はじまり【(冒頭で懲りたはずでした)】
翌朝。朝食にはまだ少し早い時刻。ナナトは屋敷のすぐ近くにある森で散歩をしていた。時折穏やかな風がそよぎ木漏れ日が射す、実に平和な早朝だった。
中程まで歩くと太い木の枝から垂れ下がる手作りのブランコがあって、幼い頃のサクラはよくこれに乗って遊んでいた、とは今も尚幼く見えるムニン(年齢不詳)の談。
木で出来たブランコの座板は女の子がひとりで乗るには随分と大きくて、齢十七の救世主が腰掛けてもゆとりがある。吊り紐は流石に少し草臥れているけれど、小休止するには申し分ない。心地好い揺らぎに身を委ねていると、徐々に瞼が重たくなってくる。どこまでも優しい風の音。柔らかにそよぐ木々の音。屋敷に戻る前に、少しだけ休憩を――
◇◇◇
――吹けば飛ぶような、浅い微睡み。こんな時に見る夢は決まっている。
『……また、泣いてるの?』
『こわい夢を見るの。とつぜん真っ暗になって、大事なものが全部なくなっちゃうの』
『大丈夫だよ、なくならないよ』
『……あなたが守ってくれるから?』
『そうだよ。俺が、君を守るから』
『……そう。あなたがわたしを。ねえ、でも、だったら』
『――あなたのことは、誰が守ってくれるの?』
幼い俺が忘れてしまった、大事な、大切な、かけがえのないあの子の夢だ。
◇◇◇
ほんのちょっとだけ休憩しよう。
(――そんな風に気をゆるめてしまったのが、そもそもの間違いでした。冒頭で懲りたはずでした。息抜きに森の中を歩いてブランコに座ってほんの少し微睡んで、目覚めたら身動きが取れない現状。俺がさらわれた経緯としては冒頭と今現在、全く同じ流れです。その実こんな状況、既に一回や二回じゃございません。関係者各位へ、誠に申し訳ありません。)
「で、今俺どういう状態!?」
相変わらず簀巻きにされながら出来得る限り辺りを見回す。薄暗い空間。転がされた体の所々に当たるゴツゴツした岩の感触。痛い。どうやら今いる場所は冒頭とは違い、流石に塔のてっぺんではないようだった。
「洞窟……?」
起き上がろうにも手足をガッチリ拘束されていて、冷たい地面でじたばたともがくことしか出来ない。
「また……さらわれてしまった……」
己の迂闊さに最早溜息すら出ずナナトは途方に暮れる。今し方心の中で懺悔した通り、こうして目が覚めたら簀巻きにされているという状況に身を置かれた回数は一度や二度では済まない。春先からどうにもイタズラ好きな魔物との遭遇率が高く、魔王に奪われた夏を飛ばして秋となった現在、ナナトのさらわれ記録は更新され続けている。
(「くれぐれも姫様に、余計な心配をかけないようにお願いするですよ」)
昨夜のムニンの言葉が脳裏を過った。さらわれる度に自力でどうにか脱け出したり通りすがりの騎士に助けられたりなどして難を逃れてきたナナトだが、サクラはナナトが魔物に幾度も誘拐されていることを知らない。
先日塔の上までサクラが迎えに来た時はとうとう己の失態を打ち明ける瞬間がやってきたかと腹を括ったものの、犯人の逃亡により何となく機を逸してしまっていた。己を「勇者さま」と呼び慕うサクラ。いつ何時も慈愛を湛えて自分を見つめる彼女の瞳が失望に染まる瞬間を、ナナトは無意識下で恐れていたのだ。
――カサ。カサ、カサ。
不意に響いたのは無数の足音。音の主は着実にナナトに迫り、やがてその姿を現した。八本足に大きな一つ目。体の大きさは赤ん坊の頭ほどで、それが十、二十と群れをなす様は圧巻である。
「小さき蜘蛛……!!」
彼らはまるで返事をするかのように「ギィ」と一声、高い音で鳴いた。
小さき蜘蛛という魔物について、ムニンから教わったことがある。奴らは人間のこどもをさらい、食うこともあるらしいと。表現が曖昧なのは消えたこども達が帰らないから。ナナトの年齢は十七。身長はサクラと同じくらいで(とナナトは思っているが、実際はサクラの方が彼より少しばかり背が高い)お世辞にも高いとは言い難く、ギリギリ「こども」圏内と言えなくもない。
そうこう考えている内に小さき蜘蛛の群れはナナトの眼前に到達し、先頭の何匹かがその体を這い始める。
「ひえ!」
後に続く数匹が体の下へ潜り込むようにして蠢き、いよいよナナトの体が浮いた。集団はそのまま洞窟の奥へと――
「さ、流石にまずい……かも?」
あまりにも遅すぎる危機感を抱く中、ナナトは自分の体を拘束している紐が蜘蛛の糸であることにやはり遅れて気が付いたのだった。






