068話.ヤクザ、困る
「――で、アクィールの旦那は何だって?」
「や、話聞こうとしたんスけど、娘さんの方が気がかりだったみたいで」
あくびを噛み殺して、伏見はのそりと身を起こした。
仮眠のつもりだったから着の身着のままだ。シャツには皺が寄り、丁寧に撫でつけられたオールバックも解けて額にかかる。
三ツ江から濡れタオルを受け取って、ふらふらと立ち上がった。
「あー身体が痛ぇ。板の間で寝るもんじゃねぇな、ほんと」
「……兄貴はなんでこんなところで寝てんスか?」
「この小屋、部屋が一つしかねぇんだよ。いくら眠いからって親父と一緒の部屋でぐーすか寝てる訳にはいけねぇだろ」
顔や首筋を拭って、シャツの襟元をさっと整える。
三ツ江の差し出すネクタイをやんわりと拒否してスーツを受け取ると、ボタンも閉めずに玄関のドアを押し開けた。
起こされてからわずか一分足らずの早業だ。
こちらの世界に飛ばされてからというもの、すっかり仕事人間が板についてしまった。
――ネット環境の存在しない異世界で、日課だった某アイドル系のソシャゲをプレイできなくなったというのが理由だったりするのは内緒である。
たとえ伏見以外の組員全員がその趣味を知っていたとしても、内緒ったら内緒なのである。
千明組の若頭とPを兼業している(していた)伏見のことはさておいて。
イミュシオンに襲われたファティ達は、シルセの家に保護されていた。
他の家屋が大なり小なり被害を受けている中で、唯一無事だった一軒だ。ゴブリンに襲撃された当時、多くの者が自らの家に逃げ込む中で、狩り手であるシルセの両親は村人らを守るために奮闘していた。
シルセの家が襲われなかったのはそのためだ。
トルタス村の神敵であるゴブリン共は、村人にしか興味がない。
木の皮から野生動物の死骸まで何でも食べる雑食性らしいけれど、その食欲も、生存本能ですら村人を殺害するという目的の前では消し飛んでしまう。
生物としてはあまりにも不合理な生態。
自らを産み落とした神域、その崩壊を望む自死作用。
――伏見が対峙している問題は、その悪意が周囲に及ぶ可能性だった。
「伏見さん! 来てくれたんですね!」
「おうよ、ファティの嬢ちゃんも元気そうでなによりだ」
部屋に案内された伏見を見て、真っ先に声を上げたのはベッドに横たわるファティだ。
昨夜の礼を言おうとしたのだろう、身体を起こして立ち上がろうとする娘をアクィールが押さえつける。怪我自体は擦り傷程度だったはずだが、イミュシオンに襲撃されたことで気が立っているらしい。
いつの時代、どこの世界でも過保護な親はいるものだ。主にウチの組長とか。
「もー、伏見さんもなんとか言ってくださいよ。父ったらずっとこんな調子で……」
「そう言ってやるなよ。親父さんだってわざわざ馬車飛ばして来てくれたんだから。……でもまぁ、動きやすい格好の方がいいでしょうや。何が起きるか分からねぇんですから」
伏見の言葉をこれ幸いと、ファティは身体を起こしてにんまり笑う。
アクィールは伏見に対し恩義を感じているのだ。祭祀の座を退いたとはいえ、商会の所有権と娘を守ることが出来た。父親とはいえ、伏見には強く出られない。
――それに、伏見が口にしたのは単なる事実だ。
状況はある意味ゴブリンの一件よりも面倒なことになっている。
神敵は元となる神域の人間しか襲わない。それが伏見の推測していたこの世界のルール、その一つだ。
伏見達が襲撃されたのは――まだ理解出来る。ファティらの件もそうだ。伏見とファティはそれぞれエルフと接触していたし、距離も近い。
アウロクフトの衰退を促すイミュシオン、そのルールに抵触していたとしても不思議はないだろう。
ただ、アルカトルテリアの街中となれば話は違う。
村が無事なのだから無差別に襲撃している訳でもない。距離も関係ないのだろう。襲われた工房の職人にエルフとのつながりがあるとも思えなかった。
法則性らしきものはただひとつ、千明組の関係者ということだけだ。
「さて。アクィールさん、お話しいただけますか。アルカトルテリアで何があったのか」
兎にも角にも、今は情報が欲しかった。
他ならぬ恩人の頼みに、アクィールは居住まいを正す。
「そうですね、何から話したものか――」
――アクィール自身、現状を正確に理解しきれていないのだろう。たどたどしい語りを整理すると次のようになる。
今朝、アクィールは商会傘下の工房を訪れていたらしい。
祭祀の座を退き、商会の経営をマトロに引き継ぐ。言葉にすれば簡単だが、一朝一夕で片付くようなものではない。
それでも、アクィールは厄介な手続きや書類仕事に忙殺されつつ研究再開の準備を行っていたのだ。
マトロに持っていかれた千明組の物品を取り戻し、関連する職人や学者連中を集めて組織化、運営する為の準備。商会の主として表舞台に立っていた頃よりもよっぽど精力的に仕事をこなしていた。
血筋によって祭祀の座を務めていただけで、本来はこういった仕事にこそ向いていた人物なのだろう。お偉方との会合や交渉事よりも、働く人間をサポートして裏から支えることこそ才を発揮するタイプだ。
面倒な手続きや根回しに忙殺されつつも、アクィールは職人らの会合をセッティングした。
アクィールとマトロが集めた、有能かつ新しい物好きの面々だ。会合は長引くだろうし、自分が居ても邪魔になるだけだろう。そう思い、遅刻前提の寝坊をかましていたところに、中枢メンバーである学者の一人が倒れたという報せが入った。
着の身着のままで工房を訪れたアクィールは学者の容体がイミュシオンの被害と一致することに気付き、どうすべきか迷っていたところに――再び、今度は娘がイミュシオンに襲われたという報せが届いた、と。
後の事情は三ツ江から聞いていた通りだ。
「その、学者を襲ったのがイミュシオンだってのは間違いねぇんですか」
「目撃情報があるんです。会合に呼ばれたメンバーが奇妙な霧を目撃していて……」
暗い顔で、アクィールは語りを終える。
同席する人間の中でも、ファティやアクィールの深刻さは一種異様に感じられた。幼いシルセですら、会話を理解しようと必死に頭を巡らせている。この世界に生まれたからこその危機感――だろうか。
「……私とシルセの時、イミュシオンは確かに私たちだけを狙ってたと……思います。他の人は襲われてないんですよね? だったら、多分……」
同じ話を聞いていても、どこか温度差を感じる。
伏見が想定している最悪のケースは、この先どこに逃げてもイミュシオンが追ってくるという展開だ。もしそうなれば、伏見達は延々と戦い続ける羽目になるだろう。
けれど、他の人々は千明組との関係を断って見捨てればいいだけだ。
人並みの情があれば後悔はするだろう。伏見らの恨み節を夢に見るかもしれない。だからと言って、自らの命を捨てて他人に付き合うのは馬鹿のやることだろう。
この場に居合わせた異世界人たちの危機感に、伏見はそれ以上の深刻さを見て取った。
「――伏見さんも、もうお気づきでしょう。イミュシオンに変異の兆しがあります。ここは手を引くべきだ」
マトロに脅されていた時のような弱弱しさは鳴りを潜め、アクィールは決然と伏見を見つめる――けれど。
「兄貴兄貴。変異ってなんスか」
「うるせぇ、俺だって知らねぇんだよ」
あいにく、こっちは地球産まれの日本育ちである。
変異だのなんだの、専門用語混じりで語られてもその、なんだ。
困る。




