落書き的怪談 赤いハイヒール
あ、と思う間だった。
ビルの上にいた女が飛び降りた。
説得を続けていた警官の手が空を切り、女は宙へと身を躍らせた。白いスカートの裾が空気をはらんでふわりと広がる。赤いハイヒールが脱げ、煌めきながらビルの谷間へ落ちていく。
一瞬の出来事だった。
数秒後にはビルの足元に人だかりが出来ていた。
その後のことは、見ていなかったから知らない。
自宅への道を歩く。頭の中ではさっき見た光景が延々とリプレイされている。
真っ赤だったな、と思う。
何故、彼女はあの赤いハイヒールを履いていたのだろう。
飛び降りをする自殺者は靴をその場に脱いでから飛び降りるイメージがあったけれど、意外とそうでもないんだろうか。ただ単に彼女が特別だったんだろうか。赤いハイヒールなんて早々履くものじゃないから、彼女の大切な一足だったのかもしれない。
あんなに真っ赤なハイヒール。彼女はいつ、どこで、どんな思いで買ったんだろう。どんな風に履く日を夢見たんだろう。その時は飛び降りる瞬間なんて予想もしなかったんだろうか。
無数に並ぶ灰色の窓。そこを落ちていった、夕日を反射して煌めく赤。目の覚めるような赤。コンクリートに咲いた一輪の薔薇のように。曇天の雲間に見えた燃え尽きる前の夕日のように。
鮮烈な赤が目に焼き付いて離れない。
彼女はどうして赤いハイヒールを履いていたんだろう。何故、ビルの上に履いてきたんだろう。何故、履いたまま飛び降りたんだろう。
艶やかに光る赤いハイヒール。
飛び降りるなら脱げばよかったのに。
美しく滴り落ちる血のようなハイヒール。
もういらないなら私にくれればよかったのに。
真っ赤なハイヒール。
あれがあったら、きっとどこまでも行ける。
どこまでも、空の果てまでも。
自宅のドアを開ける。
玄関のたたきに真っ赤なハイヒールが揃えてあった。