069話.ヤクザ、間違える
「――伏見さんも、もうお気づきでしょう。イミュシオンに変異の兆しがあります。ここは手を引くべきだ」
マトロに脅されていた時のような弱弱しさは鳴りを潜め、アクィールは決然と伏見を見つめる――けれど。
「兄貴兄貴。変異ってなんスか」
「うるせぇ、俺だって知らねぇんだよ」
常識のように言われても、困る。
とはいえ、推測するための鍵はあった。
いまいち異世界感に欠けるため、伏見は不満げだったけれど――この世界には翻訳機能がついているのだ。だから異なる言語圏の人間同士でも意思疎通を図ることが出来る。英語もろくに喋れない伏見としては羨ましい限りである。
一方で、この翻訳機能は完璧ではない。
この世界における「神敵」や「神域」は元の世界に存在しなかった。そういった未知の概念が近似の言葉に翻訳される一方で、「イミュシオン」などの言葉は翻訳されていない。
その辺りの基準は伏見にもまだ理解しきれてはいないけれど、「変異」という言葉に翻訳されているのなら日本語の意味と大きくは違わないはずだ。
あとは演技力とハッタリである。
「アクィールさん。変異ってのは本当なんですか。実際に見るのは初めてなんですが……」
「……変異は十年単位で進行するものです。まだお若い伏見さんは知らぬのも無理ありません。ですが、可能性があるというだけで十分危険なのはご承知の上でしょう」
あいにくと伏見さんはご承知ではないのだけど、真剣な面持ちで俯いていれば相手は勝手に察してくれるものだ。
案の定、アクィールは「変異」の詳細を語りだす。
「私は過去に二度、神敵の変異に立ち会ったことがあります。どちらも交易路を変更せざるを得なかった。一方は安定化の後に復帰しましたが、もう片方は――」
言葉に詰まって、アクィールは唾を呑み込む。
苦渋の入り混じる表情を見れば、何が起きたのかは火を見るよりも明らかだ。けれど、こちらには情報が足りない。はっきりと言葉にしてもらう必要があった。
「もう片方は、どうなりました」
「それは……」
「……都市は壊滅し、住民は全て離散。残されていたのは瓦礫と、狂暴化した神敵だけだったと聞いています」
口ごもる父親に代わって、ファティが都市の末路を語る。
「変異に対応出来なかった、って。その都市は父が若い頃に通商を開拓して、けれど見捨てることしか……」
「そりゃ、悪ィことを聞きました。申し訳ない」
頭を下げながら、伏見は二人の言葉の意味を探っていた。
一つ、変異は十年単位で緩やかに進行する。
一つ、変異には対処が可能な一方で、失敗すれば都市そのものが崩壊する。
一つ、アルカトルテリアは他の都市が変異した際、交易路を変えて対処する。
「……アウロクフトには近づかないとして、その場合この村はどうなるんですか」
「当然、彼らと協議をした上でのことではありますが、最終的にはこちらで保護することになるのでしょうね」
「そりゃ、住人の話ですか。それとも村全体?」
千明組の時のように、その土地ごとアルカトルテリアに編入されるのか。
そう問いかけた伏見に向かって、けれどアクィールは頭を振る。
「残念ながら、この村にそこまでの価値はありません。なるべく働きかけるつもりではありますが……難しいでしょうね」
それは、道理だろう。
アルカトルテリアからすれば、自らの得にならないことにわざわざ労力を払う価値はない。ただの商売相手に過ぎない相手をわざわざ保護してくれるだけ有難いとすら言える。
それでも、千明組とっては痛手だ。
トルタス村に対し、千明組は多くの投資を行っている。例えば試験農場がそうだ。アルカトルテリア内にも同じものを作るつもりだが、異なる環境下での生育は品種の保護に繋がる。
品種改良の進んだ水稲や大豆は極めて貴重な千明組の資産であり、そのための生産基地を失うのはあまりにも惜しい。
農業を生活の主軸に置く村人たちにとってはその半身をもがれるようなものだろう。先祖代々より培ってきた生活を捨てるのは抵抗があるはずだ。
けれど、
「……ま、仕方ねぇか。命あっての物種だもんなァ」
あっさりと、伏見はそれら全てを手放した。
そんな理不尽など所詮よくあることでしかない。
人死にも出ず挽回の機会すらある現状はむしろマシな方だ。
「村人の説得にはこちらも協力させてもらいますよ。あとはまぁ……時間の問題か。なるべく多くの財産をそちらに持ち込みたい。アルカトルテリアの出発はどうなります?」
「元より明日の日没には出立の予定でした。イミュシオン襲撃の情報は口止めしてありますから、それより短くなることはないでしょう」
期限を切られて、やるべきことも決まっている。
ならばあとはやるだけだ。手を打って、伏見がその場から立ち上がった。
「よっし、それじゃとっとと取り掛かるか! 三ツ江とお嬢は組長らの帰還準備を。俺とアクィールさんは村の連中と話し合ってくる」
「ウッス。お嬢、行きますよ」
伏見の言葉を受けて、三ツ江とお嬢は部屋の外へと出て行く。
残されたのは伏見とアクィール、それにファティとシルセだけだ。状況についていくので精いっぱいのシルセに近づいて、目線を合わせるべくしゃがみ込む。
「お嬢ちゃんにはエルフとのつなぎを取って貰いてぇんだ。頼めるか?」
「つなぎ……?」
「今一番危ないのはシドレたちだろ? それを伝えなきゃいけねぇし……アクィールさん、被害を受けたってぇ学者も連れてきてんでしょう。イミュシオンに襲われた人間を治療できるのは連中だけだ、その件も頼まねぇと」
子どもなりに、シルセはゆっくりと伏見の言葉を噛み砕いているようだった。
こんな少女を利用するのは気が引けるけれど、四の五の言ってられる状況ではない。森の中に引きこもっているエルフと接触出来る可能性があるのはシルセだけだ。
イミュシオンへの対策についても、既に手は打ってある。
未知であった当初はともかく、その性質も弱点も把握しているのだ。分かってしまえば対処は決して難しくはない。
「んじゃま、行きましょうやアクィールさん。とっとと村の連中を説得しねぇと損が増すばかりだ」
部屋にファティとシルセを残して、伏見は外へと向かう。
「しっかし、惜しいなァ。エルフが持ってる書物には興味があったんだが……」
紛れもなく、それは伏見の本音だ。
趣味としてももちろんだが、アルカトルテリアにはあれほどの古書は存在しなかった。あるいは、あの中に日本へと帰還する鍵があったかもしれない。
優先順位は決して低くはないが――今は、危険から離れることを優先すべきだろう。
「伏見さんもですか。いやぁ、実に惜しい」
背後でファティと言葉を交わしていたアクィールが、伏見の独り言に同調する。
「私もね、彼らの歴史には前々から興味があったんですよ」
「歴史?」
「ええ、今では衰退という不名誉な名を頂いておりますが、かつてのアウロクフトは強大な力を元に多くの都市を支配していた――らしいのです」
その話は初耳だった。
考えてみれば、衰退の前には必ず栄華が存在するものだ。元の世界におけるローマやムガール、遡っては大河川に沿って築き上げられた古代文明のように。
「らしいってのは?」
伏見の疑問に、アクィールは苦笑いで答える。
「単なるおとぎ話ですよ。千年以上も昔のお話です。例えばそう――アルカトルテリアで使われている白金貨なども、その精錬技術はアウロクフトに由来するそうです」
「……なんだって?」




