アパート
大学の二回生に上がってからの春斗の生活は講義とレポートという名の亡霊によって動くことの出来ない金縛りのような時間、教室や家、そしてバイト先という空間に縛られた地縛霊のような様、バイトも給料を貰う為に行ってやる気もなく働くという悪霊のような有り様であり、春斗そのものが幽霊のように思えて来る。
そんな冗談を思い巡らせながら春斗は今日も給料を貰いに行く悪霊のような存在として駅前のコンビニで働いていた。
ここで働こうと思ったきっかけは女子高生と思しき可愛いバイトの子がいるという色欲にまみれたもので付き合えたら嬉しいと思いつつ面接を受けたのであったが、いざ働き始めると対して話題を切り出す事も出来ずに話しかけられても上手く話す事も出来なくて想いは怨霊のような黒さで己の心の内を遊泳し続けるだけであった。
このような状況ではそばにいる可愛い女子高生が逆に邪魔に思えて仕方がなかった。
女子高生はレジ前で堂々と宿題を進めており、特に話しかけて来る時には憎しみすら覚える程であった。なぜならばその全てが宿題関係の事だからである。
春斗は女子高生をひと目見て、良からぬ事を考えながらレジから離れて行く。
ーさて、こうして品出しや掃除をしている間にお客さまがレジへと参ったらどうなるでしょうか?ー
棚に積まれたり掛けられている雑誌をカゴに入れて春斗は棚を拭き始める。そうしている間にもドアが開き、入店を報せるいつもの音が鳴る。普段なら鬱陶しいと思っているその音も今この瞬間だけは最大級の楽しみとなっていた。
「いらっしゃいませ」
そう言った後に春斗は再び棚を拭き始める。
ーさあ来いさあ行け思い知らせてやるのだー
入店して来た人物は春斗の後ろを通り、立ち止まる。窓ガラスを鏡として少しばかり見えているその姿、体格は恐らく女性であろう。春斗は掃除においてわざと遅く時間をかけて丁寧風を装っている。その時に後ろに立たれると監視されているような気がして心臓の鼓動が速くなる。焦りは汗となって春斗の身体を静かに確かに伝っていく。
ーお願いします話しかけないで、通り過ぎて、早く速くー
そんな願いが通じたのか、後ろの女性は微かに笑って通り過ぎて行った。
春斗は力が抜けたのか、尻もちをついていた。袖で汗を拭い、安堵の感情を浮かべる。
ーなんで恐怖体験並みのドキドキを味わってるんだ俺ー
それを乗り切ったからにはあとひと息。その時は恐らく5分にも満たないであろう。しかし春斗には10分にも20分にも思えていた。
そして裁きの時が始まる、かと思いきや。
「すみません! レジお願いします」
妙に太く高い声による叫び。そんな声を少し不自然に思いつつも、そこにいるだろと思いながら拭き掃除の続きに励む。
「さっきから棚拭いて仕事してるふりしてる人お願いします」
やはり春斗を呼んでいるのだ。
「指名かよ、ホストじゃあるまいし」
そうぼやきながら春斗はしぶしぶレジへと向かう。レジの空いた方に立っていた女の姿に驚きを隠せなかった。
「冬子、さっきの声どこから出してたんだお前」
冬子は一度咳払いをしていつもの低い声で話し始める。
「驚かしてやろうと思っただけ。結構苦かったけどな」
計画通りに行かなかったどころか別の罠に嵌められた春斗はやむを得ず冬子が持っていた商品を読み込ませていく。
「あとコーヒーを1杯頼む」
目付きの悪い冬子がそう言うと脅しているように見えた。
「あと終わったらテイクアウトで春斗を頼む、カフェは閉まってるから最寄りのファミレス集合。名前はアキオのテーブルだ」
その瞬間、春斗は全てを把握した。つまり今回の冬子は秋男の放った刺客なのだと。
☆
バイトを終えた頃、辺りは暗く闇に閉ざされ心霊スポット探索にはうってつけの環境。涼しいどころか未だに肌寒い風の吹く夜道を歩いて行く。
この辺りは明るい闇よりは暗く、かと言ってあのダム程には暗くない。同じ闇の空でもこうも違うのだと最近になって改めて思い知らされていた。
例のファミレスに足を運び、秋男と冬子の待つテーブルへと向かう。
そこでは秋男がいつも通りに楽しそうに話していた。
「よお、粋なプレゼントだったろ」
「全然、宿題娘に赤っ恥かかせようとしてたのに」
「それは悪かった。ただのサボりと思ってた」
冬子のばつの悪そうな表情を目にして春斗は笑顔を見せつける。
「気にしなくていいよ。あの後成功したし何より知り合いが来てくれて嬉しかったから」
「そうか……知り合いな」
気まずい空気を打ち破るのは秋男の仕事。これから入って行く話題こそが秋男の本命だった。
「これからひとつ、良いお知らせがあるぜ」
そう言って切り出される秋男の話題など方向性は既に分かりきっていた。
「なんと俺のダチのひとりが事故物件に住んだんだ」
アパートにて、秋男の友だちが体験した事。前住んでいたアパートが大規模な改装工事を行うことに決まったため一時的に別のアパートに引っ越したのだそうだ。その引っ越し先は家賃も間取りも悪くはなく特に何も書かれていなかった場所で学校に近いため満足して選んだのだという。そうして心浮き立って住んだ家、しかし悲劇は一夜にして訪れたのであった。
男が住んだ部屋は2階の1番端、右隣りには誰も住んでいないと言う好条件の部屋の中、ベッドに寝転がると壁から何やら1人ボヤく声が聞こえてくるのだ。その声は呻くようなもので言葉は曖昧で聞き取れない。
ーもしや移動遅れただけで今日から住んでんのか? 同じアパートのヤツかー
そう思い、眠ろうと目を閉じるも例の声が気になって仕方がなかった。あまりにも耳障りな呻き声を黙らせるべく起き上がって壁の方を見たその時、気が付いた。その窓の向こうは暗闇の空白、つまりは外。そこに誰かが立っているはずもなく、しかし何やら声が聞こえて来るのは確かな事。その事実に怯えた男は意識を遠くに投げ飛ばしたのであった。
それが秋男の友だちが体験した恐怖。そしてこれから秋男たちが立ち向かう恐怖。
「待った、そこに行くのか。私は嫌だ」
冬子はそんな恐怖に自ら首を突っ込むのはゴメンだとばかりに首を横に振る。
秋男はそんな態度を窺って考えを発した。
「分かった。じゃあお前は来なくていい。春斗さえいれば充分だ。いざとなれば春斗を盾に使えば生き残れるしな」
春斗は恐怖した。巻き込まれたら放置されるのだという事実を知って驚かない人などそうそういないであろう。
そんなやり取りの末、冬子は溜め息をついて着いて行く事を了承したのだという。
☆
次の日の夕方、例の友人は秋男の家に泊めて例のアパートに3人で。冬子は秋男を睨み付けていつも以上に低い声で脅しをかける。
「春斗を盾にとか言ってたが実行したら絶対許さないからな」
「分かってるぜ、そうでも言わなきゃ俺1人だと『死んで来い』とかしか言われないと思ったからな」
それは冗談なのか本気なのか、ふたり揃って分かることが出来なかった。
そんな話をしながら歩く3人、恐怖のアパートはそんな3人の目と鼻の先に来ていた。
「ここが悪霊の住まいだぜ、確か事故物件も一度誰か住まわせたら事故物件って書かなくていいんだよな」
そうして貼り付けられた偽りの安全潔白、秋男は鍵を持って例の部屋へと向かった。
その部屋の前で冬子は鼻をつまみ、立ち尽くす春斗に対して静かに言った。
「断末魔の残り香……これは悪霊の類いだ、気を付けろ」
恐らくはここで何者かが何かの悲劇に巻き込まれ、断末魔の叫びを上げながらこの世を去ったのだろう。その残響はこの世にこびり付き続けて第六感持ちの五感に訴えかける。まさに無念の残滓なのだ。
3人はアパートに入り、荷物を降ろす。そして夜を待つのであった。
時計の針の進みは遅く感じて心臓の鼓動は早く感じる。早く終わって欲しい事が未だに来ない。いつまでも始まって欲しくない事が思い通りに来ないまま。良いのか悪いのか、冬子はただ部屋の隅を睨み付けていた。
「おい冬子、お前早く風呂入れ。俺も春斗も入ったぞ」
冬子はただ一度頷いてその場を立ち去る。
「やれやれ、春斗も少しは話し慣れたか? 可愛げもないし話しやすい方とは思うけどアイツじゃ練習にもならねえかもな」
「失礼過ぎない? 冬子もよく見たら女の子してるからな」
秋男は缶ジュースのタブに指をかける。
「ビールならカッコいいんだけどな、仕方ねぇか、あと1ヶ月ちょい待ちだな」
秋男が大人になる。それに続いて冬子や春斗も大人になって行く。その壁を抜けた先、何が変わるのだろう。何も変われる気がしなくてひとり置いて行かれる自身が春斗には見えた。
「どうした? ああ、お化けが怖いのか。そうかそうか」
一体どのような表情をしていたのだろう。春斗は自分の顔を触って確かめるも何一つ分からなかった。
やがて冬子が戻って来た。
「じゃ、電気消して待つとしますか」
秋男は電気を消して小さなランプを取り出す。頼りない光は恐怖の闇を消す事もなく、弱々しく輝き続けるだけであった。
それから1時間が経った。
「何も来ないな、そろそろ時間だろうに」
冬子のその一言、それが引き金にでもなったのだろうか。壁の向こうから呻くような声が響き始め、静寂は打ち破られる。
声は不明瞭で曖昧。しかし確実に意味を持っていた。
「カーテン開けてみろよ」
秋男の提案に従って春斗はカーテンを開けた。その瞬間。春斗は尻もちを着いて後退りをする。窓の向こうに見えた影、それは疑いようもない人の顔。さぞかし恨めしそうに呻く男の顔。
春斗は一瞬だけ目を逸らした。それが全ての間違い。
冬子はずっと見つめていた壁の方を指して口を動かしていた。恐怖は言葉を吐く事すら許さず、冬子はただ不格好に口を動かし続ける。
「よくも……コ……ロシ……タ……ナ」
「ヨ……クモ……ヨク……モ……」
突如明瞭になった言葉に驚きを隠せず、春斗はそばにいる冬子の肩を掴み震えていた。
「オ……マ……エモ…………イッ……シ……ョ…………ニ」
そんな呻きと足のない男が伸ばす手、そして金縛りにあい動く事すら許されない3人はただそこにて聞き続けるのみ。
歩けないはずの男は進み始め、その手を秋男の方へと伸ばしていく。その手は秋男の首へと冷たい感触と冷たい感情をぶつけ続けるのであった。
☆
開かれた目を最初に出迎えたのは朝の日差し。春斗は昨夜の出来事を思い出して冬子を揺り起こす。冬子は目を擦りながら春斗の姿を目にすると、ただ「おはよう」とだけ言った。
次に秋男を起こそうとするも、秋男の姿はどこにも見当たらなかった。
狭い部屋に隠れる場所などありはせず、果たしてどこへ消えてしまったのだろう。
「秋男? 秋男! どこだよ、どこに行ったんだよ」
行くあてもなく見失ってしまった存在のありかなど分かるはずもない。いなくなった事実だけを受け止めて悲しみに暮れて俯いていた春斗の肩を叩く者がいた。
「なんて顔してんだ、昨日は怖かったな」
それはいないはずの男。
「秋男! 生きてたのか」
その男、秋男は笑顔を浮かべていた。
「もちろん。死ぬかと思ったけど生きてたぜ」
どうやら秋男の話によるとシャワーを浴びていたらしい。そうして対策も何も出来ない事を悟った3人は大人しく引き返して秋男の友人に引っ越しを勧めに行くのであった。