058話.ヤクザ、推測する
シドレはただ、慈しむように大樹の肌を撫ぜる。
たったのそれだけで、齢を重ねた松の古木は従者の如くその身を伏した。対岸めがけて幹を伸ばし、枝に乗せたエルフの射手を伏見の前に届ける。
確か――レーネという名前だったか。
身軽に枝から飛び降りて、レーネは得意げに、長弓と矢を振り回して見せた。
「おい。伏見とか言ったっけか? 山猿に助けれた気分はどうだよ、ああ?」
先ほどのやり取りを根に持っていたらしい。近づいて伏見にガン垂れるが、小柄なせいでどうにも迫力に欠ける。長命のエルフだ、見た目通りの年齢とは限らないけれど、チンピラか悪ガキくらいにしか見えなかった。
虚勢も張らず、伏見は律儀に会釈を一つ。
「いやぁ、助けられて文句を言うほど恩知らずじゃねぇよ。ありがとうなぁ山猿」
「てめ、この……!」
「弓の腕はなかなかじゃねぇか。少なくとも俺には当たらなかったみてぇだし、魚と人の区別がつくなんてすげぇなぁ山猿」
褒められたのか馬鹿にされたのか、レーネは目まぐるしく表情を変える。幼稚で小生意気だが、子どもはこれくらいでちょうどいいのだ。大人としても、これくらいが扱いやすい。
「……兄貴、やっぱりロリ……」
「それ以上言うと〆んぞー」
病人だろうがおかまいなしだ。
さておき、救われたことに変わりはない。情報源が自らやってきてくれたのも有難かった。何しろ、元の場所に戻ったところでシドレに会える保障などなかったのだ。
いつの間にか日も落ちかけている。エルフが同行してくれるのなら、複雑な森の地形も少しは歩きやすくなるだろう。
松の木を渡り、シドレもまたこちら側にやってくる。その背後ではもう一人のエルフがバランスを崩して川に落ちたりしているのだが、気に掛ける様子もなかった。そこらに魚の死体が転がっていることなど歯牙にもかけず、シドレは優雅に川辺へと降り立つ。
「イミュシオンに追われて、よくここまで逃げおおせることが出来たものです」
「……やっぱそちらの持ち込みネタかい」
予想通り、とは言えないか。
疑惑の答えが向こうからやってきた。落とした財布じゃあるまいし、シドレにはわざわざ伏見を追う理由はないはずだ。にも関わらずシドレはこうしてここに来て、あまつさえ伏見を助けもしたのだ。
霧の化け物――イミュシオンとエルフは、決して無関係ではない。
「オイ、あの化け物はなんだ? なんで俺らが襲われた?」
「……レーネ。矢を回収してきてちょうだい。こんな場所、早く離れましょ」
伏見の言葉をはぐらかすように、シドレは背を向けた。ガン垂れていたレーネを体よく追い払い、その視線だけを伏見に流す。
「お話は後で。トルタス村までは送ってあげますから」
「そりゃありがてぇことだがよ。こっちはあの化け物に襲われて、被害も出てんだ。三ツ江があれ――イミュシオンだったか? あの霧みてぇなもんを吸っちまって、どうにも具合がよくねぇ」
伏見のセリフに合わせて、三ツ江はわざとらしくせき込んだ。
半ば演技ではあったけれど、残り半分は事実だ。先ほどから、どうにも息が苦しい。走ることはもちろん、歩くことすら億劫だった。
「ありゃ、そちらの神敵なんだろ? ならそっちの責任だ、その落とし前どうつけてくれるんだい」
「……嫌なところを突いてくる……」
衰退森林都市アウロクフト。
外部からの接触を拒絶する――というのは思いのほか難しいのだ。そこに利害が関わる限り、関係せずにはいられない。かつての日本が、鯨漁の停泊地として開国を迫られたように。
利はこの広大な森林そのものだろう。アルカトルテリアでは恒常的に森林資源が不足しているけれど、力ずくで奪っても利益が薄いから、アウロクフトはその閉鎖的な環境を保っていられるのだ。
一方、害についてはその影響が大きく異なる。
例え実害がなくとも、あるいは噂、風聞に過ぎないとしても。
人は、ただ怖いというだけで他者を殺せる生き物だ。アルカトルテリアの人間がアウロクフトの神敵に襲われた――そんな情報一つで猜疑心はどこまでも広がっていく。内情を見せないアウロクフトの有り方は容易く悪意を増大させ、その先に森林資源の獲得という利益を見出せば商人らも黙ってはいられないだろう。
無関係だからこそ孤立を守れる。そして、利害とは無関係から程遠い状態だった。
シドレはあるかないかの笑みで溜息を零し、大きく一つ、譲歩する。
「治療するなら、村に行くしかありません。――来ますか? 私たちのアウロクフトに」
その表情は、諦めることに慣れた人のそれだった。
「イミュシオンは私たち、アウロクフトの神敵です」
森の奥深く、エルメの村へと向かう道のりで。
先を歩くシドレは、唐突にその口を開いた。
夕焼けの紅も届かない暗がりの森はシドレの力によって歩道のように整備され、手際よく用意された松明が揺らめきながら足元を照らす。
空恐ろしい未知の森も、こうなってしまえばハイキングみたいなものだ。伏見らは手ぶらのまま、シドレの言葉を聞いていた。
「煙の姿で現れ、人の身体を肺から侵し、人以外の生物を殺して操る。……伏見も見たでしょう?」
「見たっていうか、実際に体験したんだけどな。ありゃ一体何なんだ」
トルタス村のゴブリンは確かに異形ではあったけれど、それでも肉の身体を持っていた。対して、イミュシオンは煙状の何かだ。単なる物質、現象であるはずのそれが、まるで意思を持つように伏見らを襲った。その正体は、未だ判然としない。
「対抗策があるんなら聞いておきたいんだがね。あの矢は何か特別なもんなのか?」
「あの矢は神樹の枝から削り出した特別製ですよ。あとは酒、塩、それに火も効果があるらしくて。試したことはないですけど」
「……火も効果があんのか? 煙なのに?」
弱点を聞いて、伏見は一つの仮説を立てる。
神樹の枝で作った武器――というのは、この世界に存在する神の力なのだろう。イミュシオンと同じく、神樹もまたこの世界のファンタジー要素だ。どんな面白能力があるのか知れたものではない。
酒、塩、そして火。それは、世界各地で神聖視されているものばかりだ。
酒は腐らず、塩は肉や魚を保存させ、火は腐敗の元となる菌を殺す。
人が死ねば、残された身体は腐敗するのだ。人が死を恐れるのなら、腐らない、腐敗を防ぐものを神聖視するのは自然なことなのだろう。
ならば、イミュシオンの正体は――穢れ、換言するところの菌類――だろうか。
そこまで考えて、伏見は結局この仮説を保留した。
先ほどまで対峙したイミュシオンのイメージと、穢れという言葉がいまいち結びつかないのだ。
必要な情報が一つ二つ、抜けているような。
興味は尽きないけれど、今はお勉強の時間ではないのだ。対処法が分かったのなら、それでいい。
「……どうでも、いいスけど。エルフなのに神敵は……オークじゃないん、スね」
「ホンットどうでもいいから黙ってろな」
ゆっくり歩いているだけのはずなのに、三ツ江の息は荒く、明らかに疲労していた。イミュシオンの毒――とでもいうべきだろうか。
そんな状態になっても言いたかったのかソレ。




