071話.ヤクザ、蹴り上げる
夕暮れはとうに過ぎ去って、通りに人はなく、酒場ばかりが騒ぎ声で街を賑わす、そんな時間。
アルカトルテリアの中心から離れたミルカセ――開発途上区画の中心に、マトロ商会の本部はあった。
本部とは言うが、その規模に比べて建物は質素だ。マトロが肩を並べる祭祀会の大商人に比べれば貧相とさえ言える。あまつさえ、あの無駄に派手なマトロがここを住まいとして兼用していると聞けば大方の者は開いた口が塞がらないだろう。
商品もほとんど置かず、あるのは金と書類ばかり。客のもてなしすら支部に任せる有様で、人気のない建物には明かりが一つ、灯っているだけだ。
その、心許ないランプの火の下で、マトロは一人執務に勤しんでいた。
「……クソ、クソ、クソ……ッ!」
羊皮紙の凹凸に羽ペンの先がひっかかり、サインがわずかに乱れる。
苛立ちの原因は紛れもなく、千明組は伏見によって背負わされた借金のせいである。
千明組の連中がこの都市にやってくるまで、全ては上手くいっていたのだ。
病弱な農家の三男坊から商会の一奉公人、そして商会の主へと成り上がり、一代で祭祀会所属の大商会と肩を並べ、ついには祭祀の座にまで手が届いた。けれどその手はあっさりと踏みにじられ、今は借金をどうやって返すか、思案の日々である。
財政状況はかなり厳しい。
背負わされた借金は金貨十三万枚という大金だ。おまけに複利で、放置すれば借金は雪だるま式に膨れ上がる。
アルカトルテリアが通商路を一周する度に一割、一月には約二分、二パーセントの利子だ。自身の財産を処分し、金庫を空にして、相手方が出した様々な条件を呑むことでようやく二万二千枚分を返済することが出来たけれど、未だ金貨十万八千枚分の借金が残っている。
祭祀座を手に入れるためあちこちに金をばら撒き、権益を売り払った直後だ。これ以上は首が回らない。
借金を返済するためには高収益の期待できる千明組の事業に協力せざるを得ず、その結果千明組の連中はさらに儲ける訳だ。
マトロが今取り掛かかっているのも、そんな千明組関連の仕事だった。
マトロが祭祀代行として認められるために必要な書類の準備だ。残り三人の祭祀と祭祀会の面々に対する就任のご挨拶である。
場合によっては直接対面した上で書状を渡さねばならず、肩書きによって文面を変え、一人に対し複数用意しなければならない。
面倒な慣習ではあるが、これも借金減額の条件だ
インク壺にペン先を漬けて、マトロは次の羊皮紙に取り掛かる。
「……代表! 代表!」
集中に水を差したのは、けたたましいノックと使用人の声だ。
学はなく華やかさに欠けるが、寡黙で、何よりマメに働く彼女をマトロは気に入っていた。そんな使用人が声を荒げるのは珍しい。
ペンを置き、マトロは自ら席を立って使用人を迎える。
「私の夜更かしに付き合うことはないと、いつも言っているだろうに。ノーラ、一体何が……」
「チーっス。ヤクザでぇーす!」
――使用人を押しのけて現れたヤクザに、危うく腰を抜かしかけた。
ランプの灯りでその顔面を下から照らして、三ツ江は傍若無人に部屋へと押し入る。その後ろには無礼な客を追い払おうとするノーラと、無理に肩をいからせたお嬢が付いてきた。
「やー、寝てるかと思ったんスけど、起きててよかったっスわー。じゃないと叩き起こさなきゃダメだったんで」
「君は……千明組の……!」
商会の主に許可を得ることもなく、三ツ江はたった一つの椅子を引いて腰掛けた。
三ツ江が「上」で、マトロが「下」だ。
猿山の論理は、バベルのごとき文明を築き上げた万物の霊長たる人類社会に対して驚くべき効果を発揮する。
まあ、どっちとも霊長類だし。そんなに大差はないのだろう。
「生温かくてキモイっスねー。こんな椅子に長時間座ってたら痔になるっスよ、痔に」
「なっ……何の用だ! 何をしに来た!」
マトロの剣幕を、三ツ江は飄々と受け流す。
堅気の人間にはそれなりに礼儀を払うつもりではあるが――罪もない村人を死に至らしめたマトロは同じ穴のムジナだ。
同類に払うような敬意は、三ツ江にない。上下関係が決まった後ならなおさらに。
「伏見の兄貴の使いっスよ。や、実はちょっとごたごたしてて。マトロ君に働いてもらおうと」
「……イミュシオンの一件か。断る」
取り付く島もなく、マトロは吐き捨てるように言う。
「既にアクィールの依頼で口止めはしているが、それすら重大な背任だ! これ以上のリスクなど承服しかねる!」
「まぁまぁ。いいじゃないっスか。そちらさん苦しいんでしょ? 別にタダ働きさせようってんじゃねぇんです、ちゃんと報酬は支払うっスよ。俺らは法に従わず神敵に……えー、利する行為を行って、そちらさんは脅されただけ。いい取引じゃないっスか?」
手元のメモを確認しつつ、三ツ江はマトロにとっての利益を提示した。
言葉通りに受け取れば、確かに旨味の有る取引だ。お互いの喉元に剣を突きつけ合うような状態にまで持ち込めば、借金の減額――いや、帳消しにすることだって出来なくはない。
……相手の弱点を握ったにもかかわらずその程度の希望しか抱けないあたり、既に負け犬根性が染みついているのだけど。
「貴様ら、何を企んでいる」
「企むなんて人聞き悪いっスねー。今回の目的は純然たる人助けっスよ? 神敵が変異しはじめたエルフの村を俺らが救う、そういう筋立てっス」
筋立て。
悪巧みだと自白しているようなものだ。
提示されたマトロの利益――千明組の弱点は、喉から手が出るほど欲しい。借金を帳消しにして、互いの立場すら逆転しうる最高のカードである。
比べて、マトロが負うリスクは――。
溜息と共に、マトロは三ツ江へと問いかける。
「……聞くだけだ。聞くだけ聞いておくが、伏見は一体何を望んでいる。私に何をしろと言うんだ?」
「詳しくはこれを見てくださいよ、っと。アクィールさんの委任状も入ってますんで」
ぽいっと気軽に、三ツ江は丸めた羊皮紙を投げてよこした。
交渉慣れしていないのだろう。まず提示すべき要求を、マトロはようやく知る。
二度、三度と羊皮紙に目を通し、どう読み返そうとも伏見の描くゴールはただ一つで、呆れと共に顔を上げた。
「これは……正気か?」
どうやって、彼らを――――――――するというのか。
「さ。この話、乗って貰えますか。あいにくこちらにゃ時間がねぇんだ。とっとと決めて貰わねぇと」
椅子の背もたれに頬杖を突いたまま、三ツ江は返答を迫る。
頭の中の天秤に、マトロは条件を一つ一つ積み上げていった。
伏見に売れる恩や祭祀代行としての利益、アルカトルテリア全体に及ぶリスクに、必要とされる労力。
――天秤は、わずかに拒絶側へと傾いた。
あとは交渉だ。
憎き復讐相手だろうが犯罪者だろうが、利益さえあれば手を組むのがマトロの流儀だ。
借金の減額なり権益なり、差し出すというのであれば――手を貸すのはやぶさかではない。
たっぷり考え込んだ挙句、勿体ぶって口を開き――
「――いいから、手を貸してくださいよ……っ!」
口を開きかけたマトロのケツを、お嬢は背後から蹴り上げた。
なんでだ。




