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異世界ヤクザ千明組  作者: 阿漕悟肋
衰退森林都市・アウロクフト
65/130

064話.ヤクザ、泣き言をいう

 長い長いため息で、二人は身体を弛緩させ――投げ出されたシルセの足を這い上がる、イミュシオンの欠片を見た。

 ほんの、腕一本分。

 輪郭も曖昧な煙は蛇のようにその肌へとまとわりついた。

 いくらもがいても意味がない。不定形の身体は触れることも出来ず、染みるように膝から腿へと這い上がる。

「この……ッ」

 大人たちも役に立たない。そもそも状況が分かっていないのだ。動けるのはファティだけ。

 だから、少女はその懐へと手を伸ばした。

 取り出されたのはちっぽけなガラスの小瓶だ。鳩をかたどった、子どもの手にすっぽり収まる細工物。血のように紅い液体を閉じ込めたそれは、炎の明かりに晒されて宝石のように輝いていた。

 蓋を外す余裕もなく、ファテイはその香水瓶をシルセの足元へと叩きつける。

 施されたカットをなぞるようにガラスの小瓶は砕け、飛び散った破片は少女の肌を浅く裂いた。遅れて、ひりつくような痛みも忘れるような匂いが周囲に広がる。

 香水と一口に言っても、その種類や用途は様々だ。体臭隠しはもちろんのこと、時代によっては悪い空気、瘴気を払う為にも用いられた。ファティの投げつけたそれは女性が自らを魅力的に見せる為のものだが――この場合、重要なのはその成分だった。

 様々な植物から抽出された香料を溶かす――高濃度のアルコール。

 イミュシオンの弱点の一つ、酒だ。

 香水の飛沫が飛び散ったシルセの足に、イミュシオンは触れられず、揮発するアルコールを恐怖するように後退する。その隙にシルセは足を引き抜いて、煙の塊から距離を取った。

 これでも、まだ足りない。

 イミュシオンはその質量を大幅に削られて、それでもまだ、動くことを止めてはいなかった。離れたシルセを諦めて、次はファティに狙いを定めたようだ。煙の身体が、地面をのたうつようにその向きを変える。

「誰か! 火!」

 ファティはそう叫ぶけれど、誰もすぐには反応出来ない。一拍遅れて、ランプの蓋を開ける者、炎上を続ける壁から火を取ろうとする者――ようやくその煙がイミュシオンだと気づいた村人たちの輪から、一人の男が前に出た。

 右手に持ったジッポライターに着火して、染みのようになったアルコールへと軽く放り投げる。

「……火っつぅのは、これでいいのかね」

 きん、と耳心地のいい金属音が一つ。

 揮発したアルコールは瞬時に発火し――イミュシオンの残骸とともに、燃え尽きた。

 男は焼け跡からライターを拾い上げ、さっと土を払ってスーツのポケットへと仕舞い込む。腰の抜けたファティを見つけると、当たり前のように近づいて、少女の顔を覗き込んだ。

「よう。聞きてぇことは山ほどあるんだが――ま、その前に、だ」

 ファティの頬に手を伸ばし、親指の腹で煤を拭って。

「子どもは寝る時間だろ。後は大人に任せて、今は寝とけ」

「――はい。そうさせて、もらいますね」

 それまでの緊張から解放されて、ファティの目蓋がゆっくりと落ちていく。

 力なく崩れていく身体を抱きとめて、伏見は櫛づくように少女の頭を撫でた。




 眠りに落ちた少女二人をシルセの両親に任せ、炎上を続けていた村長の家を鎮火し、飛び散ったガラス片を片付けて、村人たちとの協議が終わる頃には既に夜が明けていた。

 大人の責任、というやつだ。

 後始末を終えて、伏見は休みも取らず、組長の下へと馳せ参じていた。

 千明組に割り当てられていたのは住人を失くした木造の一軒家だ。そこで、組長は試験農場の指揮を執っている――筈だった。伏見に先んじて帰っていた山喜や、見習いの八房、それにお嬢もここに宿泊している。

 その一室――組の屋敷から持ち込んだ畳の上に布団を敷いて、組長と山喜はうつ伏せになっていた。

「……そんで、三ツ江の野郎はどうしたんだ」

「アイツはエルフの村に置いてきましたが、ガキじゃねぇんです、そろそろ帰ってくるはずですよ」

 一段低い板間に控え、伏見が一通りの経緯を説明し終える。

 エルフとの話し合いからイミュシオンとの遭遇戦、そしてエルメの村訪問とイレギュラーが続いたけれど、ようやく目的を果たせた。

 とはいえ――何事もつつがなく、とまでは言えない。

 エルフとの交流は難しくなり、イミュシオンの魔の手はこの村にまで届いている。村人たちや人足を宥めつつ警戒を強め、対策を講じなければならなかった。

 おまけに――組長と山喜の体調も、芳しくはない。

「親父の方は、どうです。動けそうですか」

「なァに、こんなもん大した……あいたたたた」

 意地を張ろうとして組長は身体を起こし、けれどすぐに布団へ横になる。安静にしている分には問題ないが、身じろぎ一つ、くしゃみ一つで激痛に苛まれる。そんな状態だ。

 端的に言えば、ぎっくり腰だった。

「……歳なんですから、無茶しねぇで下さいよ」

「いやぁ、悪ぃ悪ぃ。若ぇのが頑張ってるってぇのに、ふんぞり返ってんのがどうにも性に合わなくてなぁ」

 どうもこの組長、年甲斐もなく農作業に手を出して、挙句に腰を痛めたらしい。こういう人となりだからこそ人がついてくるものだけれど、もう少し身体を労わって欲しかった。

「大体だな、元はと言えばこのジジイが先に腰をやっちまったんだ。わしゃあそれを支えようとしてだな……」

「は、俺より十五は若ぇ癖して何言ってんだ、オイ。なっさけねぇ、年寄りの一人や二人、支えられねぇでどうすんだよ。組長なんて呼ばれて鈍ったか」

「……兄ィ、やんのか。こちとら貸しも借りも富士の山より積もり積もってんだ、そっちがおっちぬ前にいっちょツケの清算としゃれこむかい」

「テメェのケツも拭けねぇガキが、粋がってんじゃ――」

 と、構えた二人の腰に再び激痛が走る。

 しばらく安静にしていたせいか、体力が有り余っているようだ。この二人はいつもこんな感じなので、間に入った八房はさぞや苦労したことだろう。

 伏見の介添えで、二人は再び布団に伏せる。元気があるのは何よりだが、こんな調子では治るものも治るまい。

 お互いにいい歳なんだから、もう少し落ち着いてくれませんか。

 そんな言葉が伏見の脳裏に浮かんだけれど、それを口にすれば今度は伏見に矛先が向くだろう。どうにも面倒で、伏見が口を噤んだ。

「あー、痛ぇ。……しかしまぁ、お疲れさん。勝手が分からねぇにしちゃあ、よくやったじゃねぇか」

「いえ、自分は仕事をしただけですんで」

 謙遜し頭を下げる伏見に対し、組長は満足げに笑う。

 懸案事項であったシノギと身の安全を、伏見は酒瓶一つで手に入れて見せたのだ。例え血の繋がりはなくとも、親としては鼻が高いのだろう。我が事のように喜ぶ組長を見て、伏見は少し、苦労が報われた気がした。

 腰さえ悪くしていなければ、その肩を叩いて労うところだ。

「それにしても親父、その腰のは、エルフに貰ったんですかい」

 伏見と山喜、うつ伏せになっている二人の腰には、何やら刺激臭の漂う緑色のペーストが塗り込まれていた。

 これがシドレの言っていた薬の正体だ。組長が体調を崩し、シドレが薬を処方した――なるほど、何一つ嘘は言っていない。怒るよりも、上手いことやられたなと感心するばかりだ。

 そのハッタリを用いた交渉も、結局は全てご破算になった訳だけれど。

「なんでも、痛みと炎症を抑えてくれる薬だそうでな。わしらが倒れて動けなくなったもんだから、あのお嬢ちゃんが紹介してくれてよぅ。おめぇからもまた礼を言っといてくれや」

「……承りやした」

 次にいつ会えるかも分からず、礼を言うのも癪だ。けれどそんなことよりも、伏見は薬の正体が気がかりだった。エルフの薬をキメるシドレをその目で見てしまったのだから、無理からぬことではある。

「で、親父の方は腰以外に何か変わったことはありませんでしたか」

 疑るような眼差しのまま、伏見は組長に尋ねる。

 シルセやファティが襲われたのだから、組長らもイミュシオンに襲われたのではないだろうか。そんな意図の質問に、組長は表情を曇らせ、深く重苦しい溜息を吐いた。

「変わったこと、なぁ。あったっちゃあったんだが、これがどうして……」

 代わりに応えた山喜が、隣に伏せる組長に視線を振る。

 その表情を見て、伏見はその原因をすぐさま察した。親父がこんな顔をするときは、大体がお嬢絡みだ。

 伏見に対して目も合わせず、組長は拗ねたように口を尖らせる。

「一体何があったってぇんですか」

「……娘が」

「お嬢に何か?」

「……娘が、な。うちの組に入るって言って、聞かねぇんだ」

 どうしよう、と組長は頭を抱え、その動作にまた腰が痛み、情けなく声を上げた。

 子供の見ていない前では、父親なんてこんなもんである。

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