はじまり【「何か文句があるですか?」】
女王蜘蛛の追跡から逃れるべく奔走するナナトとムニン。蜘蛛の糸により形成された白い壁は二人が進むべき道を完全に塞いでいた。足を止めたムニンは更なる糸の侵攻に備えて身構えたが、壁はそれ以上狭まる気配を見せない。
「……『権能』を得るまで、ここに閉じ込めておく心算ですか」
「か、壁が糸で出来てるなら壊して進めないかな? 手でちぎったりして」
「糸をちぎる前に指が裂けるですよ」
「ひえ……ムニン、ナイフとか持ってたりしない?」
「生憎と言葉のナイフしか持ち合わせがありませんですが、よろしいですか?」
「そのナイフだけはくれぐれも振るわないで!?」
打つ手が思い浮かばず苦悩する少年、ナナト=サウィステリアは産まれついての救世主である。当然幼少の頃より体を鍛えているが筋肉はさほど身につかず、上背も今の所、残念ながら恵まれてるとは言い難い。救世主としての能力を持ち得てはいるが、それもある特定の条件下でのみ発揮される。要するに救世主ナナト=サウィステリアは、今この場においてはまったくの役立たずなのである。
「……ど、どうしよう。ごめんムニン、俺がさらわれたせいで」
「本当に。……出来れば温存しておきたかったですが」
ムニンは徐に壁際へと歩み寄り、掌をついた。
「――〝 記憶の名において、命じます 〟」
目を瞑って精神を集中させる。
「〝 爆ぜよ 〟」
「!?」
眩しさから咄嗟に目を覆うナナト。碧色の閃きが、四方を塞ぐ白い壁を瞬く間に爆散させた。糸は散り散りになり、跡形も残らない。
「ムニン、今の……うわ!」
「急ぐです。ナナト様」
ムニンに腕を掴まれつんのめりつつ、元通りになった岩の洞窟を駆ける。ナナトは糸による追跡を懸念して頻りに背後を窺うが恐ろしい程に何事もなく、二人はやがて洞窟の外へと続く明かりの中に飛び込んだ。
「……逃げ、切った!?」
転げるように外へ出て、素早く洞窟を振り返る。小さき蜘蛛が飛び出してくる様子はなかった。
「……〝 爆ぜよ 〟」
不意に歩み出たムニンが岩壁に触れ、幾度目かの呪文を唱える。途端に岩が弾けて崩れ、積み重なって洞窟の出入口を塞いだ。
「これで一先ず、洞窟の外まで追っ手が来ることはない筈です」
「……あの。ムニン、その能力って」
「大気中の精霊に命じて力を行使する『言霊』です。力の種類は扱う者の適性によるですが、ムニンは主に破壊専門ですね」
「ひ、非力な侍女ってさっき……」
「何か文句があるですか?」
「ございません!」
「ムニンの現在の心境としては、ナナト様の迂闊さ愚鈍さ役立たず加減についてこの場でお説教をかましたいところですが」
「な、ナナト=サウィステリア、いかなるお叱りも受ける所存です……!!」
その場に正座し、腹を決めた様子で目を閉じるナナトを冷たい眼差しで凝視するムニン。暫しの間を置いて、露骨な溜息。
「それは後にして、屋敷へ帰るですよナナト様」
さらわれ記録樹立中のナナトも流石に今回ばかりは煮るなり焼くなりされる覚悟があった。連日魔物に連れ去られ、今日にいたっては朝っぱらから自分より小さな女の子に窮地を救われる体たらく。サクラの侍女、ムニンは有能だ。それ故に忙しい。「心配をかけるな」と忠告してもらったにも拘わらず早速そんな彼女の手を煩わせまくり、今ここ状態。であるからこそ、ムニンの言葉にナナトは瞬きを繰り返す。
「え……あ、後でいいの? お説教もだけど、女王蜘蛛の対策とか……」
「はいです。そんなものは全部後回しですよ――間もなく、朝食のお時間ですから」
ナナト=サウィステリアにとっての一日の始まり。それはサクラと交わすおはようと、ムニンの作る美味しい朝ご飯。まだ少し眠たげなメイさんの愛くるしい仕草を眺めて、サクラと顔を見合わせて笑い合って――ムニンの一言でナナトは気付かされた。今日という日はまだ、始まってすらいなかったのだということに。
ムニンと共に帰路を急ぐ。救世主ナナト=サウィステリアの長い長い一日の幕開けは、もう間もなく。