075話.ヤクザ、誘う
そして、伏見はシドレと向かい合う。
アウロクフトの象徴たる神樹の根元、書架と装丁のない本に埋め尽くされた地下室にて。
天井から吊るされたランプが、頼りなく二人を照らしていた。
「さて。そろそろ落ち着いたかい」
こじんまりとしたテーブルには、素焼きの茶器と採れたばかりの果実が並べられている。供されたのは紅茶にも似た渋みのある発酵茶だ。甘く香る果実酒――リキュールではなく、ワインやシードルの類――を、伏見は見様見真似でカップに注ぐ。
「……この度は、とんだ醜態をお見せしました……」
向かいに座るシドレは、カップを両手で包むように取り、その縁に口をつける。頬に差す赤みはランプの灯りのせいではないらしい――多分、神樹の琥珀がまだ残っているのだろう。
「こちらこそ、間が悪くて申し訳ねぇなァ。ま、アンタがトリップすんのを見るのもこれで二回目なんだ、恥ずかしがるようなことでもねぇだろ」
「この間とは違います。正体を失くすくらい酔っぱらってしまって……ああ、もう」
頭を振って、シドレはもう一度カップに口をつけた。
渋みの中にあるほのかな甘みと香りを楽しんで、乱れてもいない髪を整える。たったそれだけの仕草で思考を切り替えて、シドレはぴんと背筋を張った。
「改めて、ご用件をうかがいましょうか。……村を壊すとは、一体どのような了見で?」
「いい意味でだよ、いい意味で。レーネの嬢ちゃんには話したんだがな、どうもイミュシオンに変異の兆しが出てるらしいんだわ」
昨日の天気でも語るように、伏見は軽く、事のあらましを語る。
トルタス村、そしてアルカトルテリアにイミュシオンが現れたこと。
うちの一人は治療が必要な状態であること。
アルカトルテリアは通商路を変更し、トルタス村の住人は避難すること――伏見が話している間、シドレはずっと黙りこくっていた。
「とまあ、こんな感じでな。こうして会えたのも何かの縁だ。そちらさんがその気なら、避難なり合祀なり、アルカトルテリアの連中に口利いてやってもいいんだが」
「ああ、なるほど。それはまた――」
目を伏して、左の口角をわずかに吊り上げて。
シドレは、わずかに笑みをこぼした。
「――随分無為なことを、するものですね」
皮肉――否、その笑みは自嘲だろうか。
自らと、生まれ育った故郷をひとまとめに嘲笑っている。
「無為っつーのは聞き捨てならねぇなァ。神敵の変異なんてのは生きるか死ぬかの話だろ。藁にもすがりてぇのが人間じゃねぇか」
「無為でなければ無駄でしょう。この森で生まれて、この森で死ぬ。それが私たちです。イミュシオンが変異しようが、私たちはこの土地を離れない」
決然と語られたその言葉は、意味だけ見れば郷土愛に満ち満ちていて、いかにも献身的だ。日本生まれ、日本育ちの伏見にも理解は出来る――出来るけれど、シドレの言葉はどこか薄っぺらく感じられた。
嘘ではないのだろう。けれど、本心には程遠い。
「……イミュシオンの被害を受けたという方。治療はこちらで承りますけど、帰還の手筈はそちらでご用意を。余所者の面倒は見られませんから」
シドレはそう言って、会話を打ち切りにかかる。飲みかけの茶を置いたまま席を立ち、伏見に対して背を向けた。
余計な面倒はごめんだと、そう言いたげな姿だ。
こうも陰鬱な土地で生きていれば、人はいずれそうなるのだろう。例え、昔はそうでなかったとしても。
「私たちはこの土地を離れない、ねぇ」
「……それが何か」
「いんや、別に。ただまぁ――おまえさんは、『私たち』の中に含まれてねぇんだろうなって、そういう話だよ」
告げられた自らの本心に、シドレは思わず振り向いた。
視線の先で、ヤクザは不敵に笑っている。
「最初っからおかしいとは思ってたんだよ。外部との交流を立っているアウロクフトが、なんであんなちんけな村と繋がってんのかって」
「シルセの嬢ちゃんがエルフに助けられて、そこから交流がはじまった。そう聞いてはいたけどなぁ。おかしいだろ、それ。そんな理由でいいんなら、他の都市の連中だって簡単に繋ぎが取れるはずだ」
「森に迷っているところを助けた? ありえねぇありえねぇ。よそもんに関わったら自分が死ぬかもしれねぇんだ、助ける道理がねぇだろ」
「でも、現実は違う。おまえさんはシルセの嬢ちゃんを助けたし、細々とではあるけどトルタス村との交易も始めた。まるで、イミュシオン共が怖くねぇみたいにだ」
「アウロクフトにとって、ありえねぇことが起きている。その理由はなんだ? 考えるまでもねぇやな、おまえさんだよ、シドレ」
よく回る舌で、伏見は推論を語り上げた。
確証など何もない。少なくとも伏見は知らず、また調べ上げるための時間も足りず。
けれど、言い当てられたシドレの表情、その動揺を足掛かりに伏見は推論を重ねていく。
「さて。アウロクフトの連中の中で、どうやらあんただけが外部と関わろうとしてるらしい。なんでかってそりゃ、あんたは外を知っているからだ」
「探索者っつったか。あの、日焼けしたエルフ。何年かに一度外地に送り出して、この森に帰らずにはいられないってヤツ。あんたはそれだ。もう日焼けはしてねぇみたいだけどな」
「この、帰らずにいられないっつーのがどうも釈然としなかったんだがな。あんたが神樹の琥珀を使ってんのを見てぴんと来た。探索者――外地に出ていくエルフはその琥珀を持たされるんだろ。もちろん、依存症になるまで琥珀の粉末を嗅がされてから、だ。だから、探索者は帰らずにはいられない」
「あんたは、外を見たんだろ。どういう風に見えたのかは俺には分からねぇけどよ、イミュシオンの脅威をも顧みず、外地の連中に関わっちまうくらいには――」
続く言葉を、伏見は口にしなかった。
伏見の推測が正鵠を射ているかどうか、シドレの表情を見れば明らかだ。両目を見開き、唇をわずかに震わせている。
だから、シドレが必要だったのだ。
閉鎖的なアウロクフトの人々の中で、外界を知り、故郷の因習を足蹴にするこの女が。
「――まァなんだ、別に大それたことしようって訳じゃねぇ。おまえさんに頼みてぇことは色々あるが、大きく分けりゃあ二つだ。まずはイミュシオンに襲撃されたとき、確実に生き残ること。そしてその後の話し合いでこちらに協力することだ」
左手の指を二本立てて、伏見はティーカップへと手を伸ばした。
突きつけられた条件そのものは確かにそう難しくない。シドレだって死にたくはないし、イミュシオンに襲われるような状況であれば伏見を村に引き込むのも決して不可能ではないだろう。
けれど、さらりと告げられた前提条件があまりにも不可解だ。
「その物言いでは、まるで――」
「まるで、明日にもイミュシオンが襲い掛かってくるみたいだ、ってか?」
言葉を被せるようにして、伏見は口の端を吊り上げた。
「みたいじゃなくて、実際に襲い掛かってくるんだよ。こっちの計算じゃ明日――日没までには襲われるはずだ。……一応言っとくが、計算方法に付いては企業秘密だからな。教えたっておまえさんらには出来ねぇだろうし」
無造作にカップへと口を近づけて、伏見は悠々と、注がれた茶を飲み干す。
さて。
果たして、シドレは信じただろうか。
乏しい根拠から彼女の来歴を言い当てて動揺を誘った。
故郷を壊すに足る理由を語り上げて彼女を煽った。
あとは、最後の嘘を信じてもらうしかない。マトロの一件と違い、脅迫の材料となる弱みは用意できなかった。報酬についてもそうだ。ここはアルカトルテリアではなく、契約は容易く反故にされる。
互いの間に法も倫理も共通しないこの状況では――危機感を煽り、動かざるを得ない状況に持っていくのが一番手っ取り早い。
「シドレさんよ、んなとこに突っ立ってないで座ったらどうだい。こっちはまだ報酬の話もしてねぇんだ。こっちの提案に乗るかどうか、決めるのは聞いてからでも遅くねぇだろ」
カップを置いて、伏見はシドレを交渉のテーブルへと誘う。
衰退森林都市・アウロクフトに生まれ落ちた彼女の答えは――




