8.魔法使いだ
大人の女の人って、凄い。
目を細めて、口の端を小さく上げて、それから私へ手を伸ばす。
その手のひらはゆっくり私の頭に乗せられて、さらさらさらって、髪を揺らした。
袖口から、煙草のにおいと、お姉さんのにおいがする。
香水なのかもしれない。
子供の私はそれが何の香水なのか分からなかったけれど。
ちょっぴり甘い、男の人みたいなにおい。
そのにおいと一緒に嗅ぐたばこのにおいは、これっぽっちも臭くなくて、この人の方がマホちゃんよりもずっと魔法使いみたいだ。
「はは、会いたくなるね」
ぼんやりしていると、甘い声で、そんな事を言う。
まるで、恋人に囁くみたいに優しく言うんだ。
私、恋人なんて居たことないけど。
「橘先生!!」
がっしゃん、と。
扉が乱暴に開かれる音が聞こえて、少し飛び上がってしまった。
それに合わせて引っ込められてしまった手が少し名残惜しくて、不思議な気持ちになってしまう。
「白沢先生。扉には優しくしてあげて」
「橘先生だって、いつも乱暴に扱ってるじゃないですか……!」
タチバナ先生。
スカジャンのポケットに手を突っ込んで、扉の所にいるシロサワ先生の事を見る、タチバナ先生の目は凄く優しい色をしていた。
「あ、自己紹介がまだだったね」
扉を閉めて、そそくさと此方へ向かってくるシロサワ先生から、視線を此方へ移して、タチバナ先生は優しく声を掛けてくれる。
でも、その目はシロサワ先生に向けられていた目とは違って見えた。
きっと、特別仲が良いのかもしれない。
「初練橘。変わった名字だし、名字みたいな名前だから、みんな橘って呼ぶよ」
ウイネリだなんて、確かに初めて聞く名字だ。
どんな字を書くんだろうと考えていると、シロサワ先生が空中に文字を書く。
「初めましての初に、練乳の練で、ウイネリって読むんですよ」
「アタシの名前を白沢先生が説明するの?」
「あ、すみません。つい、」
照れたように笑う白沢先生は、とても可愛らしい人にみえた。
どうして、特徴が無いだなんて、思ったんだろう。
緩く纏められた黒髪を左側に流したその人は、優しげな雰囲気を纏っている。
垂れ目で黒目の大きな瞳も可愛らしいし、学校の先生というよりは、保母さんと言われた方がしっくりくる気がする。
「キミは何ちゃん?」
「西邑勇ちゃんですよ」
「だからなんで白沢先生が答えるの」
ほんとに、何でシロサワ先生が答えるの。
それに、なんでシロサワ先生を見る橘先生の目は、こんなに優しいんだろう。
私は、なんでこんなにモヤモヤしてるんだろう。
「じゃあ、ウサちゃん」
――へ?
聞き間違い? 噛んだ?
呆気にとられて橘先生を見ていると、橘先生はまた「ははは」と笑う。
「イサミってより、ウサミって感じじゃん」
そう言って、橘先生は自分の手を、自分の頭に添える。
ウサギの耳を作るみたいに、広げた手のひらを此方へ向けて、ちろちろと動かしてみせる。
そんな、動作ひとつでさえ、とても綺麗な人だった。
「生徒を揶揄っちゃダメですよ」
「揶揄って無いじゃん」
橘先生は、きっと私を揶揄ってる。
顔に熱が上って、すごく熱い。
なんだこれ、――なんだ、コレ。
「私、もう大丈夫なんで。失礼します」
これ以上此処にいちゃダメだと、思った。
逃げ出してしまいたかった。
ベッドからいそいそと脱出すると、橘先生が私の手を掴む。
「本当に大丈夫?」
私を覗き込む、その瞳はやっぱり、シロサワ先生に向けられるものとは違う。
「大丈夫、です」
「お大事にしてくださいね。これ、西邑さんの鞄です」
シロサワ先生が鞄を持って来てくれている事にすら気付いてなかった。
それくらい、橘先生だけの事を見てしまってたんだ。
呆気なく解放された手で鞄を受け取って、飛び付くように扉へ向かう。
「西邑さん、また明日」
シロサワ先生が、先生然とした挨拶を投げ掛けてくる。
軽く頭を下げてから、扉を開けて、外へ出た。
一気に解放された気分になったけれど、直後聞こえてきた言葉が、また私の気持ちを重くする。
「サユリちゃん」
シロサワ サユリ。
確か私の、担任の先生の名前。
黒板に書かれた漢字までは記憶に無いけれど、橘先生は、その名前を大切なものの名前みたいに呼んでいる。
――やっぱり、橘先生の方が、マホちゃんよりもずっと魔法使いだ。
お読みいただきありがとうございます(_ _*))
三角関係じゃなくて五角……? いやいや、この二人はあまり登場させる予定ではないので、あくまで三角関係です( '꒳' )




