080話.ヤクザ、失敗する
イミュシオンの操る肉塊は、およそ十数トンといったところだろうか。
〇ケモンに殺されることでおなじみのインド象は精々六、七トン程度。ざっと計算してインド象三頭分の死肉の塊だ。
骨格や内臓は存在しない――仮に存在していたとしても、その自重で押しつぶされているだろう。
骨格が存在しなければ歩行もままならず、現に肉塊は地面をのたうつようにしてゆっくりと神樹へ向かう。
察するに、その自重で自らの肉体を圧し潰し、また再生させることでほんのわずかな距離を移動させているのだ。
体表は獣皮や骨、あるいは取り込んだ木材に覆われている。その隙間に露出した皮膚状の組織からは大小の触腕が伸びて、不規則に振り回されていた。
弱点があるとするならば――身体の前面、伏見らが対峙するまさにその部位だ。
移動法の都合か、正面には生の肉が露出している。太さ十センチ、長さにして七メートルほどの触腕が密集しており、接近することは極めて難しい。
とはいえ、イカやタコの触腕に比べれば構造はシンプルだ。一見すれば複雑怪奇な軌道を描く触腕の群れも、一本にのみ注視すればその動きは読み取れる。
力なく地面に垂れ下がる「休み」のタイミングと、触腕の根元が膨れ上がる「溜め」、そして勢いよく振り回される「攻撃」のタイミング。
その仕組みは風船や吹き戻しと同じだ。しなやかな肉の袋に急激な圧力を加えることで触腕を鞭のようにしならせている。
――と、まぁ。
伏見が次々と予想を立てるけれど、そんな欠伸の出るような思考は三ツ江にない。
自然体のまま、ぶらりと触腕の領域へと足を踏み入れた。
長ドスの刀身を気休めのアルコールで洗い、ボトルを地面へ投げ捨てる。
機に臨み、一足にて距離を詰め、振り下ろされる一刀は触腕を容易く切り落とした。
「ん、案外カタいなぁ」
切断された触腕があらぬ方向へ飛んでいくのを、三ツ江は気にも留めない。
返す刀で左側の触腕に切り込みを入れ、飛ぶようにその場を離れる。
「兄貴、こんな感じでいいっスかね?」
「おう。……お前はほんと、最高だよ」
切り込みを入れた肉袋は触腕を動かすための圧力に耐えきれず、内側から破裂した。
後方に立つ伏見を守るため、三ツ江は再び触腕の領域へと飛び込んでいく。
――三ツ江は、別に剣術の達人という訳ではない。剣道の経験は授業で触れた程度だ。組に入ってからはバットの代わりに長ドスで素振りをしていたけれど、刃筋を立てて振るうのが精いっぱい。型や流派などまるで知らず、剣道の試合であれば簡単に打ち負かされることだろう。
ただ、三ツ江はバカなのだ。
触腕の一撃は人の骨など容易く砕くだろう。
頭に受ければ致命傷だ。
だから、そんなことは考えない。
自らの生き死になど、元より三ツ江の頭にない。
「……ま、こんなん近づいちまえば楽なもんスね。宇治山田のピッチャーのがよっぽど怖ぇ」
気楽に呟いて、三ツ江は長ドスを振るう。
幸い、触腕の修復には時間がかかるようだった。傷口では肉片が蠢くのみで、動かなくなった触腕は本体に圧し潰されて同化していく。新たな触腕の形成も、三ツ江によってその出かかりを切り落とされて上手くいかない。
無数にあった触腕も半分以下にまで数を減らし、切り落とされたそれは地面に散らばっていた。
一見すれば、イミュシオンの操る肉塊を三ツ江が圧倒している。
何ら架空の要素を持たない人の身で成し得た成果は驚愕すべきものだ。尋常ではない。尋常ではないけれど――同時に、三ツ江はただの人間である。
不規則に襲い来る触腕を回避しながら、重量約一キロ半の日本刀を振り回し続ける。そんな無茶は長く続かない。
体力はもちろん、その精神力、集中力をこそ削られ続けている。
大きな傷こそないが、触腕がかすめたことも一度や二度ではない。トルタス村で借り受けた三ツ江の野良着は破れに破れ、赤く腫れあがった打撲痕からはうっすらと血が滲んでいた。
三ツ江が触腕と距離を取る、そのタイミングで伏見が声を掛ける。
「三ツ江、よくやった。あとは下がってろ」
左手を三ツ江の肩に、右手は一斗缶を括りつけた縄の端を握り、伏見は前に出た。
三ツ江のような芸当など、伏見には到底不可能だ。百回試せば九十九回は死に至る。残り一回は良くて半身不随だろう。
だから、伏見は試さない。
そもそも喧嘩は苦手なのだ。もし三ツ江と喧嘩になれば絶対勝てない。
けれど、自身が三ツ江に劣るかといえば――伏見は否定する。
多分、体育の成績なら同じくらいだ。
伏見が前に進み出たことで、一斗缶との間に縄が張る。
多少使ったとはいえ、一斗缶の中には軽油がまだ残っている。人が投げるのは難しい重さだ。
なので、伏見は縄を引き、そのまま振り回した。
自分の身体ごと。
一歩踏み出すごとに半周。
円盤投げの要領だ。やっていることはハンマー投げに近いけれど、そちらは伏見にも経験がない。
遠心力の力を借りて、三ツ江が切り開いた肉塊の正面へ――伏見は、一斗缶をぶん投げた。
十キロ近い重量の一斗缶は触腕の一二本などものともせずに肉塊へと直撃し、ひしゃげ、軽油を漏らしながら、肉塊へと取り込まれていく。
それでいい。
肉塊と距離を取りつつ、伏見はホルスターへ手を伸ばし――硬質の銃把ではなく、ぬめる肉の感触が、そこにはあった。
「ひょっ……」
変な声が出た。
三ツ江が切り落とした触腕の一本だ。
こんな切れ端にすら、イミュシオンが潜んでいるのか。
絡みついた触腕はゆっくりと圧力をかけて、鋼鉄製の拳銃が軋み音を立てる。
「兄貴!」
駆け寄った三ツ江は長ドスを振るうが、先ほどとは違い、地面をのたうつ触腕は固定されていない。
一刀両断とはいかず、刀身は触腕に食い込み、左右からの圧力により破断、粉砕される。
たった一本の触腕、その切れ端だけでこちらの武器を二つ、奪われた。
ひどい損害だ。長ドスも拳銃もかけがえのない元の世界の形見である。折れた刀身は直しようがなく、拳銃は――無骨な印象とは反対に精密機械であり、軋み音を立てたそれを使う気にはとてもなれない。
「三ツ江、おめぇチャカは持ってっか!?」
「……あー、兄貴、それどころじゃねぇっス」
三ツ江の指摘に、伏見は辺りを見渡す。
切り落とされた何本もの触腕が、いつのまにか二人を取り囲んでいた。
地面をのたうつ姿は蛇のようだ。一本一本が日本刀を折り、拳銃を軋ませるだけの膂力を持つ。足を取られればどうなるのか、考えたくもない。
「クッソ……三ツ江、いったん逃げるぞ!」
肉の内に取り込まれていく一斗缶を悔し気に見たあと、伏見はその場から逃げ出した。
失敗だ。
慣れないギャンブルをした、そのツケがやってきた。
損害は一斗缶に長ドス、拳銃、加えて伏見ら一行の命の危機。
三ツ江が拳銃を持っていたとしても、一斗缶を撃ち抜くのは難しいだろう。数十トンの肉塊に取り込まれた今、時間が経過するほどにその場所は分かりづらくなる。今振り返って全弾撃ち尽くしたとしても当たるかどうか。
三ツ江にお嬢、それにシルセの両親の命を預かる伏見としては、これ以上の博打など許容できない。
なるべく多くの村人を連れ、一目散に逃げ出すしかないだろう。
決断は早かった。
ただ一言、逃げろと叫ぶために伏見は口を開き――
神樹の下、拳銃を構えるお嬢を見た。




