1.転生者です
三月と言えど、雨の降る日は随分と冷え込む。
冷たい冷たい雨が傘を弾く音はそんなに嫌いでもなくて、イヤホンを外して雨音を聞きながら歩いていた。
傘をさすのは不得意な方で、靴下が水を吸ってぐじゅぐじゅと音を立てる。
こうなってしまうと最早、水溜りを避ける意味もないので、大きな水溜りだって踏んで歩いた。
子供みたいに、浮かれた気分でいるのは、新生活が楽しみで仕方ないからかもしれない。
私の通う高校が決まった後に親の転勤が決まり、親は私に狭いワンルームマンションの一部屋を借り与えた。
高校生で一人暮らし。
漫画や小説の登場人物のような境遇に、胸を躍らせた。
不安も沢山あるけれど、一応オートロックのマンションではあるし、親戚が同じマンションに住んでいるので、何かあった時にはそこを頼れる。
身に降りかかった、想定外の自由に、スキップだってしてしまえそうな程に。私は浮かれていた。
冷や水を浴びせられたのは、そんな最中の事だった。
自分の住処であるマンションの下。
玄関口の近くに、大きめの段ボールが置かれている。
蓋が開けられたそれから飛び出るように、女の子が、傘もささずに座っていたのだ。
頭は、見たことのない髪色をしている。
ピンク色。そんな派手な髪の色の人、見たことが無い。
――不審者。
その一言が頭の中を駆け巡って、身体が動かなくなる。
捨て犬や捨て猫のそれみたいに、人間が捨てられている。
どうするべき? 警察? 救急車?
一人暮らしを始めて数日。
不安なんてまるで感じずに過ごして来たけれど、ここではじめて、家に帰っても誰もいない恐怖が身に染みる。
アレの前を通らなければ、家に帰る事は出来ない。
危ない人だったらどうしよう。
痴情のもつれから、自分を捨てた男を待っているとかだったら……。
刃物とか、持ってるかも。
立ち尽くす私は、恐怖に取り憑かれながら、それでも段ボールの中の少女からは目を逸らせずに居た。
熊に出会った時は視線を逸らさず、ゆっくりと後退りするのが良いと聞いた事がある。
そうだ、そうしよう。
一歩、二歩、じりじりと後ろに退がる。
このまま、少し距離を取ったらコンビニまで走ろう。
それから、親戚に電話をして迎えに来てもらおう。
三歩、四歩。
異物から距離を取る為に、ゆっくりゆっくり音も立てないように気を配りながら。
後もう少し離れたら、一気に走ろう。
傘を捨てて、濡れたって良い。
そうして、よしそろそろ走り出そうかと覚悟を決めたその時。
少女は――、ゆっくり顔を上げて、私を見た。
―――
「……むらさん、西邑さん!」
「へ? あ! はい!!」
くすくすと、周囲から笑い声。
それから、沢山の視線が私を刺す。
教室。なんの特徴もない、けれど優しそうな顔の女教師が困った顔で此方を見ている。
「自己紹介、お願いしても良いですか?」
「あっ、あ……、はい! 西邑勇、ですっ」
喋りながら勢い良く立ち上がった所為で、後ろの席の子の机にガツンと椅子が当たる。
「ごめ……っ、ごめんなさい」
後ろの子に謝れば、気にするなと言う風に手を振ってくれたので、胸を撫で下ろしながら、前を向く。
そうだ、今日は、高校の入学式の日だ。
長くて面倒な式が終わって、自己紹介をしましょうと教師が提案した。
その自己紹介に特別興味を持てなくて、ぼんやりと考え事をしてしまっていたのだ。
「西邑勇です。中学は西第二中で、えっと、よろしくお願いします」
頭を下げると疎らな拍手が飛んでくる。
顔が酷く熱かったけれど、きっと誰も私の自己紹介なんて聞いていない。私が、そうだったように。
高校デビューという程では無いけれど、眼鏡からコンタクトに変えて、髪も明るい色にと茶色にしてみたけれど、何にも変わらないんだ。
椅子に座り、溜息をひとつ吐く。
このまま倒れ込みたい気分だけれど、そんなことをしたら悪目立ちしてしまうかもしれない。
後ろの席の子が立ち上がり、順々に、詰まることなく自己紹介が続く。
時々変わった事を言う子もいたけれど、どれも無難で、つまらないものだった。
普通な子。変にテンションが振り切って滑っている子。パリピみたいな近寄りがたい子。
仕分け作業をするみたいに、繰り広げられているそれ。
私はどれにカテゴライズされるんだろうか。
不安で縮み上がっていると、周りがざわざわと、騒がしくなる。
顔を上げると、すべての視線が私の右斜め後ろに向いていた。
つられて、私もそちらを見る。
そこには、美少女という言葉を具現化したみたいな、女の子が立っていた。
――なんで、今まで目に入らなかったんだろう。
腰の少し上あたりまで伸びたふわふわの髪を低い位置で二房に分けて、結んでいる。
驚くことに、その髪色はピンクだ。
瞳は青い、晴れ渡る空のような色をしていて、人間離れしている。
校則が緩い高校ではあるけれど、誰も止めなかったのだろうか。
「甘南ユズリです」
良く通る、可愛らしい声だった。
教室から音が無くなってしまったみたいに、彼女の声だけが響いている。
私は、その声に聞き覚えがある。
「転生者です」
あの雨の日に、段ボールの中に入っていた子だ。
その一言を受けて、教室が一気に騒がしくなる。
当たり前だ、頭がおかしい。
「こことは別の世界から、勇者を探す為にこの世界に転生しました。記憶が戻ったのは、最近ですが」
「はーい! 質問! 勇者、見つかりましたか?」
高校デビュー失敗作代表みたいな、下品な金髪の男子生徒が手を上げて質問する。
にやにやと、これまた下品な笑顔を携えて、歯並びの悪い口から吐き出されたその質問に、甘南さんは「はい」と答えた。
――これ以上、言わせてはいけない。
私は両手で机を叩いて立ち上がる。
こけおどしでも、此方に注意が逸れれば良いと思ったのだ。
「この子が勇者様です」
白魚の様な手が私を指差す。
やり遂げたとでも言いたげな顔で、甘南さんが此方を見ている。
最悪だ。
最悪だ最悪だ最悪だ。
私はこの高校で今日から三年間を過ごすというのに、こんな、よくわからないやつに、孤立への道に引き摺り込まれた。
「名前、勇ちゃんっていうんだね。仲良くしてね?」
美少女オーラを辺りに振りまきながら、その手を私に差し出してくる。
悪魔だ。悪魔の手だ。
「そうして、仲良くなったら、私の世界へ一緒に来て。世界を救って?」
「いやああああああ!!」
私は叫んだ。
喉が切れたって良い。
血を吹き出したって良い。
コイツの仲間ではないと、周囲に示さなければ。
差し出された手を全力で叩く。
ばちんと良い音が鳴って、白い手が弾かれる。
「あれ? 緊張してる?」
甘南ユズリは譲らない。
ユズリなんて名前のクセに、まるで引く気配が無い。
もう一度手を差し出してくるので、そいつをもう一度叩いてやる。
「おかしい」
「おかしいのはアンタの頭だ……!」
「もしかして、記憶が戻ってない?」
「やめてよやめて……! 私をアンタの仲間みたいにしないで……!」
「大丈夫だよ、わたし待つから。手伝うから、一緒に記憶、取り戻そう!」
「やめてってばああああああ!!」
泣いた。
そして、逃げ出した。
教師が私を呼ぶ声が聞こえた。
周囲の生徒の同情を孕んだ視線が突き刺さる。
こんな場所、とてもじゃないけど居られない。
私は走った。
甘南ユズリから、逃れるために。
あの雨の日も、さっさと逃げれば良かったんだ。
顔を見られる前に。
声を、掛けられる前に。
―――
目が合った彼女は、緩慢な動作で立ち上がる。
「みつけた」
雨の音が響いているのに、それでもはっきりと聞こえる。
良く通る声だった。
「あなた、勇者だよね」
ぞわりと背に悪寒が走る。
言葉の通じない人種なのだと、すぐに判別がついた。
「探してた。さあ、帰ろう」
段ボールの外枠を跨いで、此方に向かって来ながら、その人は手を差し出した。
私の足は、動かない。
身体が石になってしまったみたいに、ぴくりとも動かせないのだ。
「勇者様」
そばまで近付いて来たその人は、私の頬に手を添える。
とても冷たい手だった。
きっと、何時間も雨に打たれていたのかもしれない。
「救急車、」
呼びましょうか、と続けようとした言葉は、飲み込まれてしまった。
――彼女の、口に。
唇と唇をそっと合わせて、ちゅっと小さなリップ音をたててから、離れていく。
冷たい手が頬をさわさわと撫でて、その人は恍惚とした顔で、溜息を溢した。
「帰ろう。わたしの愛しい、勇者様」
――私の、ファーストキス。
ぶわわわと、目頭が熱くなって涙が出て溢れる。
意味わかんない、意味、わかんない……!!
平凡に生きてきた、私の日常が音を立てて崩れる音がする。
――何より、逃げなきゃ!!
一刻も早く、この場を立ち去りたい。
私が動かないのをいいことに、再び顔を寄せようとしてくるその人の胸を、強く押す。
不意打ちが決まって、よろけた隙に、私は走った。
コンビニ。
走って、警察に電話。
二度と、二度と会わないように……!!
傘も捨ててコンビニに駆け込んだ私を、店員さんは大層心配してくれて、事情を聞いて警察を呼んでくれた。
話した内容は覚えていないけれど、見回りを強化してくれるって話だったのに。
――同じ学校に居るんじゃ、意味ないじゃん……!!