―■その1― 辰雄
雪が、降っていた。
凍っている訳でもないのに、まるで石礫のような音を立てて激しく傘に打ちつける雨。コンビニで購入した安っぽいビニール傘では、すぐに破れてしまいそうにも思えた。
池袋の交差点に辿り着いた辰雄の目の前で、歩行者用信号の緑色がちかちかと点滅し始める。塗装が剥げ、錆びて褐色になったフードにも雪が薄く降り積っていた。
辰雄は足を止め、慌てて横断歩道の上を駆け出す人々をじっと眺める。彼らの足元が灰色に濁ったぐちょぐちょの雪を無造作に踏みしめ、湿っぽい音を生み出すのにひたすら耳を傾ける。
大部分が交差点を渡り終えた頃、まだ半分くらいの所を走っていた一人の男が泥濘んだ雪に足を取られ、派手にすっ転んだ。
こちらを振り向いた顔は三十代後半くらい。辰雄とそんなに変わらないようにも思えた。
男は立ち上がり、先程とはうって変わってとぼとぼと交差点の向こうへ去っていく。
それを視界の端に収めながら、辰雄は赤く灯った信号をぼぅっと眺める。
自分もあんな風に映っているのだろうか。客の言い掛かりやクレームにぺこぺこ頭を下げる為にあちこちを駆けずり回り、会社に戻ってくるなり同僚の見ている前で課長に長ったらしい嫌みを言われる毎日は、コートをどろどろにしながら惨めに去っていった、名前も知らない誰かの人生なのだろうか。
不意に、何かが自分を照らしている事に辰雄は気がついた。
パチンコ屋の突き刺すようなネオンサインでも、けばけばしい色彩を放つキャバクラの看板でもない。包み込むような柔らかい光は、辰雄の真上に在る街灯から来ていた。
買い換えたばかりの携帯が震えた。半年前に結婚したばかりの、妻からのメールだった。
「もう孝雄は寝ました。夕飯の準備出来てるから、早く帰って来てね」
文の末尾にはハートの絵文字が、彼女らしく控えめに付け加えられていた。
街灯に照らされた雪が光の筋をくっきりと浮かび上がらせる。打ちつけるように降っていたはずの雪が何故か、ひらひらと舞い落ちているように見えた。忙しい池袋の往来に囲まれて、街灯の下だけは、時間がゆっくりと流れていっているようだった。
不意に、言い様の無い安心感が辰雄の全身を包み込む。ああ、これが自分をも照らしてくれる存在なのだ、そう思うと無性に安心した心持ちになれた。
そうだ、きっとあの男の傍にも街灯は立っているに違いない。
ほうっという白い吐息が辰雄の口から洩れた。