はじまり【「もしやお目覚めになられたのですか?」】
ナナトが産まれ住まう国、ジャポニーヨ帝国にはかつて四季があった。花が咲き綻ぶ春。緑の息衝く夏。実りの秋。そして静謐の冬。心優しき皇帝が統べるジャポニーヨ帝国は助け合いの精神で成り立ち、大きな諍いもなく、国民は平和を享受していた――十年前のある日、大地を劈く紫色の雷と共に魔王が顕現するまでは。
予言はあったのだ。確かに。ナナトが産まれる以前から。国には皇室お抱えの予言者がいて、魔王の出現を明示していた。
魔の者来りて夏攫う
永久の闇凌げども殲滅能わず
紫紺の闇覚醒せし時、光潰える
魔王は予言の通りに現れて夏を奪っていった。取り戻さない限り、この世界における水着回は待てども来ない。更に魔王は世界各地に魔物を蔓延らせ、人々の生活を脅かした。
世界の危機に備えて鍛えられた帝国軍の力を以てしても魔王を討ち滅ぼすことは出来ず、ナナトと同じく予言者に見出された『封印の聖女』なる者が魔王を封じ込めてどうにか事を収めた。
魔王の顕現当時七歳だったナナトには、その頃のはっきりとした記憶がない。ジャポニーヨ帝国に多大な影響を及ぼした魔王襲来に関する記憶は勿論のこと、幼い頃の記憶自体が所々朧気で覚束ない。
そんな彼が世の救い主として見出されたのは、今は亡き母の胎の中にいる時だった。魔王の襲来による一度目の被害は免れようもないが、一時は『封印の聖女』の力で退けることが出来る。
――それはあくまで一時の措置だ。魔王が覚醒し、封印から解き放たれてしまったとしたら。この国の希望は為す術もなく潰えてしまうのか。人々はいつ目覚めるとも知れない魔王の影に怯え、悲観に暮れて生きるしかないのか。
国中が悲観に暮れる中、予言者は告げた。
来る絶望の日
七夜月の御子の導きにより
我等は希望を視る
其の産声は、もう間もなく
その年の七夜月に産まれた唯一の赤ん坊が、ナナト=サウィステリアだった。彼は知らぬ間に全国民の期待を背負い、魔王再来の折に世界を救う希望の子として育てられた――筈なのだが。
突然の回想を終え、現在。
魔王は封印されたものの各地に散らばった魔物を殲滅することは出来ず、度々人前に現れては大小様々な悪事を働いている。くどいようだが、ナナト=サウィステリアは仮にも魔王を打ち倒すべく日夜邁進している選ばれし救世主である。
有事の際には帝国の姫君や、国民を護るといういかにも救世主チックな役割を果たすよう皇帝陛下から仰せつかっている。にも拘わらず。
救世主ナナト=サウィステリアはまんまと魔物たちに誘拐され、こうして縛り付けられた情けない姿を帝国の姫君――サクラ=ジャポニーヨに晒しているのであった。
国花たるジャポニーヨ・ブロッサムの花弁を思わせる薄ピンク色の柔らかな髪を靡かせ、プリンセスラインのドレスを纏うその出で立ちは可憐。
然して遥か上空から塔の屋根に降り立ち、レイピアを構える姿は豪傑の如く。下から覗くアングルにやや罪悪感。
流石に戸惑いを見せる小さき悪魔を睥睨しながら真っ赤に燃える瞳が、ナナトを映して桃色に煌めいた。
「勇者さまっ!」
どことなく喜色を湛えた声だった。あまりに颯爽としたご登場だったが、彼女も不安だったのかもしれない。サクラの丸く大きな双眼が感動に潤む。ナナトはこの目に頗る弱い。
「ああ勇者さま! おやつのお時間ですのに、お戻りになられないからサクラはとてもとても心配で……お迎えに上がりました。ご迷惑でしたでしょうか?」
「いやいやいや、そんなことないない。助かった! 寧ろこれで助かる! ありがとうサクラ!!」
「まあ!頭を振り乱すほどに喜んでいただけるなんて、サクラは嬉しゅうございます。時に勇者さまはこのような場所で何をなさっていたのですか? というか、何をなさっているのでしょう? 縄でお体を縛り付けて……もしやお目覚めになられたのですか?」
何に!? などとツッコミを入れようものなら最後ややこしい事態になりそうなのでスルーを決め込み、ナナトは現状を素直に説明することにした。
「実は、情けないことにそこの奴らに……あれ?」
先程まで笑いながら救世主を翻弄していた小悪魔たちも、姫の鮮烈熾烈な登場シーンを目の当たりにして今や遥か遠くに逃走。サクラはというと、足元のナナトを覗き込むようにして小首を傾げながら説明を待っている。彼女が塔の上に降り立った瞬間魔物を睨み据えていた気がしたのは、どうやら己の勘違いだったらしいと思い直すナナト。
「勇者さま?」
「あー、いや! その、とりあえず。何かにお目覚めになったわけでは決してないので……ここから降ろしてください」
「はいっ!」
良いお返事と笑顔と共に、一閃。サクラは躊躇いなくレイピアを振るう。半拍遅れて解ける戒め。すると必然――
「やっぱり落ちるよなあああ~~~!?」
急降下。
無意味なことと知りつつ少しでも落下を遅らせようと手足をバタバタと動かして無様に藻掻くその最中、ナナトはサクラが塔のてっぺんから飛び降りる瞬間を目撃した。
心中エンドは望むところではない。咄嗟に受け止めようと両手を伸ばすナナトに対し、サクラは何故か幸せそうに微笑んで、迷いなくその胸に飛び込んでいく。感動のフィナーレもかくや。空中で抱き合う姫と救世主。不慮の事故で高い塔から落ちても無傷、だなんて都合の良い加護はない。
――だけど、せめてサクラだけでも。
華奢でいて柔らかな体を抱き締める腕に力を込めて、固く目を閉じて落下の衝撃に備える。
自分は口から多少内臓が飛び出ても、絶命さえしなければきっと大魔道士辺りが何とかしてくれるだろう。だからサクラだけは――
切実に祈る最中ふと、サクラを抱き竦める為に丸めた背中が何かにぶつかった。ああ、こりゃ完全に逝ったな。逝ってしまった。
「メイさん!」
(メイさんというか、南無三。)
サクラの声を聞き、ナナトは薄ら寒くもそう思ったのだが、案外そうでもなかった。落下した体を優しく受け止める巨大な体躯。ふわふわで真っ白な毛並みに、白い翼。蒼玉のような瞳。ナナトがサクラと共に落ちたのは地面ではなく、大白猫の背中の上だった。
「メイさん! 一緒に来てくれてたのか!?」
サクラのお守り役である大白猫のメイド。通称メイさんは、物言わず目を細めてみせた。命を救われた直後とあっては大袈裟でもなく胸が高鳴る涼やかな表情。
「心の底からありがとう……!!」
「うふ。サクラとメイさんはいつでも一緒ですもの。うふふふふ……」
救世主の心底からの感謝に対し、寡黙なメイさんに代わって返事をしたのはやけに嬉しそうに声を蕩けさせるサクラだった。
(というか、声があまりに近いような。)
疑問が過り、サクラの方を見遣る。ナナトの腕は彼女の体をがっちりホールドしたままであった。密着した胸や腹、所々に押し当たる柔らかな感触を今更ながらに意識してしまい、頬に熱が集まる。
「ご、ごごごごごめんッ!!」
「あん。サクラは構いませんのに……」
潔白を証明するべく慌てて両手を上げ、華奢なその身を解放するとサクラが残念そうに科を作った。メイさんの溜息が風に乗って聞こえた気がするようなしないような。
何はともあれ一人と一匹の手厚いお迎えによりうっかり攫われてしまった救世主は無事、本日のおやつの為に帰還することと相成ったのであった。