はじまり【「目下逃走中です」】
――自分は間もなく意識を失うだろう。
洞窟内に蜘蛛のそれとは異なる足音が響いたのは、ナナトがそう予感した時だった。
「――〝 記憶の名において、命じます 〟」
幼くも凛とした声。
「〝 霧散せよ 〟」
蜘蛛の棲家に、碧色の光が迸った。
――――
―――
――
揺れる漆黒のサイドテールとワンピース、真っ白なエプロン。小柄な体躯。
「ム、ニン……?」
見間違えようもない少女の姿を霞む視界に映し、ナナトは女王蜘蛛の腕の中で気を失った。ムニンは小さき蜘蛛の群れを睥睨しながら臆することなく進み出て、天井にぶら下がる女王を睨み上げる。
「あラ? あラ、まあ。新しいおともだち? そうよね。そうなのね。ようこそ、いラっしゃい」
対する女王も突如として己の城に現れたムニンの冷徹な視線に気圧される様子はなく、寧ろ歓迎するように柔らかく微笑んだ。笑みを湛えたまま、女王蜘蛛は言葉を続ける。
「でも、けれども、だけど、いけないわ。……どうして邪魔をすルのかしラ。あともう少しだったのに。もう少しでなレたのに。この子とわたし。本当の、永遠のおともだちに。わたしのオマジナイを解いてしまうなんて。哀しいわ」
ムニンは答えず、冷たい目で女王を見上げ続けている。
「ひとつになルとき、怖い思いをさせルのは可哀想でしょう? ええ。ええそうよ、あなたもそう。きっと恐ロしいと思うはず。そんなのは可哀想だわ。可哀想。だかラね、さあ」
女王が一組の手を広げると、いつしか薄れていた甘い香りが再び洞窟内に漂い出した。
「〝 霧散せよ 〟」
ムニンはそれを一蹴するかのように、ただ一言。またも迸る碧色の光と共に薄らぐ腐りかけの果実にも似た香り。女王は眉を顰めた。不快げにではなく、さも悲しそうに。
「……そう。あなたは嫌なのね。わたしを拒むのね? だったラもう――要ラないわ」
意識のないナナトを大切そうに抱き締めながら女王が告げた瞬間、小さき蜘蛛の群れが一斉に動き出す。ムニンの体に這い上り、糸を吐きかけ、覆い尽くさんと群がる小蜘蛛達。
「――〝爆ぜよ〟」
魔物に集られて尚眉一つ動かすことのないムニンの唇が短く言葉を紡ぐ。刹那、体に絡み付く糸と共に、少女を取り囲む小さき蜘蛛の体が弾け飛んだ。
「……! ……!? そんな、わたしのぼうや、ぼうやたち……」
ムニンを中心とした地面には爆ぜた蜘蛛の残骸が散らばり、酷い有様だった。辛うじて形をなしていたその残骸もやがては崩れ落ち、完全に消滅した。
「……い、いやよ、いやいやいや、いやあああああああああああぁぁぁ!!」
響く絶叫。振り乱されのたうつ髪すら意に介さず、ムニンは女王の腕から取り落とされたナナトの体を受け止めて走り出す。辺り一帯の小さき蜘蛛が消し飛んだ為か、ナナトの四肢を拘束している糸も落下と同時に爆ぜた。
「ああ、ああ!! ぼうや、わたしのぼうや! ぼうやたち……ッ!! 許せない、許ルさないぃい……!!」
女王蜘蛛は酷く取り乱して己の髪や顔を掻き毟り、それまで慈母の如き笑みに彩られていた表情を怒りと憎しみに染めて見る間に遠ざかっていく少女の背を睨む。引き絞るような怨嗟の声を、洞窟中に響き渡らせながら。
――――
―――
―
洞窟を駈ける靴音が聴こえる。歩幅は狭いけれど必死に足を動かして、前へ前へと進む音。
(洞窟――そうだ、俺はどうして、どうなったんだっけ? 小さき蜘蛛にさらわれて、女王蜘蛛に抱き締められて、それからムニンが)
「……あれ?」
「……漸くお目覚めです? ナナト様」
「む、ムニン! やっぱり夢じゃなかった……って、何このひどい絵面!?」
さらわれて魔物の腕の中で気絶して気が付いたら自分より一回りも二回りも小さな少女に抱きかかえられていた件について。目覚めから一タイトル出来上がってしまったナナトは、状況を正しく把握しようと視線を巡らせる。
「ここは女王蜘蛛の根城、ムニンたちは目下逃走中です。ナナト様、ご自分で走れるですか? 走れるですね。というか走るです、重いですから」
「おぎゃあ!?」
「すぐに立って、走るですよ。一箇所に留まると危険です」
容赦なく地面に放られ転がるナナト。混乱しつつも指示通りどうにか速やかに立ち上がり、ムニンの背中を追うように走り出す。ふと、ナナトは洞窟の異変に気付いた。
「気絶する前より洞窟が明るい……というか、白い? しかもちょっとやわらかい気がする」
「他に何か気付いたことはありませんですか?」
「ええ!? えーっとえーっと……」
足は止めずに思考を巡らせるナナトはムニンの背中越しに、自分達の進路が白い壁で塞がれていくのを見た。ムニンが素早く進路変更し、二人は走り続ける。
「こ、この洞窟動いてますッ!?」
「魔物の糸です」
「糸!? どうしてこんな、だってさっきまでは」
岩で出来た、よくある薄暗い洞窟だった筈だ。
「あの女王蜘蛛……『権能』を発現しかけているです」
「け、権能?」
「高位の精霊や魔物が持つ能力のことです。女王様は捕食を邪魔されておかんむりなのですよ」
「捕食……」
「文献にはないムニンの見立てですが……女王蜘蛛は自分の手足である小さき蜘蛛にこどもをさらわせて、魅了の呪いで抵抗力を奪ってから食らうようですね」
「…………」
「何か仰りたいことはあるですか?」
「助けていただきありがとうございました!! 早速心配かけてごめんなさい!!」
「……この場はそれでよしとするです。一定の知能があれば『権能』がなくとも多少の呪いは行使出来るですが、もし能力が目覚めたら厄介です。それに…アレは人の子を殺しすぎましたです」
「だったら……逃げていないで、倒さなくちゃ」
「ムニンはナナト様をお迎えに上がっただけの非力な侍女に過ぎませんです。ナナト様のお力も、おいそれと振るえるものではない筈ですよ」
「でも!」
「――女王蜘蛛は、この洞窟から出られない。あの場所からも動けない」
「あ……」
「それに、発現の予兆から『権能』を得るまでには猶予がありますです。ですから」
「……一度退いて、対策を講じる」
「正解です。当面の問題は――」
不意に走り続けていたムニンの足が止まり、ナナトも慌てて急停止。
「……ここからどう脱出するか、ですね」
四方に白い糸の壁。道は、完全に塞がれた。