076話.エルメの村の黄昏。
――結局、シドレが交渉のテーブルに着くことはなかった。
確かに煽られもした。伏見の見透かすような物言いには心を揺り動かされた。けれど、シドレには別の事情があった。伏見が見落としていたその事実が、シドレをエルメの村へと縛り付ける。
イミュシオンの変異は確かに凶事だ。アウロクフトへの退避や合祀は受け入れられないにしても、その情報だけで村は天と地が逆さまになったような騒ぎになることだろう。そしてその時、村人らの猜疑心が向かうのは――間違いなく、シドレ自身だ。
エルメの村において、外部と好んで接触するような命知らずはシドレたちの他に居ない。
イミュシオンの変異を伝えたとしたら、原因としてシドレたちは真っ先に吊るされるだろう。予想ではない。それは当然の帰結と言えるものだ。
そんな未来が見えていても、故郷を捨てることは出来ず――シドレは張り出した神樹の枝上で、エルメの村を見下ろしていた。
「伏見は、詰めが甘い……」
どうせなら、脅迫してくれれば良かったのに。
殴る蹴るよりも暴力的に、力ずくで。
そんな風にでもならなければ、シドレはもう動けない。
しがらみはまるで縄のようだ。千年前の古アウロクフトに住んだ人々をシドレは知らないが、縄の端として彼らは存在し、シドレもまた一筋の繊維としてアウロクフトという縄を形作っている。
個人個人は容易く引き千切れる脆い糸だ。なのに縄はどうやっても切れることがない。捩られ絡まったシドレは抜け出すことも出来ず、他者を絡めとり、いずれは単なるほつれと成り果てるのだろう。
――衰退森林都市・アウロクフトの外縁、無数にある小都市の一つ、エルメの村に彼女は生まれた。
神樹の地下にてかつての記録を管理し、またそれらの記録を書き写す司書の家系だ。
全ての写本が揃えば、神樹の株を分けて新たな都市の礎とする。新たな都市は神域を形成し、神域は木々を育てて森林を拡大していくのだ。一つの生態系として、森は拡大すればするほど豊かさを増していく。
アウロクフトに許された唯一の繁栄、その一端を担う家系として、司書の地位は村長に次ぐものだ。
にもかかわらず、シドレは幼少の頃より疎外感を覚えていた。
当たり前と言えば当たり前。
司書の務めは、一歩踏み違えば都市にイミュシオンを招きかねないものだ。写本を手にかつての栄光を取り戻そうと奮起し、村ごと滅ぼされた司書も一人二人ではない。
シドレが森の外に興味を持ったのは、そんな家庭の影響――というわけでは、ないのだろう。
子供なら誰しも考えることだ。自分たちが住む世界の外はどうなっているのか。もしかすると森の外には楽園のような都市があって、自分はそこで幸せになれるのではないか。そんな意識は、退屈な森の暮らしに適応できない者にこそ強く働く。
シドレが家族に影響を受けたとすれば、その先だ。
古アウロクフトが衰退して約千年、かの都市に由来する様々な技術はイミュシオンの襲撃対象としてほぼ完全に駆逐されているとはいえ、周辺の都市に与えた知識の片鱗と時間は立場を逆転して余りある。
今度はアウロクフトが蹂躙される側になるだろう。それこそ、古アウロクフトが周辺都市を蹂躙してその繁栄を築き上げたように。
分からずやの村人たちにそう指摘したシドレは――やはり、子どもだったのだろう。
どれほど正しく、合理的で、従えば輝かしい未来が待っているとしても、人には呑み込めない事実がある。その傾向は歳を経るほど――社会の中枢に近づけば近づくほど強く、明確になっていくものだ。
子どもだったシドレは、言葉を選ぶことを知らなかった。例えエルメの村が変わらなかったとしても、もう少し言葉を選べば、孤立を深めることもなかったろうに。
閉塞したアウロクフトの森林は、あの頃のシドレにとっては狭すぎて。
エルメの村から探索者を出すという話は、そんな少女にとって天啓のように聞こえたことだろう。
彼女を持て余していたエルメの村の人々にとっても。あるいは、彼女の両親や兄弟すら。
神樹の琥珀を使ってまで臨んだ、外界の景色は――さて、どうだろう。
それらを語り尽くすには紙面が狭すぎる。目を見張るような石造りの建物や、牧歌的な田園風景、鉄と鉄とを打ち鳴らす恐ろしげな戦まで、シドレは様々な光景を垣間見たのだ。
アウロクフトから既に失われた、繁栄の姿。
単純に良い悪いで語れるものではなく、森に暮らした人々の言葉では語彙が足りない。
アルカトルテリアのような行商都市に頼るのでなければ、この世界での移動は困難を極めるものだ。街道はあくまで協商関係を持つ都市間にのみ存在し、属する神域が接触していなければ言葉も通じない。
道半ばで命を落とし、あるいは他の都市に移り住む者も多い中で――シドレは確かに探索の任を全うし、外界からの知識を持ち帰った、けれど。
彼女を待っていたのは、故郷でも家族でもなく、生まれ育った家の焼け跡だった。
村人らは決して多くを語ろうとはしない。
イミュシオンがシドレの家族を襲ったこと。
他の村人が気付いた時にはもう手遅れだったこと。
誰かが深夜に火をつけて、何も残らなかったこと。
イミュシオンに侵されたその身体すら、汚らわしいということだろう。墓地には彼らの墓もなく、シドレはその焼け跡から父と母、姉と、妹弟の骨を掘り起こしたのだ。
彼らの遺骨は行く当てもなく、地下図書館の片隅に置き去られている。
――それからというもの。
シドレはもう、どこへも行けなくなってしまった。
外界との交易も、それによって得られた利益も、彼女にとっては暇つぶしに過ぎない。
地に足はつかず、現実味というものが失せ、司書の務めを淡々とこなすだけの日々が――
「……あ、ダメ。薬、切れちゃった」
昔のことを思い出していると、ついつい気分が沈んでしまう。神樹の琥珀が欲しくなるのはそんな時だ。
震えておぼつかない指先で、シドレは懐から薬包を一つ取り出した。その拍子に見慣れない小さな布包みが一つ、零れ落ちて神樹の枝の凹凸に引っかかる。
「あれ、なんだっけ……?」
呟いた後に思い出す。
別れ際、伏見に押し付けられたものだ。彼はそれをお守りだと言っていた。
かつて探索者として都市を巡り歩いたシドレすら見た事のない、奇妙な布袋。金糸を織り込んだ煌びやかな布地には繊細な刺繍が施され、不可思議な感触の塊を包んでいる。
どれだけ強力なお守りであろうと、神域の外に出てしまえばその力は失われてしまうものだ。それでも布袋は明らかに値打ちものだし、中身のせいでヘンな形歪んではいるけれどデザインは悪くない。
落としてしまうのももったいないと、シドレは枝の上で寝そべるように手を伸ばした。
――気付けば、既に夕日は森の木々にかかっている。
伏見の予言したイミュシオンの襲撃は起きず、連れてくると約束した被害者も現れない。
結局、あの発言はハッタリだったのだろう。交渉の際のブラフはよくあることだ。シドレだって、伏見との交渉では組長の病状をカードとして扱った。意趣返しとしては少々趣味が悪いけれど――まあ、いい。
交渉は成立しなかったし、被害といえば、シドレの一日が徒労に終わってしまったことくらいのものだ。
不安定な枝の上で、シドレは悠々と手足を伸ばす。
いくら慣れているとはいえ、灯りがなければここから降りることにも苦労するだろう。その前に、シドレは変わり映えのしないエルメの村を見下ろす。
悲鳴が聞こえたのはそんな時だ。
喉を嗄らすような老婆の悲鳴を、シドレは確かに聞いていた。




