病”は蔓延(まんえん)しなかったのでしたが、その結果、日本全土至る所が焼野原、焼土、そして広島や長崎は放射能汚染地となってしまったのです。


 しかし、8月14日正午過ぎ西の空全体を夕焼け空のように真っ赤に染めた真の原因が、大阪市東部を走るJR京橋駅、そして近くの大阪大学工学部キャンパスをも巻き込んだ大空襲にあることを、京都市民の殆どが大きな驚きで知ったことでしょう。


 「京橋大空襲」とも呼ばれる空襲の事実は、京都市に住む沢山の人達が大阪市とその周辺に勤務していることによって、その日の内に市民の殆どが知ることとなったでしょう。


“我が国は想像以上に大きなダメージを受けているのではないか”


という不安な想いが一気にひろがったと思います。


そしてこの時


“京都も必ず大空襲そしてピカドンの攻撃を受ける”


と覚悟を決めた人は少なくなかったでしょう。


 翌日8月15日正午に、玉音(ぎょくおん)放送が流れ終戦の日となりました。


 僅か24時間の差、この差によって今から約70年前JR京橋駅に大きな悲劇がもたらされました。

 24時間という僅かな差によって、人々の人生に余りにも大きな差を作る戦争という行為の悲惨さを、より強く感じるのではないでしょうか。


 戦争は絶対にしてはならない、と思います。


 8月15日の正午過ぎ、私は近所の遊び仲間数人と珍しく室内で遊んでいました。

 私達子供は玉音放送が流れていたことを全く知りませんでした。

 いつものように手にソロバンを持って集まります。

 広い畳の上で洋上の大海戦の始まりです。自分は日本軍、友達は全て米軍ということになります。


 ルールは極めて簡単で、相手ソロバンに向かって自分のソロバンを裏向けにして畳の上に走らせ、それが見事相手ソロバンに命中すれば、“敵艦撃沈”ということになります。

 最後に残ったソロバンがいつも我が日本海軍の戦艦ということになり、この船が大勝利を収めるわけです。


 そんな戦争ごっこに夢中になっている最中でした。

 午後1時前後だったでしょう、父が


“日本は負けた……”


と母や姉に力なく云った後、遊びに夢中になっている私達に、大きな声で


“日本軍は負けたぞ!”


と声をかけてくれました。今度はとてもしっかりした口調でした。


 私達は戦争ごっこを止めました。もはや戦争ごっこをする意味が全く無くなってしまったことを、子供ながらはっきり悟ったからです。


 とは言っても


“まさか!日本軍が負けるなんて!”


という思いで頭が一杯になります。到底信じられないことでした。


 終戦当時、私達世代の子供は物心がついて周りを見渡した時戦争状態でしたから、戦争をしていない状態、戦争が終わったという状況が全く理解できなかったでしょう。


 遊びの場は何か白けた雰囲気となり、子供達は“さよなら” という言葉も忘れて、バラバラに家に帰ったと思い出されます。


 戦争は終わったと大人達は言っています。

 しかし“戦争をしない”とは、一体どういうことなのでしょうか?!私はしゃべる元気もなく、この日ぼう然としていたと思います。


戦争をしているという普通の状態

戦争がないという未経験の状態


 子供達にとっては、全くの“未知の世界”への突入でした。


 戦争前のことは記憶があいまいで、戦争中のことしか覚えていない子供達にとって、暗雲が上空を常におおっていたような戦争の世界が、雲散霧消し、真っ青な青空、緑、緑、緑の草原そして樹々が目の前に突然に現れたと言っても、大人ほど素直な気持ちで青空を受け入れられなかったのかも知れません。少なくとも一週間程は……。


 8月15日、戦争は終わりました。

 しかし私が住んでいる京都の地には、平和は飢餓とともにやってきたのです。


パートⅥ:終戦直後の京都そして学校


終戦直後、京都の人達の不安は大変なものでした。


 戦国時代をはじめ様々な時代に、上洛という目標を掲げて武将達が京都を占拠しました。

 多くの場合、市民は焼討ち略奪暴行さまざまな被害を受けていました。

 占領軍に対する大きな不安、歴史の中でぬぐい去ることのできない占領軍に対する恐怖の思いが、進駐してくる米兵の姿に重なります。


 “市民は牛のように鼻に穴をあけられて、市中を引きずり回されるかも知れない”


 こんな噂が流れていたことを今もはっきり記憶しています。

 京都市民の多くが


 “婦女子は見境なく暴行されるだろう”


との思いを抱いていたのでは、と思います。


 父と母とは、終戦の日から()を置くことなく、長浜市郊外にある父の実家に、姉と私とを疎開させることを決めました。

 父母と別れて、祖父母の家に預けられることになったのです。


 祖父は養蚕業を営む傍ら畑仕事もしていましたので、京都での生活に比べると、遥かに新鮮な野菜、トマトやキュウリ、マクワウリ、スイカなどを口にすることができるようになりました。


 家の前を流れる小川の水は手ですくって飲めるほどに澄んでおり、無数の小さな魚達がスイスイ元気に泳いでいます。ワクワクするような光景でした。


 小川に入って洗面器で小川の水をすくうと、何と!沢山の小魚が中に入っているではありませんか!

 私は夢中でした。


 姉と一緒に捕獲した無数の小魚を1つのバケツに集めて、祖父母の家に持ち帰りました。


 私は得意満面です!バケツの底は魚達で見えない程です。

 こんな閉じ込められた状態であるのに、小魚達は思い思いの方向に元気一杯泳いでいます。


 祖父はこれを見ると、


「うわー凄いなぁ!おばあちゃまにも見せてあげようね」


と満面の笑みで声をかけてくれます。


早速祖母に見せると


「うわっ大漁ね!上手に獲ったわねぇ」


と手放しで喜んでくれます。


 バケツの中で元気に泳ぎまわる沢山の小魚達を姉と一緒に眺め、時間が経つのも忘れて楽しんでいました。


 お昼前だったでしょう、祖父がにこにこしながら近づいてきて、私達に声をかけます。


「お魚さん達、そろそろお昼ごはんかな?お腹が減ってきただろうねぇ。お(うち)に帰してあげようかな」


 この言葉にほんの少しがっかりしましたけれど、お家に帰してあげようという祖父の言葉に、バケツの中の小魚達の姿が私達姉弟の姿に重なり始めます。


 集団疎開、縁故疎開そして戦後、進駐軍を恐れて再び縁故疎開した私達そして全国沢山の子供達の姿が、バケツの中の小魚達の姿に重なるわけです。


「うん、そうする!」


 お魚さん達を揺らさないよう注意してバケツを持ち、川に急ぎます。


“お家に帰ろうね!!”


と声を掛けながら、ゆっくり、ゆっくり川に放流します。


 祖父母の家に滞在したのは10日間ほどだったでしょう。


“進駐軍は紳士的、乱暴などは全くしない”


ということを確信した父が長浜まで迎えに来てくれました。


 寂しがらないようにと一生懸命努力し、父母役を務めてくれた祖父母、10日間という短い期間に親しくなった近所の子供達、小川の沢山の小魚達に別れを告げて、懐かしい京都の町に向かいました。


 京都駅に降り立ったとき、駅前の変貌ぶりに目を見張ります。


 威風堂々と胸を張って歩く進駐軍の兵隊さんの姿、姿、姿です。

 彼等は濃いカーキ色の服装で、服と同じ色の帽子をかぶっていました。とても良く似合っています。


 この帽子は子供達の目にとても新鮮で印象的だったのでしょう、早速、新聞紙でこの帽子を作って格好よくかぶり、元気一杯遊んでいたことがつい最近のことのように思い出されます。


 京都駅前の大きな通りを、ジープと呼ばれる濃い草色の4輪車が2、3人の兵隊さんを乗せて走っています。

 さっそうと走るジープ、そんな感じです。


 彼等は子供達を見ると、決まって空高くチューインガムをばらまきます。

 路上に落ちてきたチューインガムに子供達が駈けよります。

 無理もありません。甘いチューインガムは貴重なおやつですから。


 戦後ほとんど瞬間的に、キャラメル、ビスケット、チョコレートなどのおやつが子供達の目の前から消えてしまいました。甘いおやつに全く恵まれていませんでしたから、こんな風景も致仕方なかったでしょう。


 戦後1~2年、このような風景が全国至る所で見られたのではないでしょうか。


 何れにしても太平洋戦争中には全く想像もできなかった悲しい光景です。


 戦時中、外出先から泣きながら帰宅した私を見て、母の口から飛び出した厳しい言葉、


「日本男児たるもの、人前で泣いて帰って来るとは何事か!」


が脳裏に浮かびます。


“戦争に負けたけれど、僕は日本男児!”


“その日本男児、ハトの真似をしてたまるか!”


 私は、こう強くとても強く思ったことを、今も鮮明に覚えています。


 京都駅前の大通りだけでなく、下鴨小学校(当時はまだ下鴨国民学校と呼ばれていました)の前の通学路にも、進駐軍の大きなトラックがかなりのスピードで走っていました。

 その迫力に目を見張ります。


“うわぁ―8輪車だ!”


“今度のは10輪車だぁ!“


と子供達は口々に叫んでいました。


 戦時中目撃した日本軍のトラックが何輪車であったのか、正確には覚えていません。

 しかし進駐軍のそれに比べれば一回りも二回りも小さかったのではないでしょうか。


 確かに戦艦「大和」そして「武蔵」は世界最大級の堂々たる戦艦でした。


 しかし


“地上戦での戦力の差は、今目にする米軍トラックと戦時中目にした日本軍トラックの差が示すように、かなり大きな差があったのでは?”


というのが京都市民の大方(おおかた)の見方だったでしょう。


 祖父母を訪ねての短い疎開生活から下鴨の我が家に帰ってきた直後だったでしょう。


 集団疎開の学童達が下鴨国民学校に帰ってきました。


 曖昧な記憶の糸をたぐり寄せてみると、彼らは堂々と胸を張って帰校したと思います。


 おぼろげな記憶のスクリーンに次のような光景が映し出されます。


 私達留守番役であった3~6年生そして集団疎開に応募できる学年に達していなかった1年生、2年生の全員が校庭に並びます。


 帰校組の学童のうち、6年生の級長の中から選ばれた最優等生のA君が朝礼台に上ります。


 この様子をウォッチしていたT先生(校長先生ではありませんでした。下鴨国民学校で一番恐ーい先生です)が


「気をつけー!敬礼!」


と号令をかけると、在校生が姿勢を正して一斉に敬礼します。


 朝礼台のA君が、堂々と胸を張った姿勢で返礼した後


「只今帰って参りました!」


と高らかに宣言します。


 彼らの帰校に伴ってクラスの雰囲気は一変したように感じました。

 教室全体が明るく活発になったと思います。


 集団疎開の施設でひもじさと寂しさに耐えてきた学童達ですが、父母のもとに帰って、1週間も10日も経てばすっかり元気を取り戻したに違いありません。

 しかも古巣、懐かしい下鴨国民学校に無事帰還したわけですから。


 彼らが最初に気づいたのは、今まで目にしたことのない変な仲間、つまり私だったでしょう。

 皆の視線が私に注がれていることを強く感じました。


 集団疎開から帰ってきた学童達は、宮沢賢冶の名作『風の又三郎』に登場する“風の又三郎”のような感じで、私をとらえていたでしょう。


“あいつ誰やねん?”


“見たことあらへん、変な奴っちゃな”


という感じで私を見ていたに違いありません。


 クラスの半分は既に馴染みの友達、しかし残る半分は全く見知らぬ子、私にとって少し妙な経験だったでしょう。


 しかし子供は子供、3日もすれば彼らと一緒に元気に運動場を飛びまわって遊んでいました。既に馴染みになっていた留守番組の友人達に助けられたのかも知れませんね。


 成績上位の子供達の帰還がクラス全体を明るく元気にしたことは、疑う余地のないことでした。


 しかし私は勿論、両親も当時知る由もなかったことでしたが、集団疎開から解放された沢山の子供達が胸踊らせて帰る筈であった学び()も家も焼け落ちていたのでした。

 空爆が続く中で都会にとどまっていた父や母を空爆によって失った子供達が沢山いたことでしょう。ひょっとすると過半数の子供達がそうだったかも知れません。


“彼らは帰校式どころではなかったでしょう”


“彼らは戦後をどのように生きたのでしょう?”


 戦争は絶対にしてはならないと強く思います。


 戦いそして空爆の日々は昭和20年8月15日を期して終わり、我が国には平和な日々が訪れるはずでした。


 しかし戦争にかわって多くの日本国民、特に都会に住む市民を襲ったのは、すさまじいばかりの食糧不足、物資不足でした。戦時中全く経験しなかったことです。


 平和な時代は、飢餓(きが)の時代の始まりと一緒にやってきたのです。

 私の幼い記憶を辿ると昭和20年夏~昭和22年夏の2年間が一番厳しかった時期でしたけれど、この状況は急速に収まったわけではなく昭和24年頃まで、長く尾を引いていたことが思い出されます。


パートⅦ:私の大きなおーきな後悔

―空爆で苦難の道を歩むことになった人達の存在を知らなかったこと、大きな後悔です―

激しい空爆の影で危うく一命を取り止めた人達の前にも筆舌尽くし難い苦難の道が待っていました。


 肉親を失った人あるいは肉体を傷つけられて生涯苦難の道を歩む運命を背負わされた人、こんな人達が沢山に出ました。


 大きな苦難を背負って歩く人達の存在を厳しい報道規制によって、私は全く知ることもなく終戦の日を迎えました。

 太平洋戦争時代を一緒に生きていた私がこんな苦しみを全く知らず、少しも共有できなかったことは無念です。一緒に悲しい思いを深めたかったです。


 年を重ねるにしたがって、私と同じように戦中戦後の時代を生きた学童達のその後の苦難の人生を、到底看過することはできません。


 ここに私の思いをお話しさせていただきたいと思います


 焼夷弾を雨アラレと降らす爆撃機の空爆によって、全国至る所で紙と木で作られていると言われる日本の家屋は一瞬に焼け落ち、人々の平和な暮らしを支えていた町並みは一夜にして一面の焼け野原となりました。


 危うく一命を取り留めた人達も父や母を失い、夫や妻を失い、我が子を失いました。


 肉体を傷つけられ、心身両面に大きな負担を背負わされた人々が沢山に出ました。


 こういった人々の前には長く苦難に満ちた人生の道が待っていました。


 家が焼け落ち、一家の支えである父親や夫を失った人々はあてもなくさまよい歩くことになります。


 身を寄せる親族もなかった沢山の人達は、水と食べ物を求めて大きな駅、関西では京都駅、大阪駅そして神戸の三ノ宮駅などに向かい、駅の中あるいはその周辺に身を横たえることのできる場所を求めます。彼らは、国からは完全に見捨てられていました。


 ようやくたどり着いた駅で母親は僅かな食べ物を全て子供に与え続けます。我身が日毎に衰弱していくのも顧みず子供を守り続けます。


 やがて自らは歩く力も失い、誰からも救いの手が差し延べられることもなかった母親は遂に力尽きてしまう……。


 こんな光景が全国至る所で見られました。


 想像を絶する色々な悲劇が生まれました。

 戦前から駅周辺に設けられていたヤミ市で、拾い食いなどして命をつなぐ一人ぼっちとなった子供達。彼らにも救いの手は長く届きませんでした。


 戦災で祖父母や両親を失い、ヤミ市をさまよい歩く子供達に救いの手が、何故長く差し延べられなかったのでしょうか。何故放置されたままだったのでしょうか。残念です。


 小学校5年生であった昭和22年の夏休みに始まったNHKのラジオ番組『鐘の鳴る丘』は、戦後を生きる全国の子供達の心を強く引き付けました。


 ラジオ放送『鐘の鳴る丘』によって、私と同年輩の沢山の子供達が親を失って、戦時中も戦後も当てもなくさまよい歩いていたことを知りました。


 菊田一夫作『鐘の鳴る丘』の主題歌で、国民全てが愛唱した古関裕而作曲のかろやかな歌:


♪♪♪ 緑の丘の赤い屋根(やねー)♪♪♪


♪♪♪ トンガリ帽子の時計(とけい)(だいー)♪♪♪


の歌に誘われるようにして、外で遊んでいた子供達は遊びを中断し、ラジオの前に引き寄せられ耳を傾けます。


 空襲で住んでいた家を焼け出され、両親を失った戦災孤児達が、緑の丘の上に建つ赤い屋根の施設に集まって、共同生活を始めるお話です。


 ラジオの前の子供達は、ドラマに登場する収容孤児達に我が身を置き換えて、耳を傾けます。


 孤児達と同じ年頃の私達は、彼ら一人ひとりが自分自身なのだ、という強い思いを胸に、ラジオに耳を傾けます。


 緑の丘の赤い屋根の建物、その屋根の上に備え付けられたトンガリ帽子の時計台から、鐘の()が夕暮れの空に鳴り響きます。孤児達を力づけるように夕焼けの空に鳴り渡ります。


♪♪♪ 鳴る鳴る(かーね)は、父母(ちちはは)の ♪♪♪


♪♪♪ 元気でいろよぉーと、いう声よぉー ♪♪♪


と孤児達を勇気づけるように、いつまでもいつまでも鳴り渡ります。


 ラジオに耳を傾ける子供達の胸は、このメロディにいつも熱くあつくなります。父母を失った孤児達の気持ちが痛いほど分かるからです。


 戦時中、高槻、津、下鴨と転々とする中で、父と母が存在することの大きさ、仕合わせを強く感じました。2才年上の姉も強くそう思ったことでしょう。


 父と母がいなくなったら僕達は一体どうなるのだろう?こんな思いが、いつも強くありました。


 緑の丘に建っている赤い屋根の施設の中で、明るく元気に暮らす戦災孤児達の姿に、戦時中を生きた子供達は彼らと一緒に強く生きようと思い、勇気づけられたに違いありません。


 『鐘の鳴る丘』は昭和23年映画にもなりましたが、勿論見に行きました。


 お話の筋書きは残念なことですがよく覚えていません。


 しかし同じ年頃の子供達が、戦争で父母を失うという大きな悲しみを越えて、明るく強く生きていく様子に大きなおーきな勇気をもらっていたことは間違いありません。


 私が住んでいる京都市左京区の下鴨から電車で20分から30分、直線距離にして6km程の所にある京都駅南口付近には、戦前からヤミ市が広がっていました。


“あんなところに行ったら危ないよ”


と大人達は私達子供に注意していました。


 しかし現実は、大人達から危ない場所だから近づくなと言われていたヤミ市に、戦時中そして戦後、沢山の孤児達が集まり拾い食いなどをして生き長らえていたのでした。


 大人達から危ないよと言われていた場所が不幸な子供達に“命”を与え続けていたのです。


“不幸な戦災孤児達を救ったのは国ではなく、ヤミ市だったのです”


 夫を失った母親が残された子供達を抱えてここで過ごしていたでしょう。彼女達の生活は壮絶そのものだったに違いありません。


 こういった人達の存在に国そして自治体はいつの時点で気付き、いつの時点で救いの手を差し伸べたのでしょうか。


パートⅧ:戦時中から戦後への大変化―小学生目線で見た変化―


昭和20年8月15日、我が国は過ぎてみれば悪夢のような太平洋戦争から解放され、平和の日々を迎えることとなりました。


 本パートⅧのテーマ『戦時中から戦後への大変化』を、小学生の目線でとらえることはとても難しいことでしょう。大人が捉える内容とでは大きな差があるでしょう。


 本パートでは幼かった私が太平洋戦争とその戦後をどう感じ、どう生きたかについて戦時中と戦後を比較し、小学生の子供に戻ってお話を進めていきたいと思います。


 国民学校1年生春~3年生夏まで過ごした戦時中そして小学校3年生秋~新制中学校1年生夏の4年間という終戦直後の期間に体験した幼少年時代の記憶を、可能な限り忠実に思い起こし、最も強い印象として残った“戦時中と戦後の食料事情の差”についてお話ししましょう。


 戦時中の食料事情と戦後の食料事情を比較するのに、最大の難点は地域ごとに大きく異なることにあると思います。つまり住む地域によって食料事情は大きく異なる、ということに注意しなければならないでしょう。


 因みに私は戦時中、昭和19年夏まで神戸市に住んでいました。神戸市は東西に細長く35kmに及びますが、市のほぼ全域が瀬戸内海に面しています。


 漁船が、当時逼迫状態にあった石油等を沢山に使う遠海の漁場に出漁しなくても、瀬戸内海に豊富に住む沿岸魚のタイ、ヒラメ、タコ、イカナゴ等を豊富に水揚げすることができたでしょう。

 市場(いちば)では、水揚げされたこれらのお魚がふんだんに売られていました。

 どんな種類のお魚かは覚えていませんが、煮魚も我が家の食卓を賑わしていました。


 神戸市の板宿の商店街でのある日のことです。私がクジを引いたところ大当たり!

 景品の塩ザケをもらって喜び勇み、得意満面で母と一緒に持ち帰りました。


 私が住んでいた昭和19年夏までは、山陽電車「西代駅」の近くにお肉屋さんがお店を開いていました。お店の名は“あとべ”さんだったかな?と思います。


 母は


“今晩はすき焼き(じゅくじゅく、と我が家では呼んでいました)にしましょうね”


などと言って買い物袋を手に、あとべさんによく出かけていました。勿論、私もお供します。


 昭和18年夏そして19年夏も、父に連れられて度々海水浴に出掛けました。

 山陽電車に乗って須磨、塩屋、垂水、舞子などの浜を訪ねます。


 駅を降りると潮風、浦風が心地よく迎えてくれます。

 海の香りに誘われるように足を速め石段を駆け上ると、真っ青な海ブルーに輝く夏の空そして真っ白な入道雲が、目に飛び込んで来ます。


 浜辺は海水浴を楽しむ人で一杯。小さな子供達がボール蹴りをしたり、浮き輪を持ってはしゃいだり、賑やかそのものです。


 ポンポン蒸気と呼ばれる小さな漁船が


      “ポン ポン ポン ポン ポーン”


      “ポン ポン ポン ポン ポーン”


と軽やかなリズムを響かせながら、海水浴客のすぐ目の前を2隻、3隻と航行しています。


 真っ白な宝石を贅沢に散りばめたような砂浜が、波打際にまぶしく光ります。緑、緑、緑の松林が白い砂浜に寄り添うようにどこまでも続きます。


 海水浴場でのお楽しみはお弁当。巻きずしにキュウリやトマトなどの夏野菜が添えられたお弁当に舌鼓を打ちます。


 戦時中、昭和19年夏まではこんな平和な暮らしが残る神戸で過ごしていました。私の実体験です。

 食物に特に不自由な思いを感じたことは全くなかったと、しっかり記憶しています。

 

 昭和19年8月以降だったでしょう、日本全土がB29による攻撃目標となります。9月に入ると神戸も空爆が激しくなったため、父と別れ私達親子3人は三重県津市の母の実家に疎開しました。


 農村地帯に囲まれ、伊勢湾に面した津市一身田町での生活も、神戸とほぼ同じような状況でした。


 昭和20年3月、京都市左京区の下鴨に転居しました。京都での食事の内容は少し貧弱になったかなという印象でしたが、基本的には板宿そして一身田町での食生活と変わりませんでした。


 この状況が全く一変したのは昭和20年8月15日の終戦の日以降のことです。


 戦争から解放され、平和な日々を迎えるはずであった昭和20年8月15日を境にして、京都市内では、食卓からあっという間に白米(大豆や麦などが少しまざっていたかも知れません)のごはんが姿を消しました。お肉はもちろんお魚も非常に珍しい存在となりました。


 夕べの食卓に並んでいるタンパク質らしきものは、家族4人に対し1本のチクワか1個のカマボコだけだったでしょう。卵は超貴重品となり高価なものとなりました。


 因みに戦後京都市民が市場から手に入れることができた卵一個の価格は、現在の価格に直せば数百円の()がついていたのではないでしょうか。4人家族が毎日1個ずつ食べるとすると卵代だけで1ヶ月数万円にもなります。

 これではサラリーの6分の1ぐらいが卵代に飛んでしまいます!


 我が家の狭い庭でも窮余(きゅうよ)の一策としてニワトリを飼い、自給自足体制をとろうとしたのでしたが、如何せんニワトリに与えるエサが確保できません。


 我が家は80坪ほどの敷地があったのですが、モクレン、マツ、スギなどが植えられている庭に残されていた僅かなスペースで自給自足のためのキュウリ、トマト、ナスビ、カボチャを作っていましたので、ニワトリのエサになる野菜、例えばダイコン(副産物としてのダイコンの葉っぱ)などを作るスペースは十分にはありませんでした。またエサに混ぜるヌカなども中々手に入らなかったのではないでしょうか。


 こんな状況でしたので、卵は我が家の食卓から逸早(いちはや)く姿を消してしまいました。


 戦後2年後、乾燥鶏卵という黄色い粉末が沢山に入った大きな袋が、緊急に各家庭に外国からの救援物資として配給されてきたように記憶しています。


 母は早速これを水で溶いて卵焼き風に仕上げました。母が心をこめて仕上げた卵焼き、大いに期待していました。

 しかし誠に申し訳ありません、一身田町国民学校時代にお弁当箱に入っていた厚焼き卵とは、似て非なるものでした。


 どうしてだったのでしょう。ひょっとするとこの乾燥鶏卵は米国から貨物船に乗って、高温多湿の中、20日間程の日数をかけてはるばる日本の港に運ばれてきたのではないでしょうか。

 子供達の口に入る頃には品質が劣化し、“賞味期限”も越えていたのかも知れません……。

 半年前まで三重県の津で毎日のように卵焼きを食べていた私には、到底食べられるものではありませんでした。父や母それに姉も口にすることはありませんでした。


 お米の生産量は、農林水産省作物統計部の水稲(全国)の項目を参照すると、昭和19年の878万トン、そして昭和20年は587万トンとなっています。

 何故、京都市内に住む私達庶民の食卓から終戦直後、白米のご飯が消えてしまったのでしょうか?



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 その理由は残念なことですが、小学生であった私には分かりません。


 終戦の年である昭和20年の秋のお米の収穫量は582万トンしかなかったとは言え、昭和19年秋のそれに比べて67パーセント約7割は確保されていたわけです。

 ソロバン勘定では、戦時中、朝、昼、晩と1日3回食べていた白米(豆、麦などが混ざっていたかもしれません)ご飯を国民1人ずつが仲良く2回にすれば、すなわち白米のご飯を3分の1だけ節食すれば、こんな事態は避けられた(はず)です。


 しかし現実に起こったことは(少なくとも京都市においては)極めて悲惨でした。極端なお米不足の状況になったのです。


 当時の日本人の食生活は

主食 = 米食



でしたから、京都市での大きな混乱ぶりを理解していただくことができるでしょう。


 前述の農林水産省の資料によれば、昭和17年以降、戦争の激化とともにお米の収穫量は年々減少し、昭和20年秋の収穫量は、戦後の昭和21年秋の収穫量の半分程しかありませんでした。

 これは、農村から沢山の働き手の方々が戦地に(おもむ)かれたために、極端な労働者不足となったためでしょう。


 終戦の年、昭和20年度の農家の窮状を救うために小学3年生の私に比べて、僅か4~8才年上のお兄さん達、つまり旧制中学校の学生さん達が応援に馳せ参じていました。このことを決して忘れてはならないでしょう。

 彼らは農家だけではなく、軍需工場等でも沢山の女性労働者の皆さんと一緒に働きました。


 戦後直ちに、すなわち一両日の間に動員中学生さん達は、自宅が空襲によって焼失していなければ、家に戻ることが許されたようでした。


 私よりも7才年上で私を“正雄君” “正雄君”と呼んで、とても可愛がって下さった加藤家の四男で15才になる四郎さんが、終戦の日の翌日に帰ってきました。

 この時初対面でしたが、お風呂に入っていく彼の姿を見て仰天しました。

 骨と皮だけのガリガリの姿で肋骨(あばらぼね)が形通りに浮き上がっていたからです。

 こんなにやせ細った人を見るのは、それこそ生まれて初めてでした。


 幸い加藤家の庭は非常に広く、野菜を自給自足しカボチャ(栗カボチャと呼ばれていました)のつるを屋根全体に広げていましたので、庭から手の届くところにあるカボチャは手でもぎ取り収穫しました。屋根の上に広がったカボチャの実は下にワラなどが敷かれて、屋根瓦の上での高温対策がしっかり施されていました。


 こんな屋根の上のカボチャを、夕方または朝早く屋根瓦が熱くならないうちに収穫していました。

 我が家にも加藤家の栗カボチャが頻繁に差し入れされていました。


 復員してきた四郎さんは、庭の新鮮な野菜それに栄養たっぷりの栗カボチャのおかげで、3,4週間後には普通の健常な身体に無事戻りました。


 戦後、お米の収穫量が3分の2ほどに落ち込んだために、多くの京都市民が殆どご飯を口にすることが出来なくなったのは何故でしょう。

 人々の殆どが、


“戦争に負けると世の中は何もかも無茶苦茶になってしまった。これは当然なことなのかも知れない”


と、考えていたでしょう。我れ勝ちの世の中になったんだというように考えて、半分諦めの境地にあったでしょう。


 終戦直後の少なくとも1年間、都会の一般家庭では白米のご飯を目にすることがなくなっていました。

 私の家では通常は高粱(こうりゃん)90パーセント、白米10パーセントという真っ赤なごはん、少し贅沢もしてみようという日には、大豆90パーセント白米10パーセントほどのごはんが食卓に乗りました。


 前者はお茶漬けにして喉に流し込まない限り、食べられた代物(しろもの)ではありませんでした。


 大豆90パーセント、白米10パーセントというご飯は、戦時中白米100パーセントのご飯を朝、昼、晩と食べていた私には、大きな苦痛を感じるご飯となりました。


 このお話、もしかすると

 

“お豆ごはんじゃないの!?文句を言うのは少し贅沢(ぜいたく)じゃない?”


と、おっしゃる方がいるかもしれませんね。


 しかし、炊き上ると90パーセントを占める大豆には何の味付けもなく、白米は混じっているといっても、ほんのちょっぴり10パーセントしか含まれていないご飯に、私はなじめませんでした。


 考えに考えぬいたあげく、お豆だけをお箸で丁寧に拾い、目をつぶって少ししかめっ面しながら食べた後、お茶碗に残ったスプーン一杯分の白米のご飯を、今度はニコニコにっこり、笑顔で食べていました。


 決して笑わないで下さいね。小学校3年生だった私が、朝昼晩食卓に載っている大豆90パーセントという豆ごはんの美味しい食べ方を、創意工夫した結果発見した食べ方なのですから。


 都会に住む人達は、昭和20年度の稲作は古今(ここん)未曾有(みぞう)の大凶作である、という印象でこの事態を受け止めていたに違いありません。


 この苦難の状況を乗り越えるために京都市民のとった策は以下のようだったでしょう。

 お金持ちの人達は高価なヤミ米を購入して何の不自由も感じないで凌ぐ。

 農村地帯に囲まれた中小都市に住む知人を訪ね、お米をもらって帰る。

 こういった知人がなく特にどなたの厚意にも甘えることのできない人達は、郊外の農家を、着物などを持参して訪ねお米と交換してもらう。


といったことで凌いでいたでしょう。


 私達4人は疎開していた津市一身田町の伯母の家を2泊3日ぐらいの予定で月に1回程度訪ねました。お腹いっぱい食べた後は、12~16食分ぐらいのお弁当を作ってもらって、夕方、下鴨の自宅に帰りました。


 私達はこのような行動を、少し、いやだいぶ下品な言葉で申しわけないですが


“食い延ばしに行く”


と言っていました。

 全くの蛇足ですがせいぜい月1回というペースでしか訪ねることが出来なかったのは、往復の電車賃(当時は汽車賃)が制約となっていたのではないでしょうか。


 伯母の家からお米はもらって帰ることは全くしませんでした。日持ちが良いようにスシご飯にしてもらったお弁当を手土産に持って帰るだけです。


 これは、当時お米を持ち歩くと大きなリスクが待ち受けていたからです。

 交番の前を避け、迂回して用心深く歩いたとしても、運悪く自転車に乗ったお巡りさんに見つかると


“その荷物は何だ!?”


ということになります。


 お米を3キロ(約2升、1食1合として約20食分)も持っていたりすると、全て取り上げられてしまいます。さすがに明日、明後日と食べるお弁当は無罪放免だったようですね。


 JR(当時国鉄)参宮線の列車に乗って、津市一身田町の伯母の家を月に1度ぐらいのペースで“食い延ばし”のために訪ねる私には、田原君村中君に再会できるという大きな喜びがあります。毎月1回の大きな喜びです。


 しかし、伯母の家を訪ねる度に車内で見た悲しい光景を、決して忘れることは出来ません。帰途、草津駅に近くなると、駅ごとにお米を一杯肩に担いだ小父さん小母さん達が乗り込んできます。男女半々ぐらいのいわゆるヤミ屋と呼ばれる人達が乗り込んでくるわけです。彼らにはいつも悲しい光景が待ち受けています。


 列車が草津駅を通過し大津駅に着くまでの時間帯だったでしょう。各車両に数名のお巡りさんが乗ってきます。そして片っ端から米袋を取り上げて窓からプラットフォームにほうり投げます。


 お巡りさんも人の子、全てのお米を取り上げることはしていなかったと記憶しています。ヤミ米を都会に運ぶいわゆるヤミ屋と呼ばれる人達が、生活に困窮することはない程度に残してあげていたのでは?と思います。


 しかし、よく考えてみますとこの見逃しによって、図1にモデルAとして示したような奇妙なバランスの関係が生まれて、比較的長期間この状態が続いたのではないでしょうか。

ヤミ米を高価に売る農家の人(クラスAの人)

↓↑

ヤミ米を購入するブローカー(クラスBの人)

↓↑

これを取り締まる人(クラスCの人)

↓↑

取り締まりを免れたヤミ米を、高値で大量に買い取る人(クラスDの人)

↓↑

お金に糸目をつけずお金を購入するお金持ち(クラスEの人)


図1:モデルA



 つまり


“このバランス関係を一定期間持続させるためには、ヤミ米運び屋の小父さん小母さん達が生活に困窮しない程度にヤミ米の一部が見逃されることが必要な条件”


ということになるでしょう。


 この見逃しがお巡りさんの意図によるものなのか、それともヤミ屋の方々が一部を巧妙に隠すことによるものなのか、その何れであるかを判断する根拠を、私は勿論持っていませんし、また追求する気持ちも毛頭ありません。


 ヤミ屋の人達も大混乱の戦後の時代を精一杯生きようとしていたのでしょう。


 とても不幸なことに終戦の日以降の1~2年間、モデルAの状況が続き京都市では庶民の食卓から白米が姿を消し、戦時中も米食が主食であり中心であった京都市民の食生活は、飢餓地獄の様相を呈しました。


 昭和20年当時は、荷馬車が今日(こんにち)の軽トラックのように荷物の運搬などに頻繁に使われていましたので、馬糞が路上のあちこちに散らばっていました。

 この路上の馬糞に空腹のあまり思わず手を出した人、或いは栄養失調死した人などなどの悲しいニュースが私の耳に入ってきます。


 お米不足に加えて、お肉、お魚、お卵、牛乳などの生鮮食料品の極端な不足によって人々は栄養不良の状態でした。育ち盛りの幼少年世代には大きな打撃でした。


 昭和20年8月以降の数年間、全国の沢山の子供達、少なくとも京都市に住む殆ど全ての子供達は極端な栄養不足の状態にあって青色、薄い緑色がかった鼻汁を垂れ流しているのが普通という状態になりました(お食事前でしたら以下の数行をスキップして下さいませ)。


 子供達は耐えられない長さまで青い鼻汁が垂れ下がってきたことを感じると、着ているシャツの袖で青い鼻汁を拭き取ったり、あるいは“ずずっ”と音を立てて鼻の奥に吸い込んだりしていました。

 勿論、私も例外ではありませんでした。

 この垂れ流しの鼻汁によって子供達の鼻の下はいつも赤くただれたように荒れていました。白いシャツの袖はいつも緑っぽい色に染まっていました。


 栄養不良の状態は子供達の両手指両足指も痛めつけました。子供達の手足の指は霜焼けで赤く腫れ上がっているというのが定常状態だったでしょう。


 子供達のこんな状態は戦後3~5年間ほど続いていました。太平洋戦争中は全く経験しなかったことです。


栄養不良の子供達は青い鼻汁を垂れ流したまま、ベッドに力なく横たわっていたでしょうか。



 いいえ子供達は、すさまじい栄養不良の状態のため肉体は痛めつけられていましたけれど、決して負けていませんでした。


 子供達は元気一杯外で遊んでいました!

 家に閉じこもっている子は一人もいませんでした。


 もし“勇くん”が外に出てこないと分かると、子供達は勇君の家の前に急ぎます。そして大きな声で


“い・さ・む・くーん!あそぼぉー”


と連呼します。

 勇くんはこの声に励まされ、“元気”をもらって外に飛び出してきます。


 さぁ、それからはみんなと一緒に、缶けり、鬼ごっこ、かくれんぼ、ドッジボール、三角ベース(3本の電信柱を1塁、2塁、ホームベースにした道路上での野球)などなどを思いっきり楽しみます。


♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


子供達の元気な様子にお日様が、


ニコニコにっこりほほ笑みかけます。


子供達は笑って、笑って、笑って、笑って


元気一杯笑います!


からっ風が、ぴゅーん ぴゅーん ぴゅーん びゅーん


と得意の喉を鳴らして


“もっと元気に走ろうよ!”


と語りかけます。


子供達は走って、走って、走って、走って


元気一杯走ります!


♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


パートⅨ:歩み始めた復興への道


戦後の混乱を越えて復興への力強い足音を感じたのは、昭和23年の秋、小学校6年生の時でした。


「復興博覧会を見に行きませんか!」


と声をかけてくれたのは、同志社大学神学部の学生さんで私の従兄(いとこ)の親友、岡田久さんでした。


 ワクワク感を胸一杯にして、京都駅から電車で大阪に向かいます。


 大きな会場は熱気に溢れていました。沢山の展示品に思わず目を見張ります。

 迫力満点の機械類、当時超贅沢品であった自動車、新型の乗合自動車などが会場に所狭しと展示されています。


 会場は華やいだお祭り気分、ウエスターン風の賑やかな明るい音楽が流れていて


“日本はこれから力強く立ち直っていくんだ”


という大きな希望の光が胸一杯に広がっていくのを感じます。入場者の皆さん、そして私も大きな夢が未来に約束されていることを確信したことでしょう。


 この博覧会によって“復興”の二文字が胸の中、心の中にしっかり刻み込まれました。


 戦後の敗北感そして長く続く未曾有の食糧難の中で、打ちひしがれた状況にある日本人に、大きな希望の光を与えたのは以下の人達だったでしょう。

 昭和23年~27年に活躍し「フジヤマのトビウオ」との異名をとった水泳の名選手古橋広之進そして古橋といつもレースで競い合った橋爪四郎。

 昭和24年日本人として最初のノーベル賞を受賞した物理学者湯川秀樹。


 古橋、橋爪両選手は昭和24年全米選手権水泳競技大会に招かれましたが、両選手はこの大会で世界新記録を連発し世界を驚かせました。


“見よ!これぞ日本男児の真面目(しんめんもく)!”


と日本中が沸き返りました。


 この古橋・橋爪の活躍が契機となって、毎年のように日米対抗水泳競技が開催され、ラジオが必ず実況放送をします。

 私はラジオにかじりついていました。全てのレースで米国のスーパースター、マックレーンを押えての古橋1位、橋爪2位という結果です!

 私は彼らが勝利するたびに、もうどうしようもなく嬉しくて


“万歳!” “万歳!” “万歳!”


と叫んで部屋中を飛びまわっていました。

 

 湯川秀樹博士は、私の住んでいる京都市左京区下鴨の家から徒歩で訪ねることができる距離に、住んでいらっしゃいました。

 それだけに、湯川博士の快挙は非常に大きな喜びと勇気を私に与えてくれました。


 沢山の少年少女達が


“僕も私もノーベル賞を取りたい!”


と思い、大きな励みを胸にして勉学に取り組んだことでしょう。


 この時期子供達、大人達全てが将来に大きな希望、大きな夢を抱いていたことが強くつよく思い出されます。


 日本は復興に向かって力強く歩み始めたのです!

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