2話 少なくとも俺にヒーロー補正というやつは存在していない
ざっくりあらすじ
・絶賛ナーバスな主人公は大学合格
・ギャルゲー主人公な親友とその愉快な仲間たちと帰り道
・なんかよくわからんものが目の前に現れた
「なに……あれ……」
体を小さく振るわせ、絞り出すようにしてそう言う松里。
目の前には、哀れな犠牲者である半融解したネズミを取り込んだ、ゲル状の謎の生物。いや、あれを生物と呼んでもいいのだろうか?
「……と、とりあえず、ど、どうすりゃいいんだ?」
安須は困惑したように視線をさまよわせ、木原は驚きで体を固めてしまった.
ゲルのようなその生物は、卯月たちの不躾な視線に気が付いたのか、その見た目からは想像できないような滑らかで、そしてグロテスクな動きでにゅるりと電信柱の陰からその姿の全貌を見せる。
透明だと思っていたその体液はやや青みがかっており、近づいてくるにつれて、何やら酸っぱい匂いがあたりに漂う。
半融解したドブネズミは、まだ命があるのかないのか小さな痙攣を繰り返し、そのたびにゲル状の存在の体を小さく波立たせる。その様に、松里はさらに恐怖したのか、小さく息を飲みこみ、木原の腕に縋り付く。
そして、ゲル状の存在の中心部分には、何やら紫色の物体が漂っていた。そんな存在は、ぬるり、ぬるりと卯月たちの方へとにじり寄って来る。
「ひっ?!」
ドブネズミのスプラッタに恐怖を覚えたのか、その歪な生物に生理的嫌悪感を覚えたのか、松里はその場に崩れ落ちてしまう。
それを見て、卯月はほぼ反射的に動いていた。
「松里、下がれ!」
腹を決めた卯月は、そのゲル状の物体を高校指定の革靴で踏み抜く。
ぐちゃ
ぬかるんだ水たまりを踏み抜いたような、耳に触る音があたりに響く。
どうやらそのゲル状の物体は膜に覆われた存在であったらしく、半融解したドブネズミごと紫色の石のような物体を踏み抜くと、そのままその中身の液体をあたりにこぼした。
音から少し遅れて、ぐちゅん、というような嫌な感触が足に広がると同時に、火傷をした時のような痛みが卯月の右足を覆う。
「あっつ!」
「卯月?!」
思わず痛みを訴えた木原の声が後方から響く。
卯月はほぼ反射的に、右足の靴と靴下を脱ぎ捨てる。どうやら、あのゲル状の物体の体液が付着してしまったらしく、まるで薬品焼けのような火傷痕が、右足にうっすらと残っていた。
「だ、大丈夫か、卯月?!」
木原は慌てて卯月に駆け寄ると、卯月の足を見て目を丸くした。
「ちょっと痛い。でもまあ、大丈夫そう、かな?」
「とりあえず、これやるから! 中身水だし、傷口洗い流したほうがいいだろ!」
木原はそう言ってバッグの中から水筒を取り出すと、卯月に押し付けた。
白色のすっきりしたデザインの水筒を受け取った卯月は、木原に小さく礼を言うと、ゲル状の物体の体液を洗い流す。すると、痛みは幾分か引き、代わりに火傷痕がヒリヒリと痛みだした。
落ち着いてきた卯月は、改めて木原に礼をいう。
「ありがとう修平。洗ったらいくらかマシになったよ」
「病院、すぐ行った方がいい。あんまり危ないことをするなよ?」
「ああ、うん。流石に蛮勇が過ぎたと思っているよ」
卯月はそう答えると、脱ぎ捨てた靴と靴下を拾い上げる。あの生物の液体でぐっしょりとぬれた靴下は、触れるだけで指先がピリリと痛んだため、卯月は靴下をはくのをあきらめ、素足のまま雑に水洗いした革靴を履く。片足だけ靴下がない違和感に苛まれながら、卯月は病院に向かうために三人と別れた。
釈然としない様子で病院から出た卯月は、近所のスーパーに立ち寄り、夕食の買い物をしていた。
右足首に巻かれた包帯が少しこそはゆく、右足を踏み出すたびに少しのぬぐい切れない違和感がまるで糊のようにへばりついる。気分のすぐれない卯月は、思わず表情を歪めた。
病院で検診してもらった結果、右足首の傷は、酸性の薬品による火傷であると判断された。つまり、卯月が踏み抜いたあのゲル状の生物は、酸性のナニカでできていたと言うことだ。
ネズミを消化しかけていたあたり、想像できなくもないことだが、しかして意味が分からない。
あんな生物など見たことがない。そもそも手も足もないというのに、どうやってあんな滑らかに動いたのだ?
もしかして、白昼夢でも見たのか?
そう思った卯月だったが、右足の包帯の下には、火傷が確かに存在している。
何があったかわからないまま、無理やり日常へと戻った卯月は、特売の牛肉といつもの豚肉でしばらく迷い、そして、特売の豚肉を見つけて目立つ緑色の買い物かごの中にブロックの豚肉のパックを入れる。
__確か、家にジャガイモとニンジンがあったはずだ。今日はカレーでも作ろうか。
安いカレールーを見比べながらそう考えた卯月は、必要なものを買い物かごに入れ、そしてレジに並ぼうと振り返ったその時。
「きゃっ?!」
「あっ!」
何か固いものにぶつかったと思えば、後ろでカートを押していた女性が小さく悲鳴を上げる。そして、そのはずみで反対側の陳列棚に置かれていたトマト缶が数個、床に転がり落ちた。
「す、すいません!」
「い、いえいえ! こっちこそ、すいません」
慌てて謝る卯月に、女性も謝り返す。
謝るために後ろを振り向いた卯月は、一瞬驚く。
長い黒髪をみつあみにまとめたその女性は、かなり大きな、それこそ女性の身長の半分以上はありそうな大判のスケッチブックを抱えるようにして持っていたのだ。卯月がぶつかったのも、どうやらそのスケッチブックであるらしい。
__あんなサイズのスケッチブックもあるのか……
スケッチブックに気をとられた卯月だったが、床に転がった缶詰をみて、はっとする。転がったいくつかのトマト缶を拾い上げ、棚に戻す。みつあみの女性もあわあわとしつつ、スケッチブックをわきに置き、卯月と一緒に缶を拾う。
「ご、ごめんなさい。受験の帰りで、落ちると思っていたから最後に学校のスケッチしようと思って……邪魔でしたね」
スケッチブックを名残惜しそうに見つめる女性は、そう言うと最後のトマト缶を自分の買い物かごの中に入れる。
「あ、もしかして、東都大ですか?」
「いえ、東美です。ありがたいことに、合格しました」
「それはおめでとうございます」
卯月はそう言うと、すっと立ち上がり、少し迷った後トマト缶の隣に置かれていたケチャップをかごの中に入れる。みつあみの女性は大きなスケッチブックを抱えると、いたずらっぽく笑って言う。
「知り合いが東美の先生で、時間が稼げると思ってちょっと大きいスケッチブックを持ってきちゃって。でもまあ、合格したので、在学中にゆっくり描けます」
「……それはよかったですね。そんな大きなスケッチブックだと、描くのに年単位かかりそうですけど」
卯月の言葉に、女性はからからと笑うと、「そんなにかかりませんよ、スケッチだけだったら半日もいらないですし」と才気あふれる発言をする。あまりにまぶしい笑顔に、卯月もつられて笑顔を浮かべる。
「ところで、お兄さんは……高校生ですか?」
「いえ、俺も大学の合格発表で。ちゃんと受かってました」
「あ、じゃあ、同い年ですか! そちらもおめでとうございます」
「いえいえ。そちらこそ。東美、毎年滅茶苦茶な倍率じゃないですか」
「本当、受かると思っていませんでしたよ」
だからこれ持って来たのですけどね、と大きなスケッチブックを撫でるその女性。女性は、「そう言えば、」と前置きすると、卯月に聞く。
「お兄さんは、どちらの大学に?」
「俺は、東都大です」
「私なんかよりもっとすごいじゃないですか! あそこ、確かものすっごい名門校ですよね?!」
くるくると表情が変わるみつあみの女性に、卯月は思わず笑うと、「そうでもないですよ」とつぶやくように言う。
卯月からしてみれば、したいことが決まっているみつあみの女性の方が、よっぽど__ありていに言うなれば、『すごく』見えていた。女性の絵についてを話すその笑顔に、どこか顔をそむけたくなるような、しかし、ずっと見ていたくなるような眩しさを覚えた卯月は、さりげなく目を逸らすと口を開く。
「俺、卯月って言います。大学生活、楽しんでください」
「あ、私は相模です。お勉強、頑張ってください、卯月さん」
柔らかい笑顔を浮かべるみつあみの女性、相模に、卯月は軽く会釈を返すと、少しだけ名残惜しい気分を胸に抱きながらレジへと向かった。
レジはさほど混んでおらず、すぐに紙幣数枚が小銭に変わる。
少しだけさみしい気持ちを覚えながら、総合病院からはほど近くとも、自宅の最寄りではないそのスーパーから背を向けた。
燃えるようなオレンジの夕日を横目に、卯月はアパートの階段を上っていく。
もともとぼろかった壁を写真の見栄えのためだけに塗りなおされた、わざとらしい白壁の築三十五年二階建てアパートが、卯月の自宅であった。
卯月はポケットの中から北海道にいる両親から送られてきた勝負守りのついた鍵を取り出し、立て付けの悪い扉をギシギシ言わせながら開けた。
夕暮れのオレンジ色が差し込む部屋に、卯月は一言の挨拶もなしに踏み込む。玄関には、靴の一足も無く、隅に置かれた靴棚の運動靴がさみしそうに埃を被っていた。
__どうせ誰もいない。
卯月は小さく息を吐きながら、寒々しい部屋をちらりと見る。部活動の道具やらトレーニング器具やら何やらがあるため選んだ2LDKのこの一室は、一人で長時間過ごすにはあまりにも広かった。それこそ、勉強に逃げ道を探すようになるくらいには。
玄関のカギを後ろ手で閉め、中途半端な重さの買い物袋を廊下すぐのキッチンに置き、さっさとリビングに向かう。
卯月は、うつむいたまま曇りガラスの仕切り扉を押し開け、オレンジ色の外明かりのみが照らすリビングに足を踏み入れる。
『あ、卯月 幸くんだよね?』
「うっおわ?!」
部屋の隅から突然聞こえてきた声に、卯月は思わず裏返った声を上げてしまう。
驚いた卯月は慌てて部屋を見回す。
さほど大きくも小さくもない2人掛けのソファ。参考書やら教科書やらノートやらがいびつに山積みになったテーブルと、一脚の椅子。かなり安かったが足触りはそこそこいいカーペット。部屋の隅には中古で買ったテレビ。
すっかりなじんだその光景の中に、卯月は異質なものをみとめる。
リビング唯一の窓があるテレビの対角側の部屋の隅。三脚の椅子を積んで隅に置いていたそこに、それはいた。
そこにいたのは、腕に納まるくらいの大きさの薄桃色をした毛玉であった。
おもちゃのビーズのようなキラキラの赤色の目をもち、口のようなものは見当たらない。まるで人形のような短く丸っこい手足をフリフリと機嫌よさそうに揺らし、その毛玉は床から約一メートルの高さを浮遊していた。
先ほどのゲル状の生命体よりかは簡単に受け入れられるものの、それだからこそより意味が分からなくなる存在に、卯月は茫然とそれを見つめる。
すると、それはまるで子供のような高く明るい声で言う。
『おめでとう、卯月 幸くん! 廃棄物の討伐に成功した君には、召喚士になる権利が与えられたよ!』
「……は?」
それの言葉に、卯月は思わず間抜けな声を出してしまった。
東都美術大学
通称、東美。
才ある芸術家の卵たちがこぞって通う名門校。学園祭がとにかくすごいらしい。
また、東美の名物として、大学近辺で開かれるフリーマーケットに実力把握やら顧客探しやら小遣い稼ぎのために己の描いた絵を出品する者たちが数多くおり、近隣の住人には美術市とも呼ばれている。
かなり偏差値が高いらしい。




