063話.少女たちの戦い
思考は、中々現実に追い付いてくれなかった。
煙を見て、まず連想したのは炎だ。シルセの家が火事になったのかと思った。けれどそれにしては熱を感じず、煙は見る間に人の形を成して、その全身を板材の隙間から抜いた。
イミュシオン――エルフの神敵を思い出した時には既に遅い。ファティの頭を撫でるように、輪郭のあやふやな腕が目の前にまで伸びている。
「あぶ、ないっ!」
硬直してしまったファティの襟首を、シルセの手が捕まえた。けれど腕力が足りていない。シルセの身体は小さく、軽すぎて、年上の少女を逃がす役には立たなかった。
だから、シルセはそのままベッドから転がり落ちる。
その勢いに引きずられて、ファティはベッドの脇へと落下した。
「ひぐ……っ!」
受け身も取れず、ファティは息を詰まらせる。下敷きにされたシルセは、もがくようにして抜け出すとベッドの逆側、サイドテーブルへと手を伸ばした。
掴んだのはランプの取っ手だ。煙に向かってその火を突きつける。
「やっぱり……。ファティちゃん、立って!」
伸びきっていた人影の腕が、ランプの火を恐れるように散らされた。
近隣の神敵ならば、その性質や弱点を知っておくのはこの世界の常識だ。煙状の姿に炎を嫌うこの性質――シルセに思い当たるのは、アウロクフトの神敵くらいのものだった。
不定形な身体をさらに崩し、イミュシオンはランプを避けるようにいくつもの腕を伸ばす。
「シル、ごめ……っ!」
「いいから逃げる!」
ファティが立ち上がるのを待って、シルセは子ども部屋を飛び出した。
廊下に出て、すぐ向かいは両親の寝室だ。ドアを叩き、シルセが声を上げる。
「お母さん! お父さん!」
「シルセ、ランプ! ランプ貸して!」
両親を起こそうとするシルセからひったくるようにランプを奪い、今度はファティがイミュシオンに立ち向かう。その腕が伸びるたびにランプをかざし、追い払おうと必死に抵抗して、けれど無為に終わる。
子供部屋の壁に開いたわずか隙間から、煙が幾筋も立ち上っていた。
「――ッ! シルセ、逃げるよ!」
自分よりも幼い少女の手を取り、ファティは足早に玄関へと向かう。シルセの腕は、最後まで両親の部屋へと伸びていた。
「待って、お父さんとお母さんが、まだ……!」
「大丈夫、多分だけど、イミュシオンは――」
抵抗するシルセの腕が水差しや銅鍋に当たって、そのたびに二人が身体をすくませる。それでもファティが歩みを止めないのは、彼女なりの推測があったからだ。
もしイミュシオンが無差別に人々を襲い始めたのなら、多くの村人がその毒牙にかかっているだろう。イミュシオンは音もたてず気配もない、極めて優秀な暗殺者だ。その場合、シルセの両親は既に死んでいる可能性が高い。起こすだけ無駄――なのだ。
そんな考えたくもない可能性を、けれどファティは否定する。
イミュシオンが無差別に村人を襲っているのではなく、ファティかシルセのどちらかが彼らの条件に抵触してしまった。そう考える方がはるかに合理的だ。その場合、両親は狙われていない可能性が高く――だから、彼らは起こさずとも安全だろう。
答えはすぐに出た。
陶片が散乱した床の上を、滑るようにイミュシオンが近づいてくる。
「やっぱり……狙われてるのは私たちだ!」
閂を外し、二人は扉を抜けて夜空の下に躍り出た。剥き出しの足裏に、地面の冷たさと尖った小石の痛みを感じる。手元にランプがあるせいだろう、火に慣れた目に村は暗く、星明りすら頼りない。
後ろ手でドアを閉めるが、何秒も持たないだろう。次にまた走り出すため、二人の少女が息を整える。
「……イミュシオンって、確か……」
「火と塩、お酒に――神樹の枝」
当然、神樹の枝はこの村にない。ランプの火程度では怯ませるのが精いっぱいで、塩と酒は蔵の中だ。子どもの腕力で破れるほど蔵は柔くない。
手詰まりだ。
「逃げて、大人を起こして、蔵を開けて……ダメ、絶対に追い付かれちゃう……」
必死に可能性を探るが、答えには辿り着けない。その間にも扉や壁の隙間からイミュシオンが漏出し、ゆるゆると元の形を取り戻していた。
親指の爪を、ファティは強く噛む。答えのない思考は空転し、息は荒く、汗をかいた額に前髪が張り付いて煩わしい。
「シルセ、逃げ」
逃げよう、と言おうとして。
言葉よりも先にシルセがファティの手を掴んだ。村の外れへ向かい、弾けるように走り出す。
「だったら、燃やそう!」
「こんな火じゃ、とても……」
「他に燃やすものがあればいいんでしょ!? だったら――」
二人が逃げ込んだのは、一軒の廃屋だった。
神殿、蔵に続いて村では三番目に大きな建物だ。とはいえ今は見る影もない。壁は半分以上が焼け崩れ、元々あった二階部分は跡形もなく瓦礫と化している。かつて家屋を支えていた太い柱は半ばで折れて、それでもいじましく直立を続けている。
どこもかしこも炭と灰で埋め尽くされ、建物のほんの片隅だけが煤に汚れた木材を残していた。
「ファティちゃん、来た来た来た! もうすぐそこ!」
「こっちは今終わった! シルセちゃんも早く!」
ファティの位置からもイミュシオンの姿は既に見えていた。廃屋の向こう、煙のような身体は土も踏まず、それでも人の歩行を真似するように両足を動かして、まっすぐに少女たちを目指す。
騒ぎを聞きつけた村人たちが扉から顔を出していたけれど、イミュシオンは彼らなど見えてすらいないように振る舞っていた。
「タイミング、お願い出来る?」
「う、うん……」
ファティとシルセ、どちらがイミュシオンに狙われているのかは不明のままだ。
誘導を確かにするため、ファティは焼け残りの壁に隠れた。シルセはその傍らに立って、イミュシオンの動向を観察する。
イミュシオンはこちらへとまっすぐ向かってきた。足場の悪い瓦礫の山もまったく意に介さない。粘菌じみた
最適解で、ファティが身を隠す壁へと迫る。
「待って、まだ、まだ、まだ……今!」
迂回すらせず、隙間だらけの壁をイミュシオンが通り抜けようとした。ファティが狙っていたのはそのタイミングだ。
地面に置いていたオイルランプを倒し、中に残ったわずかな油が火種に引火する。
獣脂の焼ける嫌な臭いが辺りに広がった。
石油製品とは違い、揮発性に乏しい油だ。壁板に塗りたくられた油を辿るようにゆっくりと炎が広がる。足元にもオイルランプの油が撒かれ、イミュシオンを閉じ込めるように円を描いた。
伏見がゴブリンを駆除した方法、その焼き直しだ。アイデアはシルセで、具体的な方法はファティが詰めた。さらに炎上させるべく、壁越しに不完全燃焼していた木材を投げ入れる。
まるで、炎に喰われていくようだった。
獣脂から燃え広がった炎はその舌を伸ばし、壁に張り付いていたイミュシオンの身体は悉く呑まれ消えていく。
その段になって、ようやく村人たちも集まり始めた。先頭はシルセの父母だ。
何があった、どうしたのかと尋ねる大人たちの声もどこ吹く風。
ファティはその場にぺたんと座り、シルセがその隣でしりもちをつく。
長い長いため息で、二人は身体を弛緩させ――投げ出されたシルセの足を這い上がる、イミュシオンの欠片を見た。




