鼻削ぎ男の最後
包丁を握る手に力を込めて、やっとの事で女の鼻を削ぎ落とした。
路上で血まみれの女が呻いている。家から飛び出して、ついさっき夜道で出くわした、名前も知らない女だ。周囲に人が居ないので、最初に鼻から救済してあげたのだ。悲鳴を上げて抵抗しようとしたので、数発殴って大人しくさせ、この裏路地まで彼女を引きずって、持っていたタオルを口に押し込んで悲鳴を防ぐと、素早く鼻から解放する闘争に入った。
鼻を始末するのは、これで二度目。まして他人の鼻を削ぐのは、これが初めてだ。女に馬乗りになって、包丁を使うが上手くいかない。暴れる度に顔面を殴って静かにさせていたが、血で包丁の持ち手がヌルヌルになって、思うように解放が進まなかった。
途中で、鼻から何か白い塊が飛び出して来たので、驚いて手を止めてしまった。何かと思って、女の顔からそいつをつまみ上げて見たが、どうやら整形用のシリコンであったと解ったので、納得すると同時に、女に憐れみを覚えた。
可哀想に。鼻なんかのおかげで、彼女は自分の容姿にコンプレックスを覚えて、挙げ句の果てに、こんなモノまで鼻に入れてしまったのだ。カネまで払って……
ともあれ、これで彼女は鼻から解放された。まだ鼻のあった場所からは血が流れてるし、大人しくさせる為に殴り続けてしまったので、顔が赤黒くパンパンに腫れ上がってしまったが、いずれは腫れも引いて、余分な出っ張りが無くなった彼女の顔は、今までよりもズット綺麗になるだろう。
初仕事をやり終えた俺は、疲労感よりも、達成感と満足感に包まれていた。初めてなので手間取ってしまったが、上手くいった。次はもう少し手際良くやらないといけない。思ったよりも重労働であるから、同志を募って組織的に革命を行わなければならない。それに、民衆が自発的に鼻を削いで行くように、思想的な啓発を行う必要もある。
革命の為に、やるべき事は多い。とりあえず今夜はもう一人くらい解放してあげようと、女を置いて立ち上がったが、裏路地の出口に、街頭に照らされて二人の人影が立っていることに気がついた。
警官だった。制帽のつばで影になっている顔は、年齢も表情すらも判らない。二人は、俺の顔を見て何か短い会話を交わすと、無言でゆっくりと俺に近づいてきた。
冗談じゃない! まだ鼻を二匹しか殺してないのに、革命を終わらせるわけにはいかない。俺は奴等と反対の方向に、走って逃げ出した。すぐ、奴等が走りだす足音が聞こえたので、手近な自動販売機のそばにあったゴミ箱を投げつけて、追跡を妨害しようとしたが、二人とも撒き散らされた空き缶に足を取られる事なく追いかけてくる。
普段の運動不足が祟って、すぐに息が切れてきた。俺はとにかくどこかに隠れようと、目の前の公園に駆け込んだが、隠れる場所を見付ける暇もなく警官が公園に入ってきたので、入り口の反対側のフェンスを乗り越えて更に逃走しようとした。しかし、奴等は遂に俺に追い付いて、フェンスから俺の体を引きずり降ろした。
万事休すだ。俺は絶望的な思いに駆られたが、すぐに新しい考えを思い付いた。
そうだ、これでゲームオーバーって訳じゃない。自力での闘争は失敗に終わったかもしれないが、まだ戦い様はある。法廷の場で、鼻に潜む邪悪な存在がいることを声高く主張して、鼻の陰謀を告発するのだ! 弁護士やマスコミを味方に付けて、俺の声を世間に広く伝播してもらうのもいいだろう。
更に、獄中から手記を出版すると言う手もある。これによって、人民に広く鼻からの解放闘争、世界同時顔面革命を呼び掛けるのだ!
俺は、警官どもに投降の意思を伝えながら、ゆっくりと立ち上がった。フェンスから引きずり降ろされた時にぶつけたらしい腰が痛む。俺は右手に握ったままだった包丁を足元に捨てて、とりあえず、抵抗の意思が無いことを示した。
「グアッ!?」
今の変な声は、俺の口から飛び出した悲鳴だ。俺は側頭部に強い打撃を受けて、地面に転がったのだ。警官に警棒で殴られたのだと気付くのに、少し時間が掛かってしまった。
え? ちょ、何で? 降伏の意思は示したし、抵抗もしてないのに? 俺は奴等に抗議しようとしたが、声が出ない。逃げようとしたが、今の一撃で脳震盪でも起こしたのか、地べたに仰向けで倒れたまま、身動きが取れない。二人の警官は手にした警棒を、ふたたび俺の頭上で、見せつける様に、ゆっくりと振り上げる。
いや……いやいやいやいやいやいや、やめてやめてやめてぇええええええええええええええ!!!!!
……
……
……
ずっと無言で俺を打ち据えていた警官どもは、肩で息をしながら、ようやく警棒を降り下ろす手を止めた。
俺は、全身を警棒で殴られて、もう痛みすら感じなくなってしまっていた。警棒を防ごうと突きだした両手は、真っ先に砕かれて、指も腕もグシャグシャにされてしまった。肋骨も折られてしまったみたいで、息をする度に肺がゴボゴボとイヤな音を立てている。顎も歯も砕けて、声ひとつ挙げられない。鼻は……ああ、俺が自分で切り落としたんだっけ。
でも、なんで逮捕もしないで、ここまでしたんだ? これじゃ、只のリンチじゃないか……。俺は腫れ上がった目蓋をどうにか開いて……左目は完全に潰れてしまったのか見えない……頭上の警官を見上げた。
いつの間にか、警官以外にも数人の人が地面に倒れたままの俺を、囲んで見下ろしていた。公園の街灯が頭上で白い光を放ち続けているものの、やはりその顔は影になって見ることが出来ない。警官以外の人影は、老若男女様々で、普段着や寝巻きを身に付けている。近所の人間が野次馬で来たのだろうか。
でも、それにしては誰も一言も話さない。そう言えば、警官も俺を見つけてから一言もしゃべらなかった。普通は、何してる! とか、待て! とか言うモノじゃないか?
コイツら、何か変だ。まるで何かに操られているみたいに……
「まったく、手こずらせやがる。誰に操られて、こんな事をしでかしたのやら」
最初に俺を殴った若い警官が、俺の顔に唾を吐きながら忌々しげに呟いた。 え? 操られた? 誰が?
……俺が? ……誰に?
「顎を砕いたのは不味かったな。おかげで誰がこのバカをそそのかして、同志を二人も殺させたのか判らなくなった」
二人目の警官……こっちは中年男だ……が、血で汚れた警棒をしまいながら、若い警官に答える。二人の同志? 鼻の事か? じゃあ、俺の考えは正しかった? いや、あれは本当に俺の考えだったのか? 自分に鼻の陰謀を囁き、俺が自分の鼻を削ぎ落とした時に、自分を励ました声は、一人ツッコミの類いじゃなくって、何者かが俺をそそのかした……?
いったい誰が?
「大方、口か目のどっちかでしょう。こいつら、顔の真ん中から外れてるのを僻んでるんですよ」
背後の野次馬の一人が警官に言った。その隣の帰宅途中のサラリーマン風の男も、笑いながら会話に入ってくる。
「いやいや、耳の仕業かもしれませんよ。コイツらときたら、顔面にすら入れない日陰者揃いですから」
警官と野次馬が一斉にドッと爆笑する一方で、空気中に言い様の無い怒りと、憎しみの感情が張り詰めて行くのを、俺は感じ取っていた。それは連中も同じだった様で、不意に全員がピタリと笑いを止めると、野次馬の中のJKが苛立たしげに怒鳴り出した。
「あぁ? 何、殺意出してんのよ。あんたら実力が無いからセンターに居られないんでしょうが! ここにお前の場所ねーから! 悔しかったら……」
JKは最後まで台詞を言えなかった。いつの間にか忍び寄ってきた別の女が、音もなく、彼女の鼻に包丁を突き立てたからである。あの、血まみれの腫れ上がった顔は……俺がさっき解放した……
彼女は、野次馬が動揺してる間に、もう二、三人の鼻を斬り付けつつ、大声で喚き出した。
「諸君! 鼻にここまで言わせておいて、まだ沈黙を続けるつもりか! 鼻の抑圧的なセンターへの不当な占有と専制的な支配を、これ以上許してはならない! そこに倒れている革命の殉教者、偉大なる同志に続いて立ち上がるのだ! 目よ! 口よ! 耳よ! 今より、全ての人間の顔面は鼻の支配から自らを解放するための、闘争と連帯の場所である! 諸君! 顔面の辺境より決起して、鼻を包囲し、殲滅せよ! 世界同時顔面革命万歳!」
「だ……黙れ! 黙れ! 黙れ!」
中年の警官が、女の演説を止めるべく警棒を振り上げたが、それよりも早く若い警官が彼の鼻を警棒でたたき潰し、次いで自分の鼻に強烈な一撃を叩き込んで昏倒した。それを皮切りに、野次馬たちが取っ組み合いの大乱闘を開始した。
「な……なんだ? 体が勝手に……」
「痛い痛い痛い痛い! やめてえええええええ!!」
「くそっ! 真ん中に居られない嫉妬でこんな……ぎゃああああああああああ!!!」
悲鳴と怒号は、公園の外からも聞こえ始め、遠くからも爆発音や車の衝突音が次々と聞こえ始めた。どうやら、鼻の支配から顔面を解放する革命の火の手が、あちこちで上がり始めた様だ。
これで、人類は救われる。俺の犠牲は無駄にはならなかったのだ。鼻が人類の顔面から消え去った、理想の世界を見ること無く死ぬ事だけが、少し心残りだが……
俺は、顔面を覆う包帯と絆創膏をどうにか引きむしり、グシャグシャになった指で、あの忌々しい鼻のない顔面の中心を一回撫でると、満足を覚えて意識を手放した……
筆者の鼻はジャイアンみたいな団子鼻です。
皆さんの鼻はどんなでしょうか?