079話.ヤクザ、踏み込む
――最初に気付いたのは、巡回中の村人たちだった。
「森が、枯れてる……?」
季節は既に秋だ。紅葉した木々は珍しくもない。ただ、大森林の多くを占める常緑樹すら、葉を落としその幹を軋ませている。
この森に生まれた人々すら息を呑む異様な情景に、幾百もの大蛇が地をのたうつような異音が続き、やがて彼らはそれを見た。
イミュシオンの白煙を纏う死肉の塊。
木々も、家屋も、大地すらその身に取り込んで、神敵は触腕の蠢きと共に、エルメの村へ侵攻を開始した。
「伏見! イミュシオンが……!」
「あー、こっちからも見えてるよ」
樹上で状況を監視していたシドレに、伏見はやる気なく返す。
余裕ぶってはいたけれど、その背には冷たい汗が流れていた。
「……そういや、そんな性質もあったっけか」
「今回はあんま、練り物っぽくないっスねぇ」
傍らに立つ三ツ江が長ドスを抜き放ち、鞘を捨てる。
濡れたように輝く刀身は、人が相手ならば十分以上に有用な武器だろう。しかし、イミュシオンの巨体の前ではいかにも心許ない。
重量は果たして何トンあるのか。
四肢のようなものはあるけれど、その自重を支えきれないのだろう。胴体に比べて明らかに見すぼらしいそれを引きずりながら、ゆっくりと、腹ばいにこちらへ――神樹の元へと近づいてくる。
顔も目も鼻もない。体表は動物の骨や毛皮で歪に覆われ、その隙間から内臓のようにぬめる触腕を伸ばしていた。
アニメやら漫画やらではやたらと使い勝手のいい日本刀ではあるけれど、イミュシオンの質量の前では切り込みを入れるのが精々だろう。
「おーい、シドレさんよ。アレ、どうやって倒せばいいんだ? ちゅうかそもそも倒せんのかアレ」
「……戦うつもりなんですか?」
暗い中で、シドレは迷いなく神樹を滑り降りる。網目のような神樹の幹、その凹凸を知り尽くしているのだろう。地面に降り立った後も、シドレの目は巨大な肉塊を追っている。
「そりゃ、別に戦いたくはないがね。戦えるなら戦うし、勝てるなら勝ちてぇ。当たり前だろ」
伏見の言葉に何を思ったのか――シドレは語らず、表情を変えることもない。ただ一度、目配せをして伏見の質問に答える。
「イミュシオンの本体はあの煙です。死肉の内に潜み、操っているだけ。けれど――」
その先は、聞かずとも知れた。
村人らの抵抗も意に介さず、イミュシオンは家屋をなぎ倒し、柱や壁を取り込んで尚も前進する。体表を覆う白煙は蒸留酒を噴霧すれば祓えるが、肉塊そのものにはまるで効果がないようだ。
「イミュシオン無敵モードって感じっスかねぇ」
「最終形態とかの方がかっこよくないか?」
「……お二人はなんでそんなに余裕なんですかね……」
三ツ江の裾を掴んで、お嬢は表情を強張らせている。
数多の生物の死骸を悪意と悪趣味で捏ね上げたイミュシオンの肉塊は醜悪そのものだ。地面を這いずる鈍重な巨体に人は恐怖を覚え、風に混じる悪臭は吐き気を促す。
伏見や三ツ江のように平然と眺めていられる方が異常なのだ。スプレーボトルを片手にイミュシオンを祓っていた巡回の村人らも、何をすべきか分からずに肉塊の蠕動を茫然と眺めている。
応戦している者も、居るには居た。
肉塊の纏うイミュシオンの煙に蒸留酒を噴霧する者、神樹の枝から削り出された木矢や槍で腐肉を貫く者。
けれど、それらは足止めにも成ってはいない。
神樹の武器は肉塊に確かなダメージを与えている。攻撃を受けた部位は傷口から崩れ落ちるけれど、周囲のイミュシオンがすぐさまその肉に取り付いて塊に取り込まれてしまうのだ。
村人らが肉塊に気圧されている間に、村の周囲にまで広げた防衛線は次々と破られている。肉塊と煙による二重の物量戦だ。
「なぁ、シドレさんよ。これどうすりゃいいと思う?」
「……私ごときにどうにか出来るものであれば、村の者が既に片付けていることでしょう。そういうことです。伏見こそ、何か隠し玉があるのでは?」
「隠し玉、ねぇ……」
評価していただいているところ申し訳ないが、あの肉塊のことは完全に見落としていた。
先の遭遇では、イミュシオンの混じった川で魚が死に、その死体が混ざり合って襲ってきた。そのため、伏見は水場に近づかなければ問題ないと考えていたのだ。
実際の性質は、生物の死体を元にクリーチャーを作り操る、といったところだろうか。より正確な性質を求めるのならば更に多くの情報が必要だが――それはともかく。
伏見のつま先が、足元の一斗缶を軽く小突いた。
隠し玉ではないけれど、使えそうな策はある。蒸留酒は効果がなく、神樹の武器は焼け石に水もいいところだ。けれど、炎はまだ試していない。
あの肉塊も、所詮は有機物、蛋白質だ。有機物は燃焼し、高熱によって蛋白質は容易く変性する。倒せずとも、それなりの効果は期待できるだろう。
ただし。
軽油の入った一斗缶は、逃亡の為に残しておいた保険だ。
身内ではなく、組としての関わりもない都市を救うために、その保険を投げ捨てることが出来るのか――
決断に、さして時間は必要なかった。
足元に落ちていた縄を拾い上げ、一斗缶を手早く括る。
「三ツ江。俺ァ今からこいつをあの挽肉にぶん投げてくる。オメェはあの触手をぶった切れ」
「ウス。兄貴を守りゃあいいんスね?」
応える三ツ江に躊躇はない。スプレーボトルのキャップ部分を抜いて、右手の長ドスを握りなおす。
伏見が三ツ江を信頼する一番の理由がこれだ。
やれと言われればやる。
自らに可能な範囲において、三ツ江は一切拘泥することがない。
「三ツ江さん……」
「お嬢、んな顔しなくても大丈夫っスよ? オレら、あんなんよりよっぽど強いんスから。万一オレがヘマしたって、兄貴がケツ持ってくれます」
長ドスを地面に突き立てて、三ツ江がその場にしゃがみ込んだ。
少女の強張った指先を両手で包み、温めるように一本ずつ解いていく。
「だから、大丈夫なんスよ」
大地すら沈ませるような巨躯の異形を前にして、三ツ江は自然体のまま、反撃の一歩を踏み出した。




